精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その54

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その54

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

三 我が国の精神障害者の状況
 精神病(障害)者についての一般的認識(世論)や態度形成は、その国の専門家の知識、対応の力量、情報提供と行政施策などによる処遇の内容いかん、そしてマスコミ報道の質によって支配されるといって過言ではありません。
 障害(病)者や回復者の組織化と一口に言っても、実はそうした市民や専門家の認識下にあって実に長い間我が国の貧困な精神科医療と社会復帰、低い人権意識、貧弱な福祉システムの下に、不当にも組敷かれてきたと言えます。その代表例が精神障害者の病識、病感についての論議とその結果としての本人の意思能力、責任能力の有無についての評価でした。近代刑法では西洋からの流れで「心神耗弱これを減刑す。心神喪失これを罰せず」という規定があったため、それが逆手にとられ「精神障害(病)者は罪を犯しても罰せられないのだ」「それだったら鍵や鉄格子の中に隔離収容してもやむをえない。それが当然だ」に近い認識から出発して世論が形成されていったと思えます。為政者側からみても専門家の情報と国民世論の動向を楯に、日本の全病床数一四〇万床のうちの四分の一、三五万床、全障害者四五〇万人のうちの約四分の一、一三〇万人の精神障害(病)者問題は(国民の総医療費一七兆円のうち精神科医療費一兆円という形で)常に施策順位の後方に位置づけられ、見過ごされてきたのです。それは日本の精神科医療が常に西欧からワンテンポ遅れた旧式の精神医療(閉鎖式治療や、入院中心主義)を移入し続けてきたからなのです。その結果、西欧が開放化、コミュニティケアシステムに変わったとき、我が国はようやく民間病床数増大策(しかも閉鎖的入院中心主義)をとる段階でしかありませんでした。先進西欧諸国から遅れること三〇~四〇年、我が国は精神障害(病)の医療、社会復帰、福祉施策後進国でした。
 そして昭和五九年宇都宮精神病院での入院患者致死事件といった、精神医療の内容が根本から問われるスキャンダルを契機に、国連人権小委員会そしてICJ(国際法律家委員会)・DPI(国際障害者会議)の調査団来日となったのです。しかも我が国における精神障害(病)者問題の対応は昭和六二年の精神保健法改正の場合もそうでしたが、明治、大正、昭和とすべてこうした不祥事件がらみでしか、法制度的な面での改革がなされなかったのです。その上社会復帰施設については、いわゆる区市町村という住民福祉を担当する部署において、必ずしも対応する窓口の役割が明確でないままであり、その施策実施は危惧され続けています。先の三五万の精神科病床数のうちその約九〇%、病院にして一六〇〇余りのうち八六%が企業的会計の私的医療機関(含法人)として経営されているものであり、これは世界に類例をみないことです。さらに、いまだどちらかといえば入院中心的であり、向精神薬や開放病棟が喧伝される割に逆に薬の過投与、長期依存を生んできています。また実際の開放率はここ一〇年間五〇%前後で微増でしかないと言われており、依然として密室的様相を呈し続けてきているのです。
 また精神障害(病)者の社会生活を支援する福祉施策は国の心身障害者対策基本法の対象としても明確に示されておらず、新精神保健法でわずか三種の社会復帰施設が規定されたのみで、障害(病)者が安心できる生活、仕事、住居などを保障する施策は無いに等しいのです。もちろん障害(病)者を生活困窮の度合いに応じて一般市民的に処遇する施策としての公的扶助、すなわち生活保護法による各種給付、または救護、更生施設などにおける精神障害(病)者の利用が結果的に増加してはいます。だけれども、やはり生活困窮のみならず病気の特徴それ自体に根ざす生活障害を合わせもっている、まさにその部分に対応していないことは不公平です。
 一方、かつて精神病を障害認定することは、廃疾認定という診断で治癒不能宣告することだから好ましくないという解釈をしていた精神科医療関係者が多かったのです。しかし、内実は単に「廃疾認定」という言葉や表現にこだわっただけで、逆に長期療養による患者の社会性の喪失、それに伴う深刻な影響など、はるかに重大な生活障害が見落とされていました。このマイナスのほうがより大きいと言えるのです。大切なのは、心病む精神障害(病)者の人格や生活構造を、全体的にしかも時間経過を含めてつかむことであって、虫眼鏡で精神病理現象や不適応部分のみを拡大凝視することではありません。すべてを精神科医療で、と考えるのは過信であり、三食、薬と少ない活動だけの病院(施設内)生活を強いて対応することは不適切です。もちろん、最初病院に患者を預けた家族としても、あまりに依存的で病院に任せきりであることを反省する必要があることは言うまでもありません。日本の精神医療機関が長期在院患者でその大半を占められ、社会的入院と称して退院不能な状態を生ぜしめていることは精神障害(病)者とその家族たちにとっても、また、人道的側面からみても問題なのです。
 その意味で、回復者クラブと障害者の組織化を論ずる基本的前提は、まず精神障害者も病感、病識をもち、したがって意思、判断能力も大体において有するし、場合により限定責任能力も有していると考えることであり、これが認識のスタートです。もちろんごく一部の陽性病状経過の継続者もいなくはないのです。しかし、精神障害者の事故や犯罪のように明らかに統計的に極少な事象を針小棒大化し、一般化してしまう悪弊が日本の悪しき精神障害イメージ、処遇施策をつくってきたことを忘れてはなりません。病感、病識がないという前提が鍵や鉄格子、もしくは閉鎖病棟を主流とさせ、そしてそれ以上に患者や家族、市民に不安感、恐怖感を抱かせ、早期受療を足踏みさせ、なおかつ隔離を招き、また一方ではホスピタリズムという非社会的人間化を大量に、実に不可視的に増大させてきた現象を見逃してはなりません。初発のころにせよ、再発再入院にせよ、今の精神病院の多くが鍵や鉄格子を装着しているがゆえに、自分の内心に不安があったり(病感)、何か変だという自覚(病識の源)があっても、とてもではないが受診や入院したいとは思わず、問診などされてもそれらしきことは否定しがちなのです。そして、そのことのみが表面的にとらえられ、病識がないとされやすい。こうした状況を認識しなくてはなりません。
by open-to-love | 2009-12-29 10:29 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)