DV夫は「人格障害」?
2007年 09月 01日
DV夫は「今考えれば、人格障害ですよね」の記述の妥当性と、もう一つの差別
2007年、共同通信が配信した「生きる」というタイトルの第5回「シングルマザー 2子抱え生活苦難」という記事に、下記のような記述がありました。
………元夫はささいなことで暴れ、嫌がらせを繰り返した。黒田さんは真意が分からず、「私が悪いのか」と自問した。結婚一年の記念日に妊娠を告げると、返ってきたのは「誰の子?」という言葉。怒りがわいたが、暴力が怖くて、何も言えなかった。
「子どもが生まれたら、変わるかもしれない」。そんな期待はあっさり裏切られた。離婚を考え始めたころ、二人目の妊娠に気付く。悩んだ末、産んだ息子には、障害があった。
ショックだった。支えてくれるはずの元夫は「おまえのせいだ」と責め、暴力がエスカレートした。息子に対しても「パーなの」と暴言を吐く。「人じゃないって思った。今考えれば、人格障害ですよね」と黒田さんは振り返る。
典型的なドメスティックバイオレンス(DV)。それでも、「障害のある子を抱え、一人でやっていけるのか」と悩み、離婚を決断できなかった。両親も「我慢しなさい」の一点張りだった。………
この記事の主眼は、いかに、このDV男がヒドいやつか、です。暴れ、嫌がらせをし、障害児を生んだことを責める…確かに、最低の男ですね。
ですが、この男は、本当に「人格障害」なのでしょうか?
この男について、医師が「人格障害」と診断を下したのでしょうか? であるなら、境界性人格障害でしょうか、自己愛性人格障害でしょうか、反社会性人格障害でしょうか?それとも、この女性が診断基準に基づいたわけではなく、何の気なしにあるいは経験的に「『人じゃない=人格障害』と一般的にされているので、この男は人格障害と呼んでも差し支えない」という理由で「人格障害」としているのでしょうか?
さらに、その女性を取材し記事を書いた記者は、何を以てその「人格障害」という表現を妥当として、記事にそのように書いたのでしょうか?
それらすべてが読者には分からない。この記事には判断材料、根拠がない。少なくとも、言葉本来の「人格障害」を知らぬ読者にとっては、「人格障害」が何かという材料が「人じゃない」という記述しかないので、人格障害とは人じゃない、そう判断せざるを得ません。
つまり、この女性と記者は、DVを受けた女性の苦しみを訴えるがためには、「そんな男は人格障害」という差別的な言葉を吐いても構わないと認識している、ということになります。
人格障害者は、すなわち人でないのでしょうか? 人格障害に苦しむ当事者がたくさんいて、そして、この記述に苦しめられるであろうことを知った上での発言、記述でしょうか? すべての人格障害者は、人でなく、DVに走るのでしょうか? きちんと医学的に診断された「人格障害」という診断名そのものすらも、当事者に対する差別だとして、診断名変更が論議されていることを、知っているのでしょうか?(「精神保健福祉白書2006」の人格障害の項参照)
すなわち、この配信記事は、まるで無知に起因する差別か、そこそこものを知ってるけど中途半端な記述しかできなかったため結果的に差別になったか、のいずれかは知らないけれど、どっちにせよ、一つの差別(女性に対するDV)を表出したかわり、新たな差別(そういうDVをする男は人格障害だ)を生んでしまったことになりました。
女性の苦しみと、人格障害の当事者の苦しみは、互いの苦しみを分かち合う関係ではなく、むしろ敵対関係になる。女性が権利を主張することは、同時に、障害者の個性を抑圧し、ステレオタイプ化することを生む。そういう言辞が許容される社会である。そんな現実が、この記事から読み取れます。そしてそれは、記者が精神疾患に無知か、注意力散漫だったことが幸い(?)して、この女性の「今思えば人格障害」という発言がそのまま記事化されたことにより、図らずも明らかにされました。
話を敷衍します。家父長制の系譜に根差した日本社会の中心を占める「健常者男性」に対し、周縁に抑圧されている女性や障害者が声を上げ、権利を主張し始めています。でも、女性にしても、障害者にしても、自らの痛みを主張することはあっても、同じように痛みがある他者への共感、あるいは想像力を持つまでには至っていない。手を結び合い力を合わせ権利を獲得していくのではなく、反目し合い足を引っ張り合っている。残念ながら、そんな構図が、この記事から読み取れます。そして、そんな構図があるかぎり、いつまで経っても世の中よくならない。この記事を読んで、一番喜んでるのは、実のところ「健常者男性」じゃないでしょうか。
差別の構図は、江戸時代の身分制度において、武士階級が、農民とエタ非人を適当に争わせておいて、不平不満をガス抜きさせて、制度そのものの根本的矛盾に目を開かせないようにしむけた、というのと、たいして変わってませんね。他者に開かれる、とは、かくも困難です。
2007年、共同通信が配信した「生きる」というタイトルの第5回「シングルマザー 2子抱え生活苦難」という記事に、下記のような記述がありました。
………元夫はささいなことで暴れ、嫌がらせを繰り返した。黒田さんは真意が分からず、「私が悪いのか」と自問した。結婚一年の記念日に妊娠を告げると、返ってきたのは「誰の子?」という言葉。怒りがわいたが、暴力が怖くて、何も言えなかった。
「子どもが生まれたら、変わるかもしれない」。そんな期待はあっさり裏切られた。離婚を考え始めたころ、二人目の妊娠に気付く。悩んだ末、産んだ息子には、障害があった。
ショックだった。支えてくれるはずの元夫は「おまえのせいだ」と責め、暴力がエスカレートした。息子に対しても「パーなの」と暴言を吐く。「人じゃないって思った。今考えれば、人格障害ですよね」と黒田さんは振り返る。
典型的なドメスティックバイオレンス(DV)。それでも、「障害のある子を抱え、一人でやっていけるのか」と悩み、離婚を決断できなかった。両親も「我慢しなさい」の一点張りだった。………
この記事の主眼は、いかに、このDV男がヒドいやつか、です。暴れ、嫌がらせをし、障害児を生んだことを責める…確かに、最低の男ですね。
ですが、この男は、本当に「人格障害」なのでしょうか?
