精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


by open-to-love
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』その8

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』その8

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

六 青春の放浪の旅を終えて
 昭和三九年に精神病院通院中の少年によるライシャワー米大使刺傷事件が起きた頃、私は、一家族として精神障害者の医療と社会復帰のために社会福祉を学んでいた立場から、興味深く精神衛生法改正作業を見ていました。大学卒業と法改正が一緒であって、その当時「精神病(障害)の兄のために何か役立ちたい」という気持ちと「ひょっとして自分も兄の発病時の頃になったらどうなるだろうか」という不安、そして「兄が病気であることで他の兄弟姉妹がよい就職も縁談もうまくいかないのではないか」という一種のペシミズムのとりこになっていました。そのため、正式な就職を留保して、学生時代にやっていた定時制公立高校の事務をしながら、アルバイトのようにして全国社会福祉協議会(全社協)内で、まだ十分組織が固まっていない全国老人クラブ連合会の法人化の仕事などに従事しました。
 しかし当時から全社協は厚生省、政権政党との交渉で、政策や予算と選挙の票とギブアンドテイクの関係であり、この全国老人クラブの仕事も私の青臭いペシミスティックな考え方とは両立するはずがありませんでした。その生き方に迷いを生じ、「昼と夜働くのはよいが、私の青春はこれでよいのか」「確かに遊ぶ暇がないから多少の貯金もできるが、自分の人生これでよいのか」「社会福祉の仕事に、兄の精神病治療、社会復帰をやるべきではないか。もしそうでなければすべてを捨てて国外脱出でもしてみればよい!」などと深刻に迷い始めたのでした。
 迷いだして半年。今までの昼夜の二つの仕事を一挙に辞めて郷里に帰り、「本を読んでしばらく考えて暮らそう」と決心したのです。私は二枚の辞表を書きました。しかし二つの職場の親しい同僚からいぶかられ、心配されました。「次の就職のあてもなくただ無職になって郷里に帰るなどという例は常識的でない。五年間勤務した公務員籍だって、もう一度入ろうにも簡単ではない。考え直したほうがよいのではないか」「何か悩みがあるのだったら相談にしよう」という好意的な人たちばかりでした。そんなわけで、私が一年間くらい頭を冷やし、ゆっくり本でも読んでもう一度きちんと自分の生き方を考えたいと言っても、ほとんどの人が反対でした。私の母、兄、姉たち肉親はきっと長兄の発病と同年齢期であったから反対しつつも、はらはらしていたに違いありません。ともかく原宿の下宿を小さなライトバン一台に学生時代の本、それに布団一式と少ない家財道具を乗せ、引き上げての帰郷でした。
 六年ぶりの実家での生活は一〇日間も過ぎたら針のむしろとなりました。帰郷した四、五日は帰ったことを慰めてくれる意味で母や姉も気遣ってくれお客様待遇ですが、その後は家事分担を求められます。一週間もすると「身体の具合いがどこも悪くないのだから早く仕事につけ」と言われます。きちんと食費を家に入れていてもです。近所の人の間でも、「何でぶらぶらしている」と言われます。一、二度テニスの相手をしてくれた旧テニス部の友人も週日は仕事があります。所在ない私は図書館に行き、公園でボートに乗り、また利根川に釣り糸を垂れます。しかし今でも当時の地方社会でも日本は、「働かざる者は食うべからず」で、五体満足な若者が、しかも素封家でもないのに日中ぶらぶらしているのはその地域に似合わないのです。
