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一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑧

一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑧

1-3 一条の〝底辺女性〟への視点

 一条は〝底辺女性〟をいかに描いたか。『歩まされた宿命の道』(初出不明、『日本の女』1972年所収、『永遠の農婦たち』1978年再録)を抄録します。ここには、農村の困窮、口べらし、身売り、性暴力、家父長、開拓、嫁姑問題、介護、そして自殺が描かれています。
 
 私は奥羽山脈の秋田県よりの小さな僻地に生まれました。…家族は9人という大家族で、実に苦しい大変な生活でした。…私は7つのとき荷車にひかれてしまいました。びっこになってしまいました。
 くる日もくる日も私は妹たちの子守で、とうとう姉は遠い町に、私は隣村の魚屋の親類に、子守として出されてしまいました。それは口べらしのためでした。
 昭和6年、魚屋から連れもどされた私は、思いがけなくも、遠い町に奉公に出されていた姉とともに、福井県の繊維工場に売られてゆくことになっていました。私は13歳、すぐ上の姉は14歳でした。
 父は前金を受け取っていました。1年間50円、3年間で150円を私の分として、周旋人から受け取っていました。
 祖母と母は、涙を流して、父に何かいっていましたが、父が、
 「このままでは、わらしどもが大きくなるまでに食いつぶされて、家もなにも無くなってしまう。家のためには仕方がないではないか」
 と大声でどなっていたのを覚えています。
 出発の時、祖母は声をこらえて泣き、「早う死にたい。早う死にたい」母は「体をいたわって働けや、仲良くしてけろや、絶対に男のいうこと聞くんでねえよっ」と声を限りに泣きさけんでいました。
 紡績工場での生活は、…檻の中に入れられたような生活だったのです。…女工生活は、凄惨きわまるものでした。身体のあまり丈夫でない者はどんどん胸をおかされて、倒れていきました。中にはお腹が大きくなる人もいたのでした。私は、母の別れぎわにいった言葉をいつも忘れませんでした。ズロースを3枚も、持ってるだけ、ありったけはいて、夜は腰ひもでしっかりと腰から下をゆわえて休みました。…とても意地の悪い女の監督がいましたが、私が組長に対して態度が悪いといって、監督室に連れてゆかれ、髪をむしってせっかんされました。
 そして、組長が私を物置き小屋のような部屋に引きずって行き、〝いうこと〟を聞かせようとしたのです。私は必死に抵抗しました。…目の前にあった大工道具ののみで、のどを突いて死のうとしました。そしたら、組長は私の髪をぐいとひっぱり、舌打ちして荒々しい足どりで出ていきました。
 3年で前借を終えるはずでしたのに、…私たちのわからないこの世界での特有なからくりのために、借金を姉とともに返し終えたのは、丸5年の歳月が流れてからでした。
 思い返せば、氷に石をぶっかけたような上に立ち働いていたようだった5年間。自分が生んだ息子にさえ、自分のいい分が通らぬ祖母のあのみじめさ。自分の夫であるのに、何一つ相談されず、何一つものもいえず、自分の娘を売られることさえ、そのどたん場にならぬうちは知らされることさえない哀れでみじめな妻である母。一家の絶対の権力をにぎり、家のためには子どもまでも犠牲にすることのできる父という者。家とはなんと憎らしい存在であるのだろう。こういう考え方を、私は故郷を遠くはなれた福井県に来て、知ったのです。
 帰りたくもない故里ではあるが、私は老いた祖母や母、そして姉弟妹に一目でも会いたいものと思って、帰る決心をしました。ところが、姉が紡績工場で胸を犯されていたのです。家に帰ってからどんどん悪くなり、すぐに亡くなってしまいました。
 昭和12年、私が19歳のとき、父は突然私を嫁にやるといい出しました。相手の男は、実に話しにもならない50を過ぎた人でした。…私は決心しました。寒い冬の夜でした。小さい風呂敷包みを持って、真夜中に家を抜け出したのです。それから実に6年の間、私はある家のご飯炊きとして住み、本当によくしていただきました。