この男について、医師が「人格障害」と診断を下したのでしょうか? であるなら、境界性人格障害でしょうか、自己愛性人格障害でしょうか、反社会性人格障害でしょうか?それとも、この女性が診断基準に基づいたわけではなく、何の気なしにあるいは経験的に「『人じゃない=人格障害』と一般的にされているので、この男は人格障害と呼んでも差し支えない」という理由で「人格障害」としているのでしょうか?
さらに、その女性を取材し記事を書いた記者は、何を以てその「人格障害」という表現を妥当として、記事にそのように書いたのでしょうか?
それらすべてが読者には分からない。この記事には判断材料、根拠がない。少なくとも、言葉本来の「人格障害」を知らぬ読者にとっては、「人格障害」が何かという材料が「人じゃない」という記述しかないので、人格障害とは人じゃない、そう判断せざるを得ません。
つまり、この女性と記者は、DVを受けた女性の苦しみを訴えるがためには、「そんな男は人格障害」という差別的な言葉を吐いても構わないと認識している、ということになります。
人格障害者は、すなわち人でないのでしょうか? 人格障害に苦しむ当事者がたくさんいて、そして、この記述に苦しめられるであろうことを知った上での発言、記述でしょうか? すべての人格障害者は、人でなく、DVに走るのでしょうか? きちんと医学的に診断された「人格障害」という診断名そのものすらも、当事者に対する差別だとして、診断名変更が論議されていることを、知っているのでしょうか?(「精神保健福祉白書2006」の人格障害の項参照)
すなわち、この配信記事は、まるで無知に起因する差別か、そこそこものを知ってるけど中途半端な記述しかできなかったため結果的に差別になったか、のいずれかは知らないけれど、どっちにせよ、一つの差別(女性に対するDV)を表出したかわり、新たな差別(そういうDVをする男は人格障害だ)を生んでしまったことになりました。
女性の苦しみと、人格障害の当事者の苦しみは、互いの苦しみを分かち合う関係ではなく、むしろ敵対関係になる。女性が権利を主張することは、同時に、障害者の個性を抑圧し、ステレオタイプ化することを生む。そういう言辞が許容される社会である。そんな現実が、この記事から読み取れます。そしてそれは、記者が精神疾患に無知か、注意力散漫だったことが幸い(?)して、この女性の「今思えば人格障害」という発言がそのまま記事化されたことにより、図らずも明らかにされました。
話を敷衍します。家父長制の系譜に根差した日本社会の中心を占める「健常者男性」に対し、周縁に抑圧されている女性や障害者が声を上げ、権利を主張し始めています。でも、女性にしても、障害者にしても、自らの痛みを主張することはあっても、同じように痛みがある他者への共感、あるいは想像力を持つまでには至っていない。手を結び合い力を合わせ権利を獲得していくのではなく、反目し合い足を引っ張り合っている。残念ながら、そんな構図が、この記事から読み取れます。そして、そんな構図があるかぎり、いつまで経っても世の中よくならない。この記事を読んで、一番喜んでるのは、実のところ「健常者男性」じゃないでしょうか。
差別の構図は、江戸時代の身分制度において、武士階級が、農民とエタ非人を適当に争わせておいて、不平不満をガス抜きさせて、制度そのものの根本的矛盾に目を開かせないようにしむけた、というのと、たいして変わってませんね。他者に開かれる、とは、かくも困難です。
by open-to-love
| 2007-09-01 00:05
| パーソナリティ障害
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