精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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第1章 精神保健概論…2 歴史の中での精神保健(『精神保健とは何か』)

増野肇著、一番ヶ瀬康子監修『精神保健とは何か』
(介護福祉ハンドブックシリーズ、一橋出版、1997年)

第1章 精神保健概論

2 歴史の中での精神保健

 ここでは、歴史の中で、精神保健がどのように扱われてきたかを眺めてみたいと思います。

(1)世界の歴史の中で

 いつごろから心の健康が考えられるようになったのかよく分かりません。詩人ホメロスの時代には、情念のように自分でもコントロールできないものは、外からデーモンなどの力によって吹き込まれるものとして考えられていたようです。しかし、ギリシャ時代には、精神のあり場所として、哲学者アリストテレスは心臓だと考えていましたが、ガレノスは脳にあると考えていました。「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスが現れるのもこの時代です。この時代には、精神の病気として、てんかん、ヒステリー、狂犬病、それにメランコリー(うつ病)が挙げられていました。前の3つは、急激に意識障害を示す病気であるという共通点があります。それに対して、現在の精神分裂病のような精神病があったのかは定かではありません。ヒポクラテスの教科書には、現在の精神保健に通じる、よい空気、よい環境、自然の中での散策などを通しての療養が勧められていますが、これは、精神保健の原点といってもよいかもしれません。現在、ヒポクラテスが再び重視されるようになったのもそこにあります。
 中世は暗黒時代とも言われますが、「魔女狩り」と呼ばれる大事件が13世紀から17世紀にかけて生じます。最初は宗教問題で始まったのですが、やがて、精神障害者だけでなく、多くの人が魔女として火あぶりなどで処刑されました。この事件で重要な点は、百年戦争と呼ばれる長い戦乱、穀物の不作、ペストやコレラ、梅毒などの悪疫の流行といった社会不安が背景にあり、そのことがこのような現象を全ヨーロッパに生じさせたということです。つまり、社会の不安がスケープゴートを求めていたのです。やがて、魔女裁判は財産の没収という金儲けとも結びつき、大きく広がっていくのです。重要なことは、そのような大きな動きの中で医師も巻き込まれ、加害者となっていることです。「この人たちは魔女ではなく、精神の病気だ」と主張したパラケルセスらの医師もいたのですが、多くの医師たちが魔女裁判の法廷で、被告が魔女であることを証明するのに加担していることです。その中には、「血液循環」の発見者として著名なハーベイの名も見られます。そして、これらの異常事態とも言える現象が消失するのには、社会の中で市民階級が力を持つようになるのを待たねばならないのです。
 市民階級が力を持ち、フランス革命が勃発します。その背景にあるのが自由民権主義の思想、ロック、ルソーなどの啓蒙主義の考え方です。その中で、人間は教育によって改善できるという思想が生まれます。ビセートル病院で、ピネルが精神障害者を鎖から解放するという、歴史的な出来事も生まれるのです。歴史的にはピネルだけが有名ですが、同じ時期に、イギリスでは、クェーカー教徒のチュークが、信者がおかれている精神病院の惨状に驚き、開放的な療養所、ヨーク救護所を開設します。コノリーは精神障害者を拘束着から解放していく無拘束運動を起こします。外科医イタールが、アベロンで見つかった野生児を教育し、人間らしさを取り戻させようと試みるのも同じ頃です。彼の試みは失敗しますが、その時に彼が試みたさまざまな教育は、その後におけるモンテッソリーなどの知的障害者教育へと引き継がれることになるのです。
 このような社会の傾向が、再び精神障害者にとって不幸な方へと傾くのは、19世紀に始まる自然科学の進歩と、それにともなう産業革命によると言えます。脳の研究が進み、脳を構成している神経細胞が見いだされ、神経細胞は一度障害を受けると再生しないことが分かります。クレッペリンは精神病院の患者を観察して、周期的に感情の波を繰り返す「躁うつ病」と、青年期に発症し、やがて廃人状態になる「早発性痴呆(のちにブロイラーが精神分裂病と命名します)」とに分類します。メンデルが遺伝の法則を見いだし、病気は遺伝子によって支配されていることを証明します。ダーウィンが生物の「適者生存」説を発表し、自然や社会に適応できないものの運命を予想します。このようにして、脳の病気は治らないものであるという烙印を捺されることになります。イギリスで始まった産業革命は、働かないものを邪魔者にし、再び精神障害者を人里離れた病院に隔離収容するようになります。
 このように精神障害者にとっては逆戻りとなりましたが、神経症の理解には画期的な進歩がありました。ウィーンの精神科医フロイトは、神経症者の行動を支配する無意識を発見し、それを見いだし治療するための精神分析という技法を生み出しました。シャルコーが催眠術を考案しヒステリーの治療を行ったのはそれより少し前の話です。パブロフの犬の実験による条件反射から始まった学習理論は行動療法を生み出します。
 フロイトより少し遅れてウィーンで精神医学を学んだモレノは、さまざまな集団精神療法を試みたあと、即興劇を用いた心理劇(サイコドラマ)を考案します。一方、日本では森田正馬によって日本独特の神経症の治療である森田療法が生まれるのです。
 精神分析の思想はアメリカに渡り、アドルフ・マイヤーの精神生物学として発展します。素質と同時に環境を重視したこの考え方によって精神保健の土台が生まれます。そのマイヤーの後ろ盾で、最初の精神衛生協会をコネチカットに設立したのは、ビアーズです。彼は、自分が精神病院入院の時に味わった悲惨な体験を本に書きますが、この『わが魂に合うまで』は全米のベストセラーとなります。これをアドルフ・マイヤーが応援して最初のアメリカ精神衛生協会が誕生するのです。また、禁酒法時代のアメリカで、ボブとビルという2人のアルコール依存者が始めたAA(匿名者のアルコール依存の会)は、やがて始まる当事者運動の先駆けとなるのです。
 第1次世界大戦後の傷病兵の治療で盛んになった集団精神療法と、第2次世界大戦のさなかに発見された抗精神病薬は精神医療の在り方を大きく変えることになります。病院の中に墓場まであると言われた大病院収容主義から地域精神医療への転換が始まります。そして、現在では、家族や当事者が医療の消費者として積極的に発言するようになってきています。
 最近の大脳生理学の進歩、また、神経免疫学と呼ばれる領域の発展は、心と体との関係の深さに焦点を当てるようになりました。精神の病気だけでなく、ガン、エイズなどの難病においても、精神保健が重要となってきています。このように、心身両面の領域で新しい精神保健の方向が発展しようとしているのが現代と言えます。

