精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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障害をもつ女性のDV被害

東京自治研究センターDV研究会編『笑顔を取り戻した女たち—マイノリティー女性たちのDV被害-在日外国人・部落・障害』(パド・ウィメンズ・オフィス、2007年6月)

第1章 インタビューからみえる「必要とされる支援」

3 障害をもつ女性

中村優子さん(仮名)
(40歳代。視覚障害。呼吸器障害。難病認定を受け医療費の補助を受けている。結婚から10年後、障害をもっていない夫と離婚。両親と独身の弟が1人いる。8歳の子どもは元夫のところにいる。現在は在宅で仕事をしながら両親と同居している)

もう結婚にしばられないで、
個人の幸せのほうに導いてほしい。
私は、離婚してほんと元気になった。

難病の症状

 20代後半で発症。主な障害部位は呼吸器だが、日常生活に支障はない。ただし、障害は症状が安定しない事が多く、また、視覚に症状がでてくることもある。優子さんの場合は発症以来、目の網膜炎は慢性状態とのこと。放っておくと、緑内障から最悪失明という状態になる。今の視力は、眼鏡だと1・0ぐらい出ているが、視野の状態が薄暗いところや、逆に明るすぎると辛くなり、光の加減、環境によっては非常に悪くなるときがある。視力はまだあるが、視界にもやがかかり、色盲の症状が出てきて見えずらくなってきている。明暗が分かりづらいため、夜の行動が非常に怖い。肺の方は、特にどこが悪い状態ではないが、この病気がある限り全体的にかなり気をつけて管理しなければならない。炎症が慢性状態になっていれば、呼吸器や肺、心臓に影響がでないとも限らない。成人病から悪化することもある。表面上、すごく元気に見えるため難病にかかっているといっても、病名もあまり知られておらず、まわりの人にあまり本気で考えてもらえないということはある。一見してわかる障害と違うところがつらい。

結婚生活

 専門学校を卒業後、半年ほどしてから、正職員で雑誌のデータベースをつくる会社に入り9年間働く。夫と30歳の時に見合いで出会い、交際を経て結婚。結婚と同時に退職。夫は結婚当初の仕事から何回か転職し、資格を取得した後、独立開業した。優子さんは夫の仕事を手伝うことになった。経理も行っていたため、基本的に生活費についての制限は受けなかった。ただ使い道についてのチェックはとても厳しかった。
 夫は「女の人は男の言うことを聞くもの」というタイプ。姑からも「嫁が夫をしっかり監督して、健康に気をつけてあげて」と言われたが、優子さんへの体調への配慮は感じることはなかった。

暴力

 結婚前から暴力はあった。失敗したことについて、1時間2時間は当り前、3〜4時間延々と説教された。大声でどなりつけるということもあった。
 今考えればそれが暴力だったとわかるが、当時は「ちょっと怒りっぽいかな」と思うくらいだった。意外な一面を見た気はしたが、よっぽど虫の居所が悪かったのだろう程度に思っていた。優子さんの実父もアルコールが入ると暴れたので暴力に対する耐性があった。大声を出されても「ああ、この人もこういう面があるのか」と、割と軽く流してしまえた。夫の実家も、アルコールを飲んだ父親が子どもの前で母親に暴力をふるうことが普通に行われていた家庭だった。その影響で、夫は自分がふるう暴力についてもたいしたことではないと考えていただろうと優子さんは推測する。
 毎日、暴言と叱責の連続だった。たとえば、電話の受け答えが少しまずかったということが、夫のなかでは殺人罪と同じくらいの罪の重さで、自分の客と連絡がとれないことを、とても嫌がった。にもかかわらず、携帯電話などを持つことも嫌がり、電話のために「いつも留守番をしていろ」と言われていた。
 直接的な身体的暴力はあまりなかったが、直接殴らなくても「俺がね、殴ったら相手は死んじゃうよ」などと平気で言った。夫は、格闘技の経験があり、トレーニングで体を鍛えていて体格もよかった。その体で優子さんが怪我をしない程度に胸ぐらを掴んだり小突いてくる。「そうしなきゃお前は治らない」みたいなことを言いながら、頭からコップの水をかけたりもした。テーブルの下から足のすねを蹴られたり、小さい暴力は多々あった。

