精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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当事者メッセージ〜「回復への扉を開いて!そして地域への夢をもって!」 

2009年1月31日 盛岡ハートネット第8回例会「キラりん一座in盛岡」〜当事者メッセージ

「回復への扉を開いて!そして地域への夢をもって!」 

キララ 菊地

 私は人前で自分の体験を発表するのは初めてで、滑舌がはっきりしないところがありますがよろしくお願いします。
 私の年齢は36歳です。病名は統合失調症で3級です。
 高校を卒業後、10年間、東京の印刷会社に勤めましたが、人づきあいが下手なのと、祖母の初盆でのストレスがきっかけで発病しました。
 祖母の初盆の時、私は受付係をやり、叔父が夜の12時頃まで酒を飲むのを2~3日付き合っていて疲れていたところでした。実家で私を含まない家族が、みんなそれぞれ仲が悪くなっているのではないかと感じはじめました。この時から病気が始まったのだと思います。初盆が済んで2~3日して、ちょうど母の誕生日だったので、まだ東京へ行っていないメンバーで母の誕生会をやりました。その時、父と兄のしぐさが私を責めていると感じ始めました。とても神経が高ぶり、その夜は全く眠れませんでした。ずーっと何故、自分責められるのかを考え、初盆で受付係をやった時、何か不手際があったのではないかと思い、夜中に父を起こして聞いてみました。でも私の不安は解消されませんでした。
 そして眠れないまま朝を迎えました。その日は横浜のアパートに帰ることにしていました。一度みんなと起きましたが、疲れていたので横になりました。
 目をつむると不思議なことに動く幾何学模様が見えました。統合失調症ではそういうことがあるのだと後で知りましたが、その模様は怖くもあり、美しくもありました。「モノトーンの万華鏡」というのが近い表現かもしれません。
 私の様子が変だと思ったのだと思いますが、一緒にいる、酒を飲んでいた叔父とは別の叔父に「もう一晩泊っていったらどうだ」と言われました。でも、その日の朝は、なんとなく父と兄以外にも自分を責める人が増えてきたと感じていたので、すぐアパートに帰って休んだ方が疲れがとれると思ったので横浜に帰ることにしました。
 新幹線の中でも前の日は寝ていないからと思い、目をつむったのですが神経が興奮した感じで全く眠れませんでした。
 アパートの近くの駅に着き、弁当を買うためにコンビニに入りました。どの弁当にするか迷いましたが、たしか和風ハンバーグのようなものだったと思います。パッケージの外にセロハンテープでとめてあるタレを見て、「これは電子レンジに入れる前に取った方がいいものだな」と考えていたら、レジに持っていく前に売り場のところでそのタレを外してしましました。
 自分がおかしくなったのでは、と思いました。ノイローゼになったかな、と思いました。店員にさっきの行動が見られなかったかを気にしつつ会計を済ませました。
 アパートに着くと私の部屋のドアの前に、葬式などで配られる塩の袋が破けた状態で落ちていました。隣が大家さんの玄関だったので、大家さんの知り合いで亡くなった人がいるのかな、ゴミをその辺に捨てるような人じゃないのに何か変だなと思いました。
 部屋に入り、ゆっくり弁当を食べ、さっきの破けた塩の袋のことを考えていました。
 そしたら、ベランダ側の陰から中年女性の声で、「出ていけ!出ていけ!」と聞こえてきました。私は最初、どこかよその家で口喧嘩をしているのかな、と思いました。でも、しばらくして今度は玄関の外から、また、「出ていけ!出ていけ!」と聞こえました。それが私に対して言っているのだな、と思いました。
 後になってから考えれば幻聴ですが、初盆での不手際を責められていると思った私は、すぐ家に電話して、「これから再び田舎へ帰るから話し合いをさせてください!」と言って、アパートを出ました。
 しかし、一関まで帰れる新幹線がありませんでした。なんとかその日のうちに実家へ行こうと思い、いろいろな電車に乗りました。ですが、うまくいかないので結局、上野に戻りました。
 すっかり焦って、どうしていいのか分からなくなり、上野のあたりを一晩寝ずに歩いてうろうろしました。周りの人に助けを求めると、会う人会う人「警察に行け」と言うので、交番に行きました。そして警察に保護されました。
 その後、父と兄が二人で東京に来て、私を実家へ連れて行ってくれました。南光病院へ行くと3ヶ月間は会社を休むように言われました。病名は最初「神経衰弱様状態」と言われました。入院はしませんでした。
 3か月すると神経の高ぶりも少しおさまりました。そして近くの病院へ通いながら、また会社へ通勤し、また一人暮らしを始めました。
 しかし、仕事は前の倍くらい時間がかかり、印刷会社の組版という仕事をしていましたが、少しいつもと違うパターンの仕事がくると、頭がついていかず、やり遂げるのにとても苦労しました。
 ちょうど、組版のシステムが変わる時期だったので、新しいパソコンソフトを覚えなくてならなくなりました。上司が一緒に病院まで行ってくれ、とにかくゆっくり覚えていこうと言ってくれました。が、自分は実は統合失調症という病気で、仕事は速くできなくても仕方がないのだと知らない私は、「覚えているはずの仕事も満足にできないのに、新しい仕事を覚えるなんて、とてもできない。かと言って会社に自分ができる仕事は他になさそうだ」と思って、勝手に焦るようになりました。今になって考えれば仕事をする時は、自分がどういう病気かが少しは知っておかないとダメなのかなと思います。
 そして結局、新しいパソコンソフトに触れる前に半年で再び実家に戻ってきました。
