精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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精神障害者の家族に過重すぎる法制度

滝沢武久『精神障害者の事件と犯罪』(中央法規、2003年)

第4章 知られざる事実の数々−市民が抱く誤解の数々を解きほぐす

■池田小事件で傷ついた人たち

■治安対策だった「強制入院」システム

■精神障害者による殺人事件の被害者は誰か

■精神障害者の家族に過重すぎる法制度

 第2の問題は、「個人主義」をベースにした近代民主主義を標榜する欧米先進国とは違い、日本ではあらゆる生活の局面で「家族」や「家庭」が重要視される社会であるという点である。例えば、民法にある「三親等以内の家族に対する扶養」という概念は、生活保護法でも同様に、絶対的もしくは相対的扶養義務という形で「世帯単位」「他方優先」となる。そして、精神衛生法でも「扶養義務」に準じた「保護義務」が規定された(現精神保健福祉法にも規定されている)。家族は同意して精神障害者の「医療」「保護」をし「自傷他害を防止」しなければならない、と法律でうたってきたのだ。「家庭内トラブル」はマスコミの〝善意〟(と称される)で報道されることは少なく、公にならないことも多い。精神障害者と法的・心情的に対峙してしまうことによる最大の被害者・加害者は本人・家族であるという事実も、なぜ家族が事故や犯罪の被害の対象になるのかも、善し悪しは別として、あまり伝えられてこなかったのである。
 こうした社会や制度・システムのあり方は、精神障害者がもつさまざまな課題を家族が丸ごと抱え込まざるをえない環境をつくり出している。そしてコップの中の嵐のように生じた葛藤が増幅した結果、多くの不幸な事故を家庭内で生むという悪循環に結びついているのではないかと考える。
 何とか世間に知られずに「身内」で解決しようと躍起になる家族は、長期間にわたって生活費や医療費を負担しなければならない苦労の反動として、知らず知らずのうちに患者に心情的圧力を与え、抑圧的な対応をとり、過干渉になる。それが患者との関係を険悪にさせる。専門家の医師からの示唆で、時に治療の名のもとに、本人を鉄格子の中に押し込める役割を果たそうとする。
 入院の働きかけが、「鍵や鉄格子」のある病院へは行きたくないと思う患者の気持ちと相反し、服薬を勧める言動が、薬の副作用のつらさに悩む本人の気持ちを推察できない家族に対する不信感を生む。そしてそれらが新たな摩擦の火種となる。極端に発展した場合は、抑圧者を取り除こうとする「肉親殺害」が本人の心の中で芽ばえ、あるいはその衝動が誘発される。赤軍派事件で有名な運輸事務次官の山村新次郎代議士が実娘に殺された悲劇など、これに当たると思う。日本の著名人の家族にはこのような対応が多く、かえって事態がこじれているとよく聞いたものである。実際、小さな家庭内摩擦が非常に多い。
 心悩む患者にとって、最も大切な心安らぐ場、心をいやす場、と同時に少しは感情表出できる場が、日本には家庭にも専門の精神病院にもないのだ。熱心な家庭なるがゆえ、本人の望まぬ「鍵や鉄格子を装着した病院」の構造なるがゆえ、心安らぐ場であるべきところが、どこにも見当たらない。なかなか有効な手段が見つけ出せず、世間の冷たい目に堪える家族の側も大変な心理的な負担である。
 かつて力動的精神医学の一部から、「分裂病家族論」という考え方が提起されたことがある。私が三浦半島の保健所に勤務していた1965年ごろに知った話である。その論を簡単にいえば「統合失調症は家族の育て方に起因する」である。発病の原因も含めて家族関係に「責任」があるという説だ。こうなると、家族には逃げ場がなくなる。
 しかし私の個人的経験でも、本人とどのように接触すればよいのか、医療者からアドバイスを受けた記憶はほとんどない。職業者になってから参加した研究会や学会の論議では、病院や施設の職員から「過保護な家族とか冷たい家族」という声をよく聞く。では、具体的にどうすればよいのか、内容のある指導や助言、あるいは参考書は何もなく、もしあったとしてもその根拠は希薄なものだった。にもかかわらず、専門家のそうした言は、家族に精神的な緊張や負荷を更にかける。患者への対応にも悪い影響を与えやすい。教育論と同様に、遡及しえない過去に原因を探られるほどつらいことはないのに、そこを突こうとする精神医療の専門家の言葉に家族は萎縮してしまう。ケースワーカーとして患者や家族と接するなかで、私はこの科学的な根拠の少ない「学説」こそが、しばしば「患者と家族との関係を悪化させる」と感じた。
 私が遭遇した例では、よくこんなことがあった。法律の問題でもあるのだが、昔は家族や後見人の同意入院という形をとっていたので、患者が嫌がった場合、精神病院への強制入院の手続きや支払いは、実質上ほとんど家族や後見人が行わなければならない。家族(多くは中高年齢の両親)にとっても心底望んだ結果ではあるまい。ところが入院後、医者や看護師たちは、患者に「ここに入院させたのはあなたの家族の要請ですよ」などと、責任を回避するかのような台詞を平気で口にするのだ。これでは「心の病」の治療の微妙さを理解していない、といわれても仕方ない。
 「家族とも十分話し合いましたが、私が医師としてあなたの様子から判断し、あなたの病状を治療するべくあなたをここに入院させることにしました」というくらいの医師の主体的な姿勢や、患者や家族に対するインフォームド・コンセントが本来あるべきだ。しかし残念ながら、こうした医師はまれなケースであった。こういった精神医療が日常的な姿勢となった根本には、先ほど述べた一番目の問題、すなわち治療手段として安易に強制入院を認めているという現実が横たわっている。「精神障害者は病感・病識がないから、強制治療・強制入院をさせても構わない」という本来は入院の「例外的」であるべき手段が日本ではいつのまにか「一般化」して広がったのである。
 私がつきあったあるいは指導を請うたベテランの医師のなかに、「精神医療には強制入院が必要」と安易に話す人がいることには驚いた。なぜならば「強制治療はあくまでも例外」であるべきだと思うからである。本来「きちんと時間をかけて」本人の心を受けとめなければならないのに、面接時間の余裕がなくなりすぎた精神科の治療システムのなかで、しだいに結論のみを先行させる習慣が定着した医師は少なくない。司法とともに精神医療は事件・事故や犯罪防止という社会治安機能の役割に埋没してしまったのである。
by open-to-love | 2008-06-12 23:31 | 保護者制度 | Trackback | Comments(0)