 ………

外部への相談

 夫はうつ病を持ち、精神的に不安定だったので服薬していた。夫の薬を電車に乗ってわざわざ取りにいかされていた。そのうち、同じ病院で優子さん自身も受診するようになった。
 夫の執拗な叱責について初めて話をしたとき、医者は話を聞き問題を整理してくれた。「もう離れたほうがいい」と言われたが、夫との話し合いをどのようにしたら安全に進められるのか、それが本当にできるのかがわからなかったから、具体的に行動できなかった。その病院には1、2カ月に1回程度、3年間ぐらい自分の都合に合わせて通た。
 女性センターも2回ほど利用した。相談員はよく話を聞いてきれて「もう、線をきっぱりひきなさい」「仕事の手伝いなんかいい」などと言ってくれた。でも、夫の仕事は忙しくなる一方で、とてもそんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。収入は少なくなく、その貯蓄でしばらく休んで計画を練り直すこともできたが、まず夫に提案ができなかった。当時、日本でもDVが大きく取り上げられてきた頃で、優子さん自身もDVについて以前の仕事の関連で海外での取り組みや支援の状況などわりに詳しく知っていた。だから、女性センターなら当然、優子さんの言ったことに対して適切な答えを出してくれると思っていた。しかし、「相手から離れなさい」とアドバイスしてくれても、相手を説得してくれるとか具体的に介入してくれそうなことはなかった。「それははっきり暴力です」とも言われなかった。具体的なアドバイスは1つもなく、結局「私が努力をしなけりゃいけないの」としか思えなかった。答えが出なかったと落胆した。問題の整理にはなったが、具体的な行動には至らなかった。
 友人とは結婚してから縁がきれていた。夫から友人と会うのを直接妨害されるようなことはなかったが、言い出しづらい雰囲気だった。友人に会いに出かけると夫はすごく不機嫌になった。帰宅した後、必ず嫌味を言われるので、だんだん、遠慮して年賀状だけになった。疎遠な状況の友だちとは暴力などの深刻な話はできなかった。
 家族には、離婚するという話になって、一度電話をした。それまでは忙しいが問題はないと暴力については一切話をしていなかった。父親からは、私が仕事をもっているから、相手がやっかむんだろう、お前はやりすぎじゃないかと言われたことはショックだった。実家に帰ってからも父親からは同じことをずっと言われ、加えて離婚原因を説明しても、近所の目を気にしたり、働いていないことを責めてくるのは、夫と同じだと感じた。その結果、精神的に落ち着けず、毎日の睡眠時間は4時間程度という状態が続いている。

家出から離婚まで

 最後の家出のきっかけは、いつものように、夫から駅に迎えに来いと命令されて、時間通りに駅にいなかったことに対して、車の中、家の中,寝室と計6時間にわたり叱責されたことだった。そのときも体調が悪かった優子さんは、長時間の叱責でだんだんと精神的に追い詰められ「ここまでやられて生きている意味がない、死にたい」という気持ちで一杯になっていた。夫は疲れてベッドに転がって寝てしまっていた。子どももそこにいた。トイレに行ってくると言い、1階に降りたあと、そのまま「消えちゃおう
」と思った。かばんに入っていた財布と、自分名義の預金通帳と免許証と最低限の身の回りのものだけ持って家を飛び出した。子どもを置いておくのは心残りだったが、一緒にいたら道づれになると思い置いていった。結局、死にきれずにあちこち転々としたあと実家に帰った。
 実家に戻って2、3週間して、夫と一度話し合いをした。娘には悪いことをしたと思っていたので、一言会って謝りたかった。戻る気もなかったから荷物も返してほしかった。でも、「勝手に飛び出して、帰ってきて迷惑かけた」と夫はまったく聞き入れてくれなかった。
 離婚調停は、顔をあわせずに調停員を通して一度だけ話して、それから直接顔をあわせた日に離婚を成立させた。優子さんが精神的に耐えられなくなってしまったからだった。調停員にも「今話を聞ける状態じゃないから、とりあえず離婚して、子どものことは後でも親権を変えられるから」と説得された。自分が受けた暴力については、まったく認められず、優子さんの家出が離婚の原因にされてしまった。解決金として200万円もらうが、財産分与もなければ慰謝料もなけえれば、もちろん子どもとのコンタクトも約束できないままの離婚となった。
 離婚後、子どもとの面会をきちんと決めるよう提案をしても返事はなく、自主的に養育費を送っても連絡はない。子どもの誕生日やクリスマスにプレゼントを買っても全く無視された。お正月にお年玉代わりにお洋服を贈ったら、受け取り拒否で戻ってきた。
 荷物もなかなか返してもらえなかった。、優子さんの結婚当時からの荷物などはすべて夫の家にあった。夫は優子さんが実家に住民票を移すときや離婚するときの必要書類も返してくれなかった。転居手続き、病院の転院手続きに必要な保険証もなかった。再発行できるものは全部再発行した。印鑑と免許証だけは持っていたので、身分証明はそれでなんとかなった。何度も手紙で催促してなんとか保険証だけは送ってきたが、3カ月ある保険証の提示期限ぎりぎりだった。それまでは違う病院に通院できないため、交通費3000円くらいかけて、2時間をかけて以前通院していた病院へ通院していくしかなかった。

