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クラーク報告 その1

日本における地域精神衛生―WHOへの報告
 1967年より1968年2月に至る3カ月間の顧問活動に基づいて

 デービッド・H・クラーク

1 まえがき
1・1 日本における地域精神衛生活動の発展について、政府に勧告すること。
1・2 国の相手役(counterpart)と協同して、地域精神衛生を一般衛生活動にとりいれる計画を発展させ、とくに施設に収容されていない患者に対して、治療設備をととのえること。
1・3 精神遅滞者に対する施設を地域衛生活動のうちに計画すること。
1・4 計画指導の基礎として、この問題を全般的に評価し、要望される範囲での調査を開始すること。
1・5 要望に応じ関連する事項に関する勧告を行い、任務完了後報告書を提出すること。
 日本政府が初めにWHOに顧問を要望した理由と目的は、1966年12月3日付で西太平洋地域事務局に送付された次の文書に述べられている。
 精神遅滞を含む精神病質、精神障害の早期発見と適切なリハビリテーションを促進するための地域精神衛生計画は、日本が当面する緊急の社会的、公衆衛生的課題の一つである。
 この状況にかんがみ、地域における精神衛生活動の第一線機関として活動できるように826の保健所に新たな機能を与えるとともに、地域精神衛生に対する技術指導のセンターとして活動すべき精神衛生センターを設置することによって、地域社会内の精神衛生活動を活発ならしめるため、精神衛生法が改正された。
 しかし、現在のところ、公衆衛生機関と精神病院、一般開業医と地域資源との充分な協同関係にまで、地域精神衛生計画は統合されていない。
 英国における精神障害者の地域ケアは、すぐれて組織化され、発展し、デイ・センター、ナイト・ホステルなどの社会復帰施設が地域精神衛生審議会や精神衛生官の協同のもとに地域精神病院と密接な関係をもち、うまく働いている。

 従ってわれわれは、現在と前述の課題を観察評価し、地域精神活動を一般公衆活動にとりいれる方法を指示することのできる短期の顧問を要望し、とくにかかる顧問が英国から得られることを希望する。

 2 計画の概要
 はじめの見当づけと厚生省幹部との面接ののち、筆者は多数の精神衛生施設を訪れた。このさい筆者は相手役である国立精神衛生研究所精神衛生部長加藤正明博士の援助を受けることが多かった。
 筆者は、地域的差異を見るために、日本内の各所に旅行し、汽車や自動車の長い旅行で多くの有益な対談をした。一般状況を把握したあとで、いくつかの点を明かにするために何人かの報告者と話し合った。これらの人はすべて、広汎な課題に対する多くの質問にきわめて快く応じ、忍耐づよく聴いてくれた。筆者が個人的に見たり考えたりしたことから生じた筆者の観察と勧告に関して、かれらが責任があるとみなされないために、これら情報提供者やすべての施設についての詳細は述べないことにする。
 筆者は8つの都市(東京、横浜、仙台、松本、名古屋、津、京都、大阪)と9つの県を訪問し、次の諸施設を訪問した。
 15の精神病院(国公立7、私立8)
 7の精神遅滞施設
 5の精神衛生センターおよび児童相談所
 5の大学クリニックおよび多くの他の施設(保護作業場、ハーフウェイ・ハウス、県および政府機関)。また、英国精神医学について、3人から200人までの聴衆に12回の講演を行った。すべての人が協力的で、理解できた質問に答えようと努力していたが、コミュニケーションの困難が筆者のすべての仕事につきまとった。私は日本語が話せず、ある報告者は英語が全く話せなかったからである。ゆっくりなら英語を話す日本の医師もいた(ほとんど全部が読むことはできた)。英語が流暢に話せ、英語で考え、深いつっこんだ会話を発展できる人は少なかった。これはたえずついてまわった悩みであり、筆者の理解にとっての限界であったが、顧問としての基本条件における絶対的なことであった。
 筆者の報告は4項目にわかれる。即ち、背景、観察、考察および勧告である。「背景」の項で筆者は日本人以外の読者のために、若干の歴史的事実(日本の報告者には周知のことであるが)を述べた。「観察」の項で、筆者が自分の目で見たり発見した重要なことがらについて述べた。「考察」の項では、日本の精神衛生にとって緊急の課題として重要と見られるいくつかのトピックスについて考察した。「勧告」の項では、近い将来何らかの行動が可能であり、かつ行動すべきであり、それが有効な結果をもたらすであろうと思われた領域について述べた。