 運命の日がきました。ある日、とうとう、血なまこになってさがしていた父に見つけられてしまったのです。そして、せっかくご恩ある世話になった家へ、父は悪態をつき放題ついて、私をぎりぎりと家に連れもどしました。
 昭和18年、私は父の計らいで、豊丘高原開拓団の集団結婚の花嫁募集に出され、見たこともない人に嫁ぎ、開拓入植者の妻として、人生を送ることになりました。「産めよ、ふやせよ」「食糧増産」「総力を上げて国土開発せよ」等々、国策のはげましのなかで、私は夫と一緒にただただ食糧増産にはげみにはげみました。
 私たちは必死になって働いて、どうやら一緒に入植した人たちから落伍しないように頑張ってよかったのですが、夫の実家のことが大変でした。…兄嫁の帰った後、今度は姑が来て、愚痴をいう、という具合でした。…相続の方はどうなっていたのかといいますと、新憲法のもとでは、財産分与してもらう権利が生まれたのですが、兄夫婦たちは、誰にもやらず、親が死んでしまっても文句が出ないように、親の全財産をちゃんと自分たちに登記してしまっているのでした。
 集団入植以来、私は無理のしどおしで働いてきましたし、夢中で過ごしているうちに、7人の子どもができていました。酪農の重労働から家事、子や夫の世話等なかなか大変でしたが、それでも過去にくらべたら本当に楽でした。…そこにある冬の夜、夫の年老いた両親が吹雪とともに転がり込んで来ました。兄夫婦と争いをしたというのです。…親子11人の生活がはじまりました。経済的にも、精神的にも、私たちは実に大変でした。それでも、夫が他の兄弟も混えて話し合い、いったんは両親ももどって行きました。
 この頃、酪農を中心にしている開拓者は、本当に大変な峠にさしかかっていたのでした。農協に納めた牛乳は、飼料代を差し引くといくらも手元に残らず、返済金に追いたてられ、そのうえ、品種のいい牛を導入する必要に迫られていました。この開拓地でも、出稼ぎ者が増してゆき、家畜の飼育は、全部女と子どもの仕事となってきました。
 またまた、両親と兄夫婦たちの間に面白くないことが起きて、とうとう今度は、身のまわり品を持ってわが家に入りこんで来ました。
 そして、その冬、舅が中風で倒れてしまったのです。兄夫婦はもうこの老人を家にもどそうとはしませんでした。リンゴ箱に舅の汚れ物を入れて、吹きだまりの腰まで沈む道を下って小川に行き、氷を割って振り洗いをし、家にもどってストーブの湯できれいに洗って干す仕事が、連日続きました。こうしてふた冬、私の足はずきずきと痛むようになって、小川まで下るにもおぼつかないぐらいになりました。
 「よし、夜に橇に父と母を乗せて送り返そう」と、夫がいい出しました。夫は出稼ぎをやめることに決心していました。夫が、そのことを姑に告げると、姑は目尻をつり上げ、声を限りに私を罵倒したのです。私が夫に知恵をつけたというのでした。「この、びっこのくせして」と叫びました。
 私は舅や姑を橇で送り返すなど、思っただけでも悲しかったのです。私はずいぶんとつらい生活の中で生きてきた人間なのです。なんでこの苦しみに耐え得ぬことがありましょうか。
 もうこうなっては仕方がなかったのでした。子どもたちも、高校にやらねばなりません。
 この頃になって、年老いた私の父もたびたび訪ねてくるようになりました。私を売ったあの父でしたが、やはり老いるということは寂しいものです。弟の嫁の愚痴をいいにくるのです。

 雪降る真夜中に、風呂敷包みひとつを持って家出した彼女を、6年間もかくまっていたのは、私の祖母でした。この手記は、そのおりおり、私が会ったときに聞いたものです。
 私が彼女の自殺を知ったのは、彼女が亡くなってからずいぶんたってからでした。夫が、まとまった金がほしくて、仲間と一緒に、一カ月くらい賃金の高い仕事に出稼ぎに行った間のことだそうです。その頃、彼女はもう、自分の家の中をやっと歩くだけで、大変な痛みだったようです。彼女の夫は、きっとお金を沢山取って帰り、彼女をいい医者にかけようとしたものと思います。
 あの責任感の強い彼女の上に、何が起こったのでしょうか。両親は彼女の所で二人とも亡くなったそうです。
 彼女は牛舎の二階で農薬を飲みました。

 救いのなさは、一条の文章の特徴です。現実が、一条をして、このように書かせました。
by open-to-love | 2010-02-11 22:04 | 黒田:岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)