 実家に帰ってきてからは、葉たばこ農業の手伝いをしましたが、夕方になると調子を崩し、周りに責められていると思うことが多くなりました。
 出かけるのは、ほとんど2週間に1回、父と病院へ行く時だけでした。車がないと、どこにも行けないということもありましたが、一人で出かけることはなく、また「一人で出かけるのは怖い」と思っていました。
 しばらくは会社に行っていませんでしたが、まだ社員でした。でも十数年勤めた会社を辞めることになり、障害年金の申請をする時,初めて自分の病名が統合失調症であることを知りました。
 その後、身内にいろいろあり、調子に波がありました。調子を崩して、「責められている」と感じている時、どうしようもない気分になり、一日に何度も大声で「あ゛-っ!」と叫んでしまう時期もありました。家族以外の人がいるところで叫んでしますことはありませんでしたが、もし、街に出かけている時、叫んでしまったらどうしようと思っていました。
 叫んでしまうのが収まったあたりの2006年8月に大東町の防災無線で精神保健シンポジウムというのがあると放送されました。近くに住む姉が「車に乗せてってあげるから見に行ったら?」と言うので見に行きました。そこで当事者による寸劇を初めて観ました。私と同じ精神病の人がステージで堂々と立っているのを見て「凄いな」と思いました。姉の時間の都合でその日は寸劇が終わってしばらくしてからシンポジウム終了前に帰ってしまいましたが、当事者の書いた「心の病と共に生きる!」という小冊子を買って帰りました。ページは少ないのですが、当事者の書いた文章は、内容が濃く、同じ病名の人にとって参考になるものでした。今の私にとっても当事者の声はとても貴重で、もっと当事者の声を集めた冊子にふれられる機会が増えればいいのになと思っています。
 シンポジウムを見に行ってしばらくしてから、姉に「シンポジウムのパンフレットに“どうぞキララに参加してください”とあるから言ってみたら?」と言われました。
 私はまだ、一人で外に出るのが少し怖かったのでしばらく考えましたが、親と相談し、思い切って、今は廃止された一関保健所大東支所に電話しました。そこで初めて北川さんと話しました。
 北川さんは、私のキララの活動についての疑問に一つ一つていねいに答え、「よく勇気を出して電話してくれたね。」とねぎらってくれました。
 そして、次の定例会から参加することにしました。最初はかなり緊張しました。でも、みんな元気にしゃべっているのを見て、「いつか自分もこうなれるのかな。」と少し希望がもてました。
 キララに参加し始めたあたりが病院の薬が変わり始めた時期でもあったので、その影響もあったとは思いますが、徐々に病気が良くなっていくのを感じました。調子を崩して、責められていると感じることも少なくなりました。
 特に、北川さんに2年前に「免許を持っているんだから車の運転してみたら?」と言われ、運転の練習を始めてから急に良くなってきた気がします。それまで免許は持っていても、自分で車の運転をすることは、とても無理と感じていました。
 でも、もしかしたらという気持ちが湧いてきたので、まず両親に相談し、その次に病院の先生に許可をもらいました。
 病院の先生は、一度隣に運転できる人を乗せ、運転を見てもらい、信号無視など危険な運転をする心配がなければすぐにでも良いという感じでしたが、両親には、まず、家の近くの車通りのないところで練習するように言われました。ほぼ毎日、5分か10分ずつ、手伝いの合間に練習しました。免許を取った後、ちょっと乗っただけで、全くのペーパードライバーだった上に運動神経がかなり鈍っていました。まず、20メートルくらいのところを前身とバックを繰り返しましたが何度もエンストしました。
 次に、車のほとんど通らないところを一速のみで走りました。ウィンカーは家の序の口に入る時もつけるようにしました。他の車が通るかもしれない隣の家まで行けるようになるのに半年かかりました。片道一車線の国道に出る時はかなり怖かったです。みんな70kmくらいで走るところを40km出すのがやっとでした。エンストしても事故にならないように左折のみで帰って来られるように工夫しました。
 そのうち、エンストする不安もとれてきて、信号のないところですが、右折できるようになりました。今ではようやく信号のある交差点を直進してトンネルを抜け、待避所を直進してトンネルを抜け、待避所を使ってUターンして帰って来られるようになりました。
 まだ、自分の運転では何の用も足せませんが、いつかは20km離れた病院まで運転できるようになりたいです。
 私は一人で出かけるのが怖かったのですが、キララに参加するようになって少しずつ一人で街に出かけられるようになりました。水沢まで映画を観にいきました。昨年12月には一人で茨城の友達のところへ遊びに行きました。
 他にも前からやっていた趣味の写真の他に音楽や将棋、パソコンや農作業についてなどいろんなことに興味が湧くようになりました。
 キララでは地元のホールのロビーに健常者と共に自分の描いた絵を展示している人がいますし、地域の寄合に参加しているという話を聞いたりします。私も昨年から地域の運動会や文化祭などを見に行ったりできるようになりました。いつかは、もっと地域の中に入っていければなあと思います。
 キララは私を少しずつ前向きにしてくれました。自分たちの力で足りないところは北川さんや地域活動支援センター一関が支えてくれています。
 私にとってキララは自分の生活をどうしていったらいいのかを考えるところです。大げさにいえば自分の人生を探すところです。そんなキララにこれからも参加していきたいと思っています。
 ご静聴どうもありがとうございました。
by open-to-love | 2009-02-02 23:19 | 第8回例会:キララin盛岡 | Trackback | Comments(0)