公的相談機関に期待すること:DV当事者に必要な支援について

 優子さんは、最後の家出をする前に、2回公的機関に相談をした。しかし、具体的なアドバイスが得られなかったことから、実際に行動に移すことができなかったと言っている。
 「そおこんおセンターで解決がつかない状態だったら、もう少し積極的に、ほかの専門機関を紹介するとか、『それは暴力です』ってはっきり言ってくれたり、『逃げた方がいいです』『離れた方がいい、別居した方がいい』『お子さん連れてこっちに来なさい』とか、そういう、危機感は、私にもなかったけど、あちらにもなかった。まさか私が自殺を考えて飛び出す状態になるとは思わなかったし、予想もつかなかったんでしょう。起こってみてからはじめてわかった。そういう予測も、可能性としては、センターの方には、相談員の方にはもっていてほしかった。加害者と同居しているとどういう状態になるかを、もっと危機感をもって聞いてほしかった」と優子さんは言う。
 実家に帰ってきて、インターネットでDVサポート機関とか掲示板を探しているうちに「あ、これがDVだったのか」と気づき、腑に落ちたものがあった。実家がある地域の区役所に相談に行った時には、弁護士、調停など具体的に方法を教えてくれたので,行動を起こすことができた。その対応の差は大きかった。前回と今回では2、3年のギャップがあって、その間に認識が変わってきたのかもしれない。実家に帰ってきてからの方が、サポートがしっかりしていて、優子さんには、自分の方向性についてよく伝わったという。
 初めてセンターで話を聞いてもらえたとき、ガス抜きとしてはよかったが、具体的な方向性がまったく見えなかったのがつらかった。一方的にどちらかが悪いのか、調整でなんとかなるものなのかならないのか。夫が言うように、一方的に優子さんが悪いということはないと言ってもらえたのは気持ちが楽になったが、問題解決について具体的に何をしたらよういのか、アドバイスが欲しかった。事務の手伝いをやめて生活のなかで距離をとれと言われても、現実的にはできない。それならば、子どもを連れて、実家に帰って1カ月ぐらい静養したらどうですかなど。
 「できるだけ事例を集めて、この時は、こういう可能性があると。被害者がどういう行動パターンを起こすか、加害者がそのとき、どういうふうに加害がエスカレートするのかとか、パターンをできるだけ集めてほしい。それをちゃんと認識して、話のなかから、この人は、今後どういうふうな経過をたどるのかということを予想つけて、そこに至る前に、予防してほしい。被害に遭っていると思われる女性に、休養を与えてくれる、そういうアドバイスを積極的にしてほしい。私もそうだったが、当事者の女性は静養の必要性を実感していないので。積極的に休みなさいと伝えてほしい。たとえばうつ病はこれ以上働きつづけたらあぶない、休みなさいって上司がいうように。恋人とか、奥さん、DVと思われる相談があったら、そういうふうに声かけを積極的にしてほしい。それで、2、3カ月、間をおいて夫婦関係がおかしくなるようだったら、だめになる可能性が高い。もうあまり結婚にしばられないで、個人の幸せのほうに導いてほしい。私自身は離婚してほんとに元気になった」と優子さんは語った。

現在

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by open-to-love | 2008-10-23 20:25 | DV(IPV) | Trackback | Comments(0)