(2)わが国の精神保健

 明治時代までは、精神保健に関する記述はほとんど見られません。加持祈祷に頼るか、神社仏閣に収容されるか、あるいは、自宅に作られた座敷牢の中に閉じ込められていました。明治7(1874)年に医制が引かれ、翌年精神科として最初の公立病院、京都癲狂(てんきょう)院が設立されました。明治19(1886)年に、相馬事件が起こります。元相馬藩主が松沢病院に入院させられたことに対しての訴訟であり、日本の法律が不備であることが世界から注目されました。そこで、警察の許可の下に精神病者を私宅で監護できる「精神病者監護法」が1900年に公布されます。わが国の精神医学の父といわれる呉秀三が、全国の私宅監置状況を視察して、「わが国の精神病者は、精神病になったということのほかに、わが国に生まれたという二重の不幸を背負っている」と述べるような状況が続きます。1919年にようやく精神病院法が公布されますが、予算不足で公立病院の設立は遅々として進まず、そのほとんどを市立病院に頼るという現在の体制が出来上がるのです。
 第2次世界大戦後になって、1950年にようやく精神衛生法が公布されます。しかし、急速な医療の進歩は、病院中心の医療から、地域へと移行していきます。そのような中で、ライシャワー駐日大使が、精神障害者に刺されるという事件が生じ、これを契機として1965年に精神衛生法が改正されます。そこでは、重要視されるようになった地域精神衛生の体制が保健所を中心に作られるようになりますが、一方で、入院させるシステムは強化され、入り口だけを考えて出口がない法律だと批判されるようにもなります。このあと、収容所化した精神病院への批判が生まれ、「朝日新聞キャンペーン」が引き金となり、若い精神科医の精神医療改革運動が活発になります。そして精神障害者のリハビリテーション、福祉対策の遅れが問題となってきた時に、看護者が患者をリンチで死亡させるという、宇都宮病院事件が起ります(1984年)。これによって、わが国の法体制の中で、強制入院が占める率の高さが世界的に問題となり、それらの批判にこたえる形で、1988年に精神衛生法が改正され、精神保健法と名称も変更されます。ここでは、強制入院を制限し、新たに任意入院制度を設けるとともに、精神病院からの出口であるリハビリテーションが取り上げられるようになります。また、精神病対策だけでなく、広く、一般の人の精神衛生も対象とする意味で、精神保健と名称を変更したわけです。
 1993年、障害者基本法設立により、精神障害者がほかの障害者と同じレベルで対応されることになります。それを受けて、精神衛生法は1995年に「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」と名称を変え、授産施設や福祉ホームなどの福祉施設が明文化されることになります。厚生省の組織も大きく変わり、新しい方向へと歩み出したところです。
 なお、1998年には、精神保健福祉士法が成立し、精神保健を専門とするソーシャルワーカーが誕生しました。

「朝日新聞キャンペーン」

 朝日新聞の大熊記者が、精神病院を取材するために、アルコール依存者を装ってある私立の精神病院に潜入し、入院患者の証言などを通して、そこで行われていることを朝日新聞に記事として載せ、「朝日新聞キャンペーン」として社会に訴えた事件で、精神病院の閉鎖性や不当な治療のあり方などが問題になりました。大熊記者が十分な診察も受けずに、奥さんの一方的な証言だけで入院できたということも大きな問題です。そこで家族の同意があれば簡単に入院できるという法律のあり方が問われることにもなったのです。これをきっかけとして、患者を中心にせずに大学での研究を中心として進められている精神医療のあり方に問題があるということになり、当時の若い精神科の医師を中心として活発な抗議活動が起こりました。それによって多くの学会が機能停止の状態となり、見直しを図ることになり、精神医療の現場の混乱がしばらく続くことになったのです。

【参考文献】
増野肇『森田式カウンセリングの実際』白楊社、1988年
増野肇『不思議の国のアリサ』白楊社、1996年
西丸西方『やさしい精神医学』南山堂、1875年
中井久夫『分裂病と人類』東京大学出版会、1982年
森島恒雄『魔女狩り』岩波書店、1970年
中野善達他訳、イタール著『アベロンの野生児』福村出版、1978年
by open-to-love | 2009-07-05 18:11 | 増野肇『精神保健とは何か』 | Trackback | Comments(0)