「なぜ私は作品を描き続けるのでしょうか?」
2009年 11月 18日
なぜ私は作品を描き続けるのでしょうか?…精神保健福祉大会シンポジウム
2009年10月30日、盛岡市の県民会館で精神保健福祉東北大会が開かれました。テーマは障害者のアート活動。ボーダレス・アートミュージアムNO―MAアートディレクターはたよしこさん(兵庫県)が基調講演し、シンポジウムでは、本県でアート活動に取り組む「風の会」メンバーが発表。そのうち、桑児元さんの発表を紹介します。
なぜ私は作品を描き続けるのでしょうか? 私はなぜそうしないと生きてゆくことができないのでしょうか? その問いに対し、私はこう答えるしかないのです。「すべては痛みの為に」と。私の持つその痛みは決して治癒することはなく、その為に私は膨大な創作の渦にこの身を投げ込まれてしまったのです。それは自分の意思とは遠くかけ離れ、あるいは自分の意思とは無縁の所で私を創作という行為に突き動かしているのです。私はそれから逃れることも隠れることもできないのです。一体私自身その行為をどうしたら止める事ができるのでしょうか? ただ私は絵を描くこと、詩を生むこと、そして生きてゆくことに対し、取り憑かれた一人の人間に過ぎないのです。また今まで生きてこれたということ、今まで途切れることなく生き延びていることは、常に創作という呪縛から逃れることはできない事と同義なのです。私という存在そのものが無かったら、ここに立つことも、こうして皆さんにお話しすることも無かったでしょう。ただ現にここに存在し、こうして創作の森に迷った私は、同時に損失の長い道を歩かなければならなかったのです。そして同時にその痛みは私にとって巨大で、掴み所が無く、それに耐えながらこれからの人生を送らなければならないという覚悟を持たなければならないに気づかされるだけなのです。と同時に、それは創作を、またそれに取り憑かれた人生を送らなければならない、ということに対しての覚悟も必要になるということでもあるのです。しかし今の私にはこれから迎える人生の痛みにも、また喜びにも、いまだに覚悟はできておらず、それはこれから生きていく中で体得していかなければならない一つの知恵なのかもしれないのです。
私は人間的にかなり不器用です。そしてその不器用さに対して私の心は常に苛立ちすら感じています。しかしその葛藤の中からこそ私の作品は生まれてゆくのです。悩みが深ければ深いほど、私の生み出す作品はより私にとって大切なもの、意味のあるものに変わっていくように思われます。
作品はそこにあるだけで人々の心を映し出す鏡になり、時としてその美しさや喜びだけでなく、悲しみや苦しみ、醜さまでも映し出してしまいます。私という存在が創作というプロセスを経て、人々の心に小さな欠片が残るのであれば私の心は大いに満たされることでしょう。
私は一人きりで生きているのではないのです。私が生み出す作品群によって一人の人の心に光が潜み、またその反作用として生み出される豊かな影の姿となる事を知り、私の人生を色とりどりに彩っていくでしょう。時として色彩は甘く感傷的で、むしろ背景にあるモノトーンの世界のほうがより優しく感じることもあるでしょう。例えば、雨に打たれるという体験が無かったとしたら、どうやって雨の恵みを知ることができるでしょうか? 肌を突き刺す風の冷たさを知らずして、どうして薪の炊かれる温もりを知ることができるでしょうか? そして人間は常に死と直面しながら今という時間を生きています。それは人間が知性の疼きを覚え、それにふさわしい感受性を体得してゆく中で、時に科学的に、また時に哲学的に、またある時は芸術の中で発見することもあるでしょう。生が絶対なのか死が絶対なのかここで論ずることはしませんが、その過程の中から優れた知恵、また文化を人間たちの手によって作り出してきたように私は思えます。
障害は動物にとっては生命に関わる事なのかもしれません。しかし人間には、障害を生きる知恵にできる力を持っています。私の中では障害と知恵は同じものなのです。そしてその二つがあるからこそ私は作品を作り続けなければならないのだと感じているのです。
最後になりましたが、このシンポジウムにご参加くださった皆様方、そして関係者の皆様方に、私がこの壇上に立ち、そしてこの一人の人間のたわ言に耳を傾けてくださったことに対して、私は大きな感謝を抱いていることをお伝えいたえし、終わりたいと思います。
※桑児元さんの作品は、「アートギャラリー」で紹介しています。(黒田)