 いたたまれず、一人で考え事をするため私は、数か月の生活費分を含む郵便通帳を持って北海道行きの夜行列車に乗りました。家を出るとき、いつ帰るか分からない旅行に、学生時代からよく一人であちこちの山を歩いたりしたことも知っているとはいえ、大反対の母、姉を一週間に一ぺんくらいきちんと葉書を出すからと説得しての出発でした。従来から山好きの自分は、大学時代も友人と行くこともありましたが、ほとんど一人での山行きでした。「なぜ山に登るのか」の問いもありますが、私の場合ほとんどが人を避けてのことでした。本当は心の内のすべてを打ち明けて、誰かに自分を理解してほしいと強く望んだときこそ一番強行な山歩きを、しかも一人でした感があります。つらい行程の果て、頂上で束の間の日の出を見、あとはひたすら身体に鞭打ち、心中自問自答の連続です。こうした悩みが深いときほど行動範囲を広げる結果となり、自分の身体的疲労と精神的葛藤とを交互に乗りこなす我が内面のバランスコントロールを覚えていきました。当時の愛読書はJ・ルソーの「エミール」や「新エロイーズ」であり、桑原武夫編の「ルソー研究」であり、また英語の教科書の翻訳本ジョージ・ギッシングの「ヘンリーライクロフトの手記」でした。小さな大学での講義に、一年から四年まで哲学、社会思想史、音楽、レクリエーション論に出席を続けたものですから、教授達を不思議がらせました。
 〝青春の放浪の旅〟とでも名づければ格好よいが、私にとっては精神病(障害)者家族としていかに生きるべきかの心を整理する日本縦断ヒッチハイクと、自転車の単独山歩きを兼ねた四か月間の旅となりました。もちろん一人でです。旅の最初の予定は稚内から徒歩でしたが、三日目にして十円玉大の足の豆に痛めつけられ、五日目にはヒッチハイクに変わりました。その後、大雪山五日間登行の後、旭川付近で私を自動車に拾ってくれた旅商人の手伝いをすることになり、札幌で一〇日のアルバイト代九〇〇〇円を貰い、六〇〇〇円で三段ギア付き中古自転車を買いました。
 ここから自転車旅行に変わったわけですが、夜明けとともに起き、すぐ自転車をこぎだし、適当に海や川や水道のあるところで顔を洗い、朝食を店を開けたところで食べ、ひたすら日本海側を南下します。道筋の食堂で安い昼食をとり、またひた走ります。山登りでもそうですが、つらい苦しい登りのときは、自分は何でこんな苦しいことをするのかと考えます。やがて頂上に立つと苦しさより快さに変わります。この快感が山の妙味です。だが自転車での旅はいやに長く、さほどの快さはありませんでした。まして内心は精神病院入院者の弟として、どう生きてゆくかなどをくどくど考え続けるわけですから。私に生きてゆくことをつなぎとめてくれたのは何冊かの本とわずかに付き合ってくれた人たちの優しさへの想いでした。
 夕方、雨露をしのぐ場所の目星をつけ夕食をとり、寺の境内、公園や橋の下、学校の校庭などにもぐりこみ寝袋の中で疲れをとります。三日目ごとくらいにユースホステルや安宿に泊り洗濯や髭剃りをします。結局大雪山から岩木山、鳥海山、立山、剣、加賀白山、伯耆大山、九州の九重山などの麓に自転車を預け、山の登り下り、そしてまたひた走りして九州を8の字に回り、瀬戸内海沿いに北上、兵庫県尼崎で立ちんぼアルバイトの仕事をし、そして自転車を他人に売り新幹線切符を手に入れ郷里に帰ったのが、ちょうど二三歳の誕生日でした。
 四か月間の一人旅が終わると、こう結論しました。「自分は少なくとも身体的に丈夫であるから、これからどんなことをしてでも生きて生き延びることが大事だ。最小限の衣食を得ることはそれほど難しいことではない。要するに他人の世話にならず普通の格好をして一定の生活リズムを作っておくことで、他人から精神障害者家族であることを悟られずに自立生活できる。心の中では何を考えてもそれはそれでよい」と。そしてさらに「これだけ他人がやらないことをやれたのだから、世間の大体の仕事を自分がやれないわけがない。だから自分自身の精神的発病も心配はない。もしあってもうわべをつくろうことで何とか乗り切れるだろう」と。
 そして精神衛生相談員になるために、精神病院実習を志しました。大学の先輩の紹介で県内の民間病院に約四か月実習兼アルバイトをしました。その間将来家庭訪問などのときのために運転免許もとろうと考え取得しました。そしてまた法改正で言われ出した地域精神衛生活動をするため、精神衛生相談員になろうと決心することができました。
 そんなわけで、私の心の中で精神病に対する「遺伝・不治・危険」のイメージが克服されたとき、私の人付き合いの型ががらりと変わりました。子どものころの、あの天真爛漫な外向的な形にです。そして楽天的にです。自分の置かれた環境、境遇の中で最大限やれることをやるしか生きる道がないことを理解したからです。
by open-to-love | 2009-12-28 09:58 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)