 3 背景
3・1 歴史的背景
 明治維新(1868年)以前には、精神疾患の諸問題は日本の伝統的な方法で処理されていた。精神病を治すということで評判を高めた寺院もいくつかあった。各種の精神神経障害はすべて、呪術的な方法で処理されていた。軽度の精神遅滞者やおとなしい精神病者は農村社会の中に吸収され、何とかうけいれられていた。しかし、重い精神遅滞者や重い精神病者は、時折流行する伝染病のため急速にたおれていったのである。
 1868年以降、西欧の医療方法が公汎にとりいれられた。その中にはKrepelinその他ドイツの先学たちが発達させた精神医学の技法も含まれていた。1875年には京都府癩狂院が開設されたが、19世紀の間中、日本における精神医学の発達は遅々としていた。それはドイツ流の器質本位的なやり方にとどまったまま、精神病とてんかんの医療にあたっていた。
 精神病院はほとんどなく、しかも社会を困らせるような患者だけが入院させられる傾向があった。家族の多くは患者を自宅におき、しかも監禁しているものが多かった。戦時中は空襲が諸都市を灼き尽くす中でしばしば精神病院も破壊され、戦後は混乱と飢餓の中で慢性分裂病患者が死んでゆき、そのために入院患者の数はぐっと減少した。

3・2 日本の精神衛生に関する従前のWHO報告
 1953年にはPaul Lemkau博士(1)が、それに次いでDaniel Blain博士(2)が、WHOを代表して来日した。かれらは、日本が工業の拡大と生活水準の向上に伴って、戦争と占領から立ち直りつつあることを見出した。人口は急速に増加し、多くの子供が出生した。
 Blain博士によれば、1952年には22957人の精神科患者が入院しており、これは人口1万あたり2・6の割合であった。そしてBlain博士は、「日本における病床に対する潜在的な需要はきわめて大きい」とした。かれらの記録によれば、病院は小さく、建物は荒廃しているが、職員はよくそろっていた。Lemkau博士は、「一般的に精神療法がよい結果をおさめるためには長い時間が必要であると考えられているのに、ここでは精神療法を長期にわたっておこなうという考え方は一般に知られていないし承認されてもいない」と記している。もっともかれは後の方で、「精神療法家への需要が今後数年の間に切迫してくるであろうことはほとんど確実である」ともいっている。
 Blain博士は「厚生省内における精神衛生面での指導力と経験はあまりにも低すぎる」としている。かれらはこの他にも多くの評価と勧告をおこない、とりわけ専門的訓練に関して評価と勧告をおこなったが、この点はその後、充足されてきている。Blain博士はまた、精神病院の病床数は人口1万あたり10から20の間にまで上昇させることを勧告した。
 1960年にはMorton Kramer博士も来日し、精神医学的統計の収集方法について報告した。(3)
(1)Report of Consultant in Mental Hygiene to Japan,1953年6月2日〜7月14日
(2)Report of Consultant in Mental Health,1953年11月13日〜12月12日、1954年1月
(3)Report on a Field Visit to Japan, 1960年1月9日〜22日、1961年6月13日

