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ものすごく大きな波が来てパパとママをさらっていってしまったの。それ以外はわたしは元気です

『パパ、ママどうして死んでしまったの―スウェーデンの子どもたち31人の手記』

編者:スサン・シュークヴィスト( Suzanne Sj¨oqvist)
訳者:ビヤネール多美子
(論創社、2008年)

「ものすごく大きな波が来てパパとママをさらっていってしまったの。それ以外はわたしは元気です」

シャルロッテ 16歳
母イエンネ(52歳)と父クラース(53歳)をなくしたのは15歳の時だった

 プーケットから飛行機で帰ってきた時、両親がいっしょでなくてとても寂しかった。両親について何も知らされていなかった時は、パパもママもいったいどうしてしまったのだろうとただただ心配をしていた。
 わたしにはどうしてもわからないことがある。
 パパは波を見た時、なぜ丘のほうに向かって走っていかなかったのだろうか。
 それにママはなぜ逃げ切れなかったのだろうか。
 2004年12月26日、暗闇が地球を襲った。世界であれだけたくさんの子どもたちが死んだというのに、なぜこの私が生き残ったのだろうか。

 カオ・ラーク クリスマスの翌日
 あの日わたしは家族といっしょにすばらしい朝ごはんを食べた。ママはわたしたちのためにサンデッキを確保するといって早々にホテルを出た。マルクスはクリスマスイブに見た映画の残りを見るといって部屋に残り、見終わったらすぐ海岸に来るといっていた。
 わたしはママとパパと海岸でサンデッキに座ってくつろいでいた。ママはダイビング雑誌を読んでいて、わたしはサンローションを肌に塗っていた。パパはなんだか海が変だと海を見ていた。ママとわたしも見た。水が引いてなくなっており、砂の上に魚が置き去りにされていた。たくさんの島がむき出しで突き出ていた。子どもたちが走って来て、魚が死なないようにと水に返しているのが見えた。パパが水が消えていくところをビデオに撮りたいから。ホテルにカメラを取りに行ってくれないかとわたしに頼んだ。でもわたしが面倒くさがったので、パパは自分でカメラを取りに行こうとしていた。
 その前にパパとママが何かいいあっていた。そしてパパが水が沖に引いていっているようだと言った。ママとわたしが叫んだ。「水はこっちに向かっているわ」。「大丈夫だよ。こっちに来ることはないから」とパパはいいながらホテルのほうへと向かった。その時以来、わたしはパパの姿を見ていない。
 ママとわたしは波がこっちに向かって来るのを見た。サンデッキのまわりに置いた持ち物を拾いあげ、走った。ママはわたしから離れていったけれど、声は聞こえた。「シャルロッテ、早く逃げて! どんなことが起ころうともママはあなたをいつも愛しているわ」。
 その時以来、わたしはママに会っていない。わたしがついて来ているだろうかと後ろを確かめることもしないうちに、ママは消えてしまった。わたしはパニックに陥りながらも必死になって高台の方に向かって走った。一段高い所に行き着くことができたけれど、前も後ろも大混乱だった。小さな子がひとり、階段のところで泣いていた。母親とはぐれ、その子はひとりぼっちで残されていた。
 わたしは階段の手すりにしっかりとつかