精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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ソーシャルワーカー論③「森田療法とソーシャルワーカー」

共生社会フォーラム資料:ソーシャルワーカー論③

増野肇『森田療法と心の自然治癒力』(白楊社、2001年)

森田療法とソーシャルワーカー

ソーシャルワーカーとの出会い

 1990年に宇都宮大学から日本女子大学の社会福祉学科へ移ることになった。いくつかの理由があったが、その一つが、ソーシャルワーカーの教育ができるということにあった。宇都宮大学では、障害児教育に携わり、何か本来のやるべきことから少し離れたところにいる感じがしていた。たしかに、大学という教育の場に入り、学生を教えることはいやなことではなかった。新しいことを学んだり自分の考えを整理する機会も与えられ、それを利用して『森田式カウンセリングの実際』(白楊社)を出版することもできた。教育の現場に関わり、養護教員などの相談を受けるなかで、学校の先生や「いのちの電話」の相談員などに、もっと森田療法を知ってほしいと考えるようになったためである。
 しかし、地域精神医療の現場では、まだまだやるべきことがたくさんあるように思えた。精神障害者のリハビリテーションに関わる多くのシステムが地域のなかに揃うようになり、それらの活動も活発にはなってきているが、一方で、まだそれらの恩恵にあずからず、精神病という重い課題に悩む当事者や家族の人たちが、たくさんいることも事実であった。これらの新しい成果を伝える役割としてソーシャルワーカーがもっと力を持てるように、その人たちを育てることで少しは貢献できることが残されているのではないだろうかと考えたのである。
 私が最初にソーシャルワーカーと出会ったのは初声荘病院である。福井院長は開院当時、パラメディカルの人たちを重視し、心理士として仕事をしていた私の妻が日本女子大学出身だったところから、日本女子大学を卒業した心理士やソーシャルワーカーが働いていた。一緒に職場を探したり、精神医療を改善する当事者と市民のグループ「あすなろ会」活動に取り組んだが、日本福祉大学にいた窪田暁子先生にお願いして、講演会を開いたこともある。
 三崎の保健所には滝沢武久氏がいて、研究会に参加したり、当時入院中だった身内の相談などで話し合うことが多かった。のちに、氏は初声荘家族会の会長だった川村伊久氏とともに、青年医師連合の揺さぶりのなかで混乱していた「全国精神障害者家族会連合会」(全家連)に入り込み、会の組織化に力を揮う。政治的な発言力をもった現在の全家連を育てた中心人物である。滝沢氏のあとに三崎保健所のソーシャルワーカーに赴任したのが角田英昭氏で、前述したように氏と組んで、カプランの危機理論に基づくコンサルテーションとネットワーク作りの実験的な試みを三崎地区で行うことが可能になったのである。
 1975年に栃木県精神衛生センターの所長に赴任して気付いたのは、県精神衛生協会の事務局的存在で、県の精神衛生を動かしている3人のソーシャルワーカーの働きであった。もっとも歴史のある森病院では大関ワーカーが、当事者のクラブ「つくしクラブ」を組織し、皆で一泊佐渡旅行まで行っていた。両毛病院の増山ワーカーは、やはりソーシャルクラブ「青桐会」を組織しており、やがて佐野地区にクレープハウス「ブローニュの森」を開店することになる。今では、生活支援センターとして2軒のコーヒーショップ、お弁当屋、グループホームなどの活動を繰り広げている。全家連が建設したホテル「ハートピアきつれ川」の授産施設長をしていたこともある。それに、県立病院の関口ワーカーを加え、この3人の協力があって、私が栃木県で進めていった地域精神衛生システムの新しい試みが可能になったのである。
 県の保健所では、都会と異なり、専門のワーカーを置くだけの財政がなく、保健婦を精神衛生相談員として教育するシステムをとっており、精神衛生センターがその教育を担当した。私がセンター長になってから、40日にわたる精神衛生相談員の講習が数年続き、そのなかで多くの専門家を招聘してお話をうかがう機会ももてた。のちに、サイコドラマティストとしてSST等で活躍される前田ケイ教授と出会ったのも、この講習会でのことだった。
 谷中輝雄氏が初声荘を見学に来られ、それを参考にして地域のなかに「やどかりの里」を展開し30年になるが、私もその目覚ましい発展に驚きながら、いろいろな形で応援をしてきた。自分にはできない大胆な試みをどんどん実践していく人として感銘を受けていた。同じような人に、精神病院をやめて、仲間と基金を出資して、ファウンテイン方式のクラブJHCを組織した寺谷隆子氏がいる。また、まだ面識はないけれども、北海道の浦河で「べてるの家」を事務局的存在として支えている向谷地生良氏も、私が敬服しているソーシャルワーカーの一人である。身近なところには、不思議なレストラン「クッキングハウス」の松村幸子氏、全家連での活動のあと、伝統的な精神病院で活動している三橋良子氏らがいる。
 このような人たちの自由な活動を見ていると、ソーシャルワーカーには本来、新しい実験的な試みを実践する役割が備わっているような気がするし、日本の精神医療を改革してきた仕掛人でもあるように思えてくる。私は以前から、医師であるよりはソーシャルワーカーであったような気がしているが、アクションメソッドのサイコドラマが気に入っているのと同じで、性格的にもその方が適しているのかもしれない。とにかく、自分が時間と勇気があればやりたかったと思うことを、この人たちは実践し、実現させてきたと思っている。

ソーシャルワーカーの役割

 ソーシャルワーカーは、最初はケースワーカーと呼ばれていた。ケースワークは19世紀末にイギリスで始まり、アメリカで発展した。リッチモンドは1922年に著書のなかで、「人とその社会的環境との間に個別的な効果を意識して行う調整によって、その人のパーソナリティを発達させる諸過程」をケースワークと呼んでいる。
 ソーシャルワーカーの仕事には、個人に対するケースワークと、グループに対するグループワーク、そして地域への働きかけであるコミュニティ・オーガニゼーションとが含まれると言われている。ケースワークの前身は、1869年の慈善組織協会(COS Charity Organization Society)での友愛訪問であり、グループワークの始まりは英国のセッツルメント活動と言われている。ロンドンのスラム街の悲惨な生活を改善するために、オクスフォードやケンブリッジの大学生が1884年にトインビーホールを設立し、スラム地区に自分たちの生活の場を置き、大学で行っているような文化活動を繰り広げることで、地域の人達の啓発をしようとしたのである。同じ年に、YMCAの活動も始まっている。
 少し遅れて、アメリカでもセッツルメント活動が始まる。アメリカでは1929年の大恐慌をきっかけに、専門家の技法として発展するようになる。ニューステッターが1935年に、グループワークを自発的なグループ参加を通して個人の成長と社会的適応を図る教育的過程であるとし、さらに、そのグループを社会的に望ましい諸目的を達成できるようにする手段であるとした。この年にアルコール依存症者のセルフヘルプグループAAが発足したのも、このような動きと関連しているように思える。
 1960年代になると、ベトナム戦争などの影響でアメリカ社会の病理が露呈し、そのなかでソーシャルワーカーの需要が大きくなり、その数が増えてくる。そして1970年代には、それまで独立していたケースワーク、グループワーク、コミュニティ・オーガニゼーションの3部門が統合されて、ソーシャルワーカーが身につけるべきものとされる。
 日本での発展は、1930年代のYMCAが始まりで、戦後にソーシャルワークの技術がアメリカから入ってきて、大きく広がったといえる。精神科ソーシャルワーカーが「社会事業婦」という名称で国立国府台病院に配属されたのが、1948年である。その後、精神科ソーシャルワーカーが少しずつ力をもつようになり、病院の事務職が兼任で行っていたソーシャルワークを専門家が担うようになってくる。1964年には、精神科ソーシャルワーカーの全国組織が仙台で結成されるのである。
 初声荘時代の後半に、アメリカから戻った迎町氏がアメリカでのソーシャルワーク理論を語り、それまでケースワーカーと呼んでいたのをソーシャルワーカーと呼びかえることになったのを思い出す。最終的に患者の側に立って考えることができるのはソーシャルワーカーなのだから、ソーシャルワーカーが病院に所属してはその活動に制限が加わるのではないか。したがって、独立して地域に属したワーカーが必要ではないかといったことを、皆で熱く論じたことなど思い出す。
 これからの精神科医療にはコンシューマーの立場にたった観点が必要であり、セルフヘルプグループのオーガニゼーションやボランティア、ピアカウンセリングなどの育成といったことが課題となることが予想されるとき、それらのキーパーソンとしてのソーシャルワーカーの役割はさらに重要になってくるだろう。社会のシステムそのものの変革者としての実力をみにつけていってほしいものである。