3・3 日本における衛生サービス
 最近15年の間、日本の工業は目覚ましく発展した。国民の生活水準も、はじめは都市において、次いで地方においても向上した。平均余命は上昇し、結核や赤痢のような伝染性疾患の主要なものは今や制圧されつつある。若い人々は以前よりも健康になっている。戦争直後非常に高かった出生率は1955年までに安定し、今では約18/1000にだいたいおちついている。総人口は1966年には9827万4961で、そのうち65歳以上が約6パーセント、15歳未満が25パーセント、15歳から64歳までが69パーセントである。もし現在の傾向が続くならば、2000年までに若年層の割合はすこしく低下し、老齢者の割合はいちじるしく高まることであろう。
 公衆衛生の組織は都道府県単位に組織されている。日本には46の都道府県があり、それぞれ平均210万の人口をかかえ、公選の知事と議会とをもっている。県によって衛生と福祉とが一つの部局になっていたり、別の部局になっていたりする。戦前の過度の中央集権への反動として、地方自治の伝統が過去20年の間に発達しているのである。
 都道府県部局は伝染病対策には熱心で、保健婦を使って保健所のネットワークを発展させてきた。これは結核制圧に主導的役割をはたしたものである。たいていの県は県立の精神病院を設けており、県によっては精神薄弱者のための県立の施設を持っているものである。
 中央においては、厚生省(政府の12省4庁の一つ)があらゆる医療サービスを統轄している。多くの国におけると同様、地域精神衛生サービスは、文部省、労働省などのような他のいくつかの省とも関わりがある。日本においては、精神衛生問題は厚生省内のいくつかの部局に関連している。
 厚生省には10の局がある。公衆衛生局には精神衛生課(7課中の一つ)があり、これが精神衛生組織およびソシアルワーカー-精神衛生サービスに関係するすべてのもの-の統轄と推進をつかさどっている。児童家庭局は子供の中で特にハンディキャップのあるものを扱っており、そこには精神遅滞者や非行少年が含まれている。
 近年、精神遅滞者(普通教育の不可能なもの)に対する教育施設が発達してきている。しかし、成人した精神薄弱者のための施設などはすくない。
 重篤な精神遅滞者(すなわち白痴)は、以前に長く生きのびる傾向はなかった。かれらは大部分、今もなお両親の家にとどまっている。若干のものが精神病院に収容されている。
 家庭のない青少年の非行および反社会的行動の問題は終戦直後の数年には主要な社会問題であり、特別法によって数多くの施設が作られた。今日ではこの問題は一般的でなくなってきたが、施設の方は残っていて、多くの青少年障害者を扱っている。
 日本においては最近15年の間に、精神病床を増設しようとの方針が定められ、その努力は成功した。公立病院の建物に拡張され、小規模ながら多くの私立精神病院が建設された。かくて1967年までに入院精神病患者人口の大部分は私立精神病院に在院することとなったのである。
 1967年現在、精神病院の数は725である。うち国立病院は3、県あるいは市立が39、そして私立は683であるが、平均規模は約180床であり、1000床以上のものはほんのわずかにすぎない。なお、大学および県立一般病院にも多くの精神科入院設備がある。
 1968年に政府は3つの法律(精神衛生法、生活保護法、及び国民健康保険法)にもとづく精神障害者のための予算として約750億円(2億1000米ドル)を計上した。このうち院外患者へのサービスにあてられるはずのものは約30億円である。

3・4 専門職員
3・4・1 医師
 日本における総合大学および医科大学の数はこの間に増加した(1967年現在、医学部卒業生を送り出そうとしている大学は46ある)。課程は2年間の前記教養課程と、4年間の医学課程からなる。授業は日本語で行われるが、英語とドイツ語の教科書が広汎に用いられ、多くの医師はこれら両国語を読む力がある。精神医学的指導は通常、型通りの講義と患者の提示がいくらかおこなわれている。もっとも、相当数の患者を扱っている精神科に、ある期間配属するようにしている大学も若干ある。
 卒業後は1年間のインターン期間があり、国家試験を経て免許が与えられる。多くの医師は自分の大学の病院で専門家への関門である医学博士の称号を得るべく働くのである。
 米国におけると同様、日本においても専門分化への傾向が進んでいる。英国にみられるような家庭医は今日、都市においてはまれである。日本の医療でとりわけ特徴的なのは、数多くの小規模な私立病院があって、それを1人の医師がその家族とともに運営しており、患者を自分だけでかかえて診ているということである。私立の精神病院もこのパターンの一部をなしている。
 もっと大きな病院の多くは大学病院で、これの声価は高く、多くの患者は直接にそこの外来部へ出向いてゆく。
 日本の保険制度は医療体系の重要な部分を占めている。多くの企業はその雇用者のために保険業務を行っている。数多くの民間保険組合と、いくつかのことなった公的体系とがある。保険料率はすべてことなっており、受益基準もことなっている。全体を支えているのは国民健康保険制度で、これは他の保険の適用を受けていない者すべてに対し、最小限の利益を保障しているものである。しかし、どの保険の場合でも、医師はともかく医療を行い、のちに保険組合に請求するのである。もっとも、多少の金額が直接に患者から徴収されることもある。
 多くの精神科医は、たとえば私立病院や大学病院で働くとか、公的機関の嘱託となるとかして、何らかの地位についている。精神医学の中での専門分化はほとんどない。精神科医はみな、精神病でも、入院患者でも外来患者でも、心因反応(抑うつおよび精神神経症)でも、障害児でも、精神遅滞者でも、癲癇でも、精神療法でも、取り扱おうとしている。

3・4・2 看護婦
 看護婦の養成訓練機関はさまざまある。2年から4年で准看護婦あるいは正看護婦の資格が与えられる。米国におけると同様、最初は理論的な教育が行われ、制限つきの病院実習期間がそれに伴うが、実際的知識の修得は卒業後のことと期待されている。それでも日本では資格のある看護婦の数は多い。精神科看護についての専門的訓練は行われていない。男性の看護人(准も正も)は数少ない。しかも日本の病院においては、看護面での上級の地位は女性によって占められている。精神病院において、看護婦とともに、免許のないものが働いていることはもちろんであるが、しかし英国におけるほど数多くはないし、米国とはまったく趣を異にしている。なお、人員補充問題はそんなに深刻ではない。

3・4・3 ソシアルワーカー
 現在、ソシアルワーカーは4年間の大学教育を受けると、その後はあらゆるかたちのソシアルワークを行いうることになっている。この課程は戦後の数年間にアメリカの指導のもとに発達し、アメリカ流の実践と社会理論に大きく依存している。上級の地位の多くは、早い時期に経験を積むことで資格を認められた人々によって占められている。精神医学的ソシアルワーカーを訓練するための専門的精神衛生課程はない。精神医学ソシアルワーカーの協会が最近組織され、訓練をおしすすめ、基準を確立しようと試みている。

3・4・4 臨床心理学者
 心理学および臨床心理学の大学課程は、戦後アメリカの援助のもとに発達した。臨床心理学者は教育活動の中で、あるいは個人的な実践の中で、カウンセラーとして働いている。しかし大部分の精神科施設には臨床心理学者はほとんどおらず、いても大抵はテストと研究に従事している。

3・4・5 作業療法士
 1963年5月に厚生省によって理学療法士および作業療法士の訓練のためにリハビリテーション学院が設立され、20名の訓練生が入学した。1964年5月、WHOは日本における第一期の有資格理学療法士および作業療法士たちへの訓練を援助する目的で理学療法家を1名派遣した。

 4 観察報告
4・1 地域精神衛生サービス
 これはあらゆる精神衛生サービス、とくに病院外のサービスが含まれている。2、3の国々では、このサービスに非常に広い意味を与え、外来での精神科医療サービス、ハーフウエィ・ハウスと治療社会クラブといった補助的な活動、精神衛生連盟と自殺予防協会のような自発的活動を網羅している。また、ある場合には、このサービスは性教育の仕方を教師に、テレビ番組の改善方法をそのプロデューサーに、暴動を中止させる方法を警察に助言するという点で、地方自治体内の精神医学的な干渉をするところまで拡げられている。
 日本には、こうした諸活動が拡大されたという形跡はほとんどない。主な機関は、精神障害者や精神遅滞者や慢性の分裂病患者のための公的な施設と、病院の精神科外来、とくに大学病院の外来である。保健所が826あるが、それらは元来結核とその他の伝染病をコントロールするために発展したものなので、公衆衛生医の指導下にある保健婦が配置されている。最近、いくつかの保健所が非常勤の精神科医を参加させるようにしている。この精神科医の主たる機能は職員に助言をすることである。こうした保健所は、精神分裂病者や精神遅滞者が家庭で生活できるように支え、必要なときに、彼らを病院に移す最初の処置をするのに役立つ仕事をしていると考えられている。しかし彼らは情緒障害者とはほとんど関係をもたない。
 精神的欠陥者に対する広汎なアフタケア・サービスはほとんど発展していないように見える。児童家庭局が精神遅滞施設退園児に対する広汎なサービス計画を発展させ、労働省が精神遅滞者の雇用促進問題に関心を示しはじめているが、まだ発展してはいない。地域社会には、精神遅滞者(ないし精神病者)のための、実質的な保護工場はない。
 精神医学的に問題をもつ多くの人々が、精神科専門医を訪れ、あるものは私立精神病院の経営する外来診療所を、また、多くのものは、大学病院の外来を訪れている。こうした診療所は、精神病(分裂病)と癲癇にかかり切っているが、かなりの数の心因反応(うつ的乃至不安状態)と精神神経症(強迫神経症や、不安神経症など)の人々を診察している。精神神経症と診断される患者数は増加してきているが、大学病院の外来は一般に無給職員が配置されており、繁忙をきわめているため、神経症の治療はだいたい投薬と簡単な面接である。
 一般科の医師を訪ねた患者たちの多くは、ノイローゼ(ドイツ語のNeurose)と診断され精神安定剤によって治療されている。

