精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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テクストとしての新聞記事 世論とのかかわりから…㊦

テクストとしての新聞記事 世論とのかかわりから…㊦

5.精神障害者の描かれ方

 さて、上記は、他愛もない例です。だって、「盛岡の夏の風物詩さんさ踊りが開かれ、出演者も見物客も楽しんでいた」と新聞に載ったところで、とくだん困る人はいない。ですが、いざ、これが精神障害者にかんする記事になると、どうなるか?
よくあるパターンを2種紹介します。事例4は、いわゆる事件記事。事例5は、なんてことない地方欄の記事です。

 事例4:○○署は○日、傷害の疑いで○○市○○町○丁目○ノ○、無職の男性容疑者(36)を逮捕した。調べでは、男性容疑者は○月○日○時○分ごろ、市内の飲食店で隣り合わせた女性客と口論になり、止めに入った店員にけがを負わせた疑い。容疑者は精神科病院に通院歴があり、意味不明の供述をしていることから、同署は慎重に調べを進めている。

 事例5:○○市の合唱団体「ハーモニー」は○日、同市の精神障害者福祉施設「○○」を慰問した。同団体は「北国の春」など懐かしのメロディーを披露。施設利用者の岩手太郎さん(36)は「歌声に癒やされました。ありたがいことです」と感謝していた。

 さて、精神保健福祉分野の場合、例えば新聞はときどき「精神障害者と共に生きる社会をつくろう」と世論を喚起したりします。これが、狭義の世論。でも、言っちゃ悪いですが、新聞記者から新聞記者兼精神障害者家族になった私の実感として、かつ、自分がそういう立場になって知り合った数多くの精神障害者やその家族の実感としても、そうした掛け声は建前に過ぎないのではないかと思ってしまうのです。なぜ建前なのかというと、その掛け声の根底に、広義の世論があり、その大元を変えていく努力なくしては、いくら「精神障害者と共に生きる社会をつくろう」と世論に訴えたところで、うわっつらだけで、その声は大きくならないからです。
 では、精神障害者観の根底をなしている広義の世論とはいかなるものか。事例4と5は、その端的な現れです。4と5を比較対照してみると、文面から受ける印象としては、4は暗い、5は明るい。4は匿名、5は実名。
 4の匿名表記について。店員にけがをさせたのが普通の男なら、当然に実名報道なんですが、なぜか匿名。それは、刑法には心神喪失者はその罪を問われないという規定があり、新聞では、精神障害者(精神疾患患者)とみられる容疑者が逮捕された場合は匿名報道にするというルールがあります。
 5は実名。温かいタッチで、世の中の善意に感謝している岩手太郎さんの喜びを描いていますね。たいてい笑顔の写真付きのこうした記事は、連日新聞に載っています。例えば「精神障害者がごみ拾いをして頑張った」みたいな。ですが、問題は、なぜ普通の人が音楽を聴いたり、ごみを拾っても記事にならないのに、精神障害者がやると記事になるのか。それは、そこに「精神障害者は善意の心で温かく迎えいれなければならない」という広義の世論があるからなんだと思います。

6.分断された主体

 事例4、5についての考察を総合すると、何が明らかになるか? それは、どちらの記事でも精神障害者が描かれているにもかかわらず、新聞では全く両極端な現れとして描かれている、ということです。人にはいいときも悪いときもある、明の側面もあれば暗の側面もある。いろいろあるのが人なんだと思います。でも、こと精神障害者の場合は、いろいろある人としては描かれません。双方の記事はまったく別世界の出来事でもあるかのような書き分けられ方です。なぜか。記者はそれぞれの記事を意識して書き分けているのではない。むしろ、広義の世論に規定された結果としての現れとして、こうなっているのです。世間一般の通念において、精神障害者とは、未だ「統一的な主体」として認識されていない、断片的な理解しかされていない、ということが新聞というテクストに反映されているのです。広義の世論に規定されて新聞に表徴可能な精神障害者とは、暗=「精神科に通院歴がある匿名容疑者」か、あるいは、明=「ふれあい」や「善意」に支えられ「感謝」する主体としてでしかない、ということです。
 なぜ、精神障害者がこのように「分断された主体」として現れるのかについては、歴史をひもとく必要がありましょう。精神障害者の歴史を一言で言えば、100年前は座敷牢、一昔前は精神病院に一生入りっぱなしでしたが、最近は地域に暮らし通院する時代となりました。制度的にも社会的にも排除されていたのが、最近ようやく地域社会の一員として受け入れられつつあります。つまり、多くの人にとってまだよく分からない存在ですから、実態に即さず断片的かつ画一的なイメージでとらえられてしまう。
 加えて、制度的な観点からすると、精神障害者は現在、精神保健福祉法(入院手続き法)と障害者自立支援法(退院後の福祉サービス体系を定めた法)に、二重に規定される存在です。単純化すれば、事例4に精神保健福祉法(入院手続き法)、事例5に障害者自立支援法が対応します。それぞれの法律は、あんまりリンクしていません。テクスト上での主体の分断は、そもそもが法的な主体の分断をも伴っているという側面も指摘しておきます。
 まだそんな状況ですから、精神障害者は相反する両面として、つまり、「事件を起こす無名の存在」あるいは「社会に温かく迎えいれられるべき一人の人間」として表出される。それに、現実の精神障害者は戸惑うわけです。
 さらに、広義の世論の事例4と5のようなあらわれが、狭義の世論をも規定している。例えば、大阪池田小事件の際における「触法精神障害者を隔離せよ」という世論、一方で、精神障害者がアート作品展を開いたりした際の記事を規定する「精神障害者への理解を深めよう」という世論。精神障害者からすれば、一面において排除され、また一面において善意の眼差しで温かく迎えられるというダブルバインド状態に、いったい自分はどっちもなのにどっちなんだ? と困ってしまいますが、いずれもが新聞に併存し、統一的な思考が欠如している現状があります。
 では、新聞として、分断された主体の統一へ向け、何ができるか? 新聞は、暗黙裏の広義の世論に規定されっぱなしのメディアじゃありません。狭義の世論喚起のみならず、広義の世論だって、変えていけるメディアです。