森田療法とソーシャルワーカー

 現在、医療の場では治療チームが問題となってきているが、人間を身体面、心理面、社会面からとらえることが必要であり、医学、心理学、社会福祉学がそれぞれを担当し、チームを組んで関わるということになる。ソーシャルワーカーが担当するのが社会面ということになり、その内容は社会的資源を活用することであったり、住居や就労などのフィールドをクライエントの成長に役立つように調整することであったり、それらを可能にするために地域や社会に働きかけをすることであったりする。それに対して、クライエントの心理面における変容、時間をかけて洞察やカタルシスを通して心のあり方を変化させる精神療法は心理学が担当することになる。
 しかし、ソーシャルワークをする際の人間関係を築くには、カウンセリングの基本的な姿勢は必要になるし、簡便的な精神療法が役立つことになる。そのような場合には基本的な姿勢として、私が提唱している「森田式カウンセリング」の必要性も生じてくるように思う。
 森田神経質とまではいかなくても、こだわりが強くて、問題点に注意を集中させるために悪循環のとらわれに陥ってしまう傾向の人はけっこう多いものである。その場合に、森田療法的な発想が助けになったり、ヒントになることは意外に多いものである。「生活の発見会」の各支部における集談会では、先輩の指導者がピアカウンセリングのような形式で、森田療法の考え方を活用して後輩の援助にあてているのであるから、「いのちの電話」の相談員や養護教員のような立場であれば、森田療法を有用に役立てることは無理なくできるだろう。それと同じく、ソーシャルワーカーも、たとえ精神療法を専門としていないとしても、森田療法の考え方や技法をその仕事のなかで十分活かすことができるのである。それはとらわれに対しての発想の転換をはかることができるという技術的な面だけでなく、クライエントの「生の欲望」にそって、それを活かすフィールドを模索するという、基本的な姿勢においても役立つことになるであろう。
 同じことが逆の場合にもいえることになる。森田療法は行動的な精神療法であるから、本来ソーシャルワーク的な面をもっているのである。不安をそのままにして、物事本位、目的本位の生活を進めるときに、また、内面にある心の葛藤には触れずに、外面のこと、社会的なことに目を向けようとするときに、ソーシャルワークの技法が役立つのではないだろうか。その人にとって現在やるべきことを見つけ、それに即した行動をしていくということは、ソーシャルワーカーがめざしていることと重なるのである。
 精神病の場合には、ソーシャルワーカーが積極的に提示していかなければならないが、神経症では、それを自分で見いだしていかなければならない。治療者は原則だけを提示し、あとは本人が自分の目的を探していくことになる。しかし最初に述べたように、現代においてはそれが可能な典型的な神経質症の人が減少してきている。自己愛的な段階にあったり、未発達な課題を残しているような人には、社会資源を見いだしたり、それを利用できるように、積極的なソーシャルワーク的介入が必要になってくるだろう。社会的な資源やサポートシステムに関する情報を共有し、提示していく必要がある。
 また、同じことは、「生活の発見会」活動を実際に運営するにあたっても必要である。そのリーダーとなる人たちは、グループワークやコミュニティ・オーガニゼーションの技術を身につけることが求められるであろう。ソーシャルワーカーとして必要な、社会資源のリスト、法律の知識、行政への働きかけの技術などは、「生活の発見会」の発展を考える上で、必要な技術であるといえよう。精神保健関連機関のネットワークのなかでの位置を確認し、相互の活用をはかることができれば、「生活の発見会」の知名度を広げることも可能であるし、支援と協力を広げていくことができるであろう。また、「断酒会」をはじめとするさまざまなセルフヘルプグループとの交流を図ることが、相互の発展に役立つことであろう。
by open-to-love | 2009-12-13 01:06 | 黒田:社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)