4・2 精神病院
 日本の精神病院は規模が小さく最近に建てられている(20年以内)点や、その多くが私立経営であるという点で、ヨーロッパや米国の精神病院とは異なっている。しかし、そこにはいろいろの類似点がある。患者たちの多くは分裂病であり、その多くが長期在院者であり、多くのものが感情鈍麻し、退避的で、退行しやすく、病棟は満員であることなど。
 私は800ほどある病院の中の15の病院を見学しただけである。従って、私の所説には誤りとして棄却されるものがあるかもしれない。しかし、これらの施設はすべて、優良とか最優良といった好評の病院であった。情報を提供してくれた人たちから私は、他の病院がもっとずっと粗末であることや、それらの病院の3分の1は非常に悪いということをきかされたが、こうした種類の病院は一つも見せてもらえなかった。次の観察報告はこうした条件を考慮して読んでほしい。
 私は初め患者の生活条件が、さむざむとしており、超満員のように思えたが、数人の患者の家庭訪問をした後になって、病院の方が患者の住み慣れた家庭の生活条件に比べて良好であるということがわかった。給食は良好であるように思えたし、患者たちも身体的に健康に思えた。青年と中年の患者たちが多く、老人はごくわずかしかいなかった(60歳以上は4パーセント)。職員の配置は、数の上では、高比率の医師と適当数の正看護婦で十分整備されていた。職員と患者との関係は、温かく友好的でユーモアがあり、西欧の著しく貧弱な精神病院に見られるような距離を置いた冷たさや軽蔑は少しもないように思えた。多くの病棟の患者が私有物を十分にもっていたし、それは古いヨーロッパの病院とは著しく対照的であった。一般的には、柵、二十鍵、手すり、防護ガラスなど、外国の病院でその価値を傷つけている重々しい安全設備(security provisions)はなかった。
 しかし積極的な現代的治療法や社会復帰活動が会得されているという証拠もあまりなかった。わずかの病院では、Herman Simonthe(1926)の活動療法(the Active Therapy)の原理が今なお存続され、良好な活動がなされていたが、その他の多くの病院の患者の活動水準は非常に低いものだった。患者たちは、殆んど何もせずに座り込んでいたり、真昼でもベッドに横たわっていたり、自分の身辺のことをしたりしていた。ある病院では、3分の1の患者たちが、午後3時頃(in the middle of afternoon)だというのに、予期せぬ降雪を理由にベッドに入っていた。いくつかの病院には注目に値するような仕事や活動のプログラムがあったし、ある病院では、夜間病院の看護を受けながらコミュニティの中で働いている患者がいたけれども、多くの病院は、このようなことをしていなかった。
 非常に多くの病棟が必要以上に閉鎖されていた。束縛方法として保護室、個室、安全区画があまりにも頻繁に利用されていた。明らかに長期間独房に閉じ込められていた患者がすくなくなかった。2つの病院の新しい建物に鋼鉄型の柵や閉鎖回路式のテレビ等のような念の入った装置をそなえた安全区画があった。こうした装置は有害な孤立や退行へと導いてしまうものである。
 2、3の自覚を持った院長は、患者たちの生活や仕事や行動の自由だとかに目を向けていたが、多くの精神病院の医師は、身体的な治療を行ったりカルテを作成するといった伝統的な医師の役割だけにもっぱら限局しているように思えた。ある病院の医師は、神経解剖学や神経病理学の研究にまず心を奪われていた。
 看護婦たちもまた自分たちの責任がリハビリテーションに患者を導入する活発な生活指導やその促進にあるとみなすよりは、身体的看護を施すことにあるとしているように思えた。最近の急速な精神科医療の発展のうちにあって、WHOの精神衛生専門委員会が出した第三報告書(専門報告シリーズ第73号、1953)に書かれている原則に十分な注意が払われていなかったし、社会精神医学の最近の発展についての認識も全くないようであった。
(その1に続く)
(野田正彰著『犯罪と精神医療 クライシス・コールに応えたか』岩波現代文庫、2002年)
by open-to-love | 2008-01-03 20:46 | クラーク報告 | Trackback | Comments(0)