7.統一された主体へ

 そのために、どうすればいいか? 私は、事例4と5の間に広がるはるかな隔絶を埋める記事が、つまり、「統一された主体」としての精神障害者像を提示する記事が必要であると思います。要するに、新聞記者は精神障害者に対する両極端の画一的イメージに依らず、人としての精神障害者を書けばいいんじゃないでしょうか。具体例として、2007年の連載「自立支援の名の下にⅡ」(全5回)の第1回目を紹介します=事例6。
 この連載は、障害者自立支援法施行から1年を機に、法の理念と現実の乖離を浮き彫りにすべく書かれたものですが、その時の作者(記者)の意図はともかく、テクストとして読むと、ここには「主体の統一」があります。発病時の困難と受診に至るまで(事例4・精神保健福祉法の領域)と、退院後の社会復帰への取り組み(事例5・障害者自立支援法の領域)とが一連の流れとして描かれています。
 私としては、こうした記事が増えていくことが、つまり、広義の世論に規定された記事の枠をちょっとでも飛び越えて一人の精神障害者の全体像を描くことが、本当の意味で精神障害者の主体統一、つまり、断片的な理解から全体的な理解へ、そして、共生社会へとつながっていくのではないかと考えています。精神障害者と共生する社会を築くためには、精神障害者がどんな存在かを理解してもらわなければならない。断片的にではなく、統一的に理解してもらわなければならない。そのためには、新聞は「広義の世論」に規定された「分断された主体」としての精神障害者像を表現するばかりではなく、人としての個別具体的な精神障害者を表現する必要がある。その上で、新聞の「精神障害者と共生する社会を築こう」という狭義の世論喚起は、初めて実効性を伴うと思います。
 なお、事例6の限界は、匿名表記であり、全体的なトーンとして非常に暗い、ということです。私は、彼を、このようにしか書き得ませんでした。

8.結論と蛇足

 結論。文学理論と新聞は無縁ではない。新聞と精神保健福祉は無縁ではない。文学理論と精神保健福祉は無縁ではない。今後さらなるクロストークが期待されます。というわけで、「ジャーナリズム論」を専攻されているみなさん、頑張って下さい。
 蛇足。個々人の置かれた立場と仕事とは無縁ではない。私は新聞記者でありながらあちこちで精神保健福祉に関する講演をするなど個人的な活動も並行してやってます。これには異論ある方もいると思いますが、私の見解は、「自らを語れぬ者が、人のことを記事に書く資格はない」。加えて、新聞という間接的なメディアを介したコミュニケーションに加え、Face to Faceの直接的なコミュニケーションの場がなければ、なかなか理解は深まらない。よって、精神障害がある当事者、家族、保健師ら専門家、一般市民とのネットワーク「盛岡ハートネット」という活動をしています。
 みなさんは今、学生という立場ですが、これから社会に出て、いろんな立場に置かれ、選択を迫られることもあることでしょう。そんな時、私の経験と選択が、善し悪しはともかく、なにがしか参考になれば幸いです。

※※本ブログ読者のみなさんの大方にはそんなになじみがないであろう、文学理論の観点から、新聞における精神障害者の描かれ方を読み解く試みとしての小論です。大学と大学院で、私はこんなことをやっていたのでした。事例6「自立支援の名の下にⅡ 新法施行1年 障害当事者らの思い」は、本ブログの当該記事をお読み下さい。(黒田)
by open-to-love | 2009-06-25 20:33 | Trackback | Comments(0)