2009年10月30日、盛岡市の県民会館で精神保健福祉東北大会が開かれました。テーマは障害者のアート活動。ボーダレス・アートミュージアムNO―MAアートディレクターはたよしこさん(兵庫県)が基調講演し、シンポジウムでは、本県でアート活動に取り組む「風の会」メンバーが発表。そのうち、桑児元さんの発表を紹介します。
なぜ私は作品を描き続けるのでしょうか? 私はなぜそうしないと生きてゆくことができないのでしょうか? その問いに対し、私はこう答えるしかないのです。「すべては痛みの為に」と。私の持つその痛みは決して治癒することはなく、その為に私は膨大な創作の渦にこの身を投げ込まれてしまったのです。それは自分の意思とは遠くかけ離れ、あるいは自分の意思とは無縁の所で私を創作という行為に突き動かしているのです。私はそれから逃れることも隠れることもできないのです。一体私自身その行為をどうしたら止める事ができるのでしょうか? ただ私は絵を描くこと、詩を生むこと、そして生きてゆくことに対し、取り憑かれた一人の人間に過ぎないのです。また今まで生きてこれたということ、今まで途切れることなく生き延びていることは、常に創作という呪縛から逃れることはできない事と同義なのです。私という存在そのものが無かったら、ここに立つことも、こうして皆さんにお話しすることも無かったでしょう。ただ現にここに存在し、こうして創作の森に迷った私は、同時に損失の長い道を歩かなければならなかったのです。そして同時にその痛みは私にとって巨大で、掴み所が無く、それに耐えながらこれからの人生を送らなければならないという覚悟を持たなければならないに気づかされるだけなのです。と同時に、それは創作を、またそれに取り憑かれた人生を送らなければならない、ということに対しての覚悟も必要になるということでもあるのです。しかし今の私にはこれから迎える人生の痛みにも、また喜びにも、いまだに覚悟はできておらず、それはこれから生きていく中で体得していかなければならない一つの知恵なのかもしれないのです。
私は人間的にかなり不器用です。そしてその不器用さに対して私の心は常に苛立ちすら感じています。しかしその葛藤の中からこそ私の作品は生まれてゆくのです。悩みが深ければ深いほど、私の生み出す作品はより私にとって大切なもの、意味のあるものに変わっていくように思われます。
作品はそこにあるだけで人々の心を映し出す鏡になり、時としてその美しさや喜びだけでなく、悲しみや苦しみ、醜さまでも映し出してしまいます。私という存在が創作というプロセスを経て、人々の心に小さな欠片が残るのであれば私の心は大いに満たされることでしょう。
私は一人きりで生きているのではないのです。私が生み出す作品群によって一人の人の心に光が潜み、またその反作用として生み出される豊かな影の姿となる事を知り、私の人生を色とりどりに彩っていくでしょう。時として色彩は甘く感傷的で、むしろ背景にあるモノトーンの世界のほうがより優しく感じることもあるでしょう。例えば、雨に打たれるという体験が無かったとしたら、どうやって雨の恵みを知ることができるでしょうか? 肌を突き刺す風の冷たさを知らずして、どうして薪の炊かれる温もりを知ることができるでしょうか? そして人間は常に死と直面しながら今という時間を生きています。それは人間が知性の疼きを覚え、それにふさわしい感受性を体得してゆく中で、時に科学的に、また時に哲学的に、またある時は芸術の中で発見することもあるでしょう。生が絶対なのか死が絶対なのかここで論ずることはしませんが、その過程の中から優れた知恵、また文化を人間たちの手によって作り出してきたように私は思えます。
障害は動物にとっては生命に関わる事なのかもしれません。しかし人間には、障害を生きる知恵にできる力を持っています。私の中では障害と知恵は同じものなのです。そしてその二つがあるからこそ私は作品を作り続けなければならないのだと感じているのです。
最後になりましたが、このシンポジウムにご参加くださった皆様方、そして関係者の皆様方に、私がこの壇上に立ち、そしてこの一人の人間のたわ言に耳を傾けてくださったことに対して、私は大きな感謝を抱いていることをお伝えいたえし、終わりたいと思います。
※桑児元さんの作品は、「アートギャラリー」で紹介しています。(黒田)
by open-to-love
| 2009-11-18 16:55
| 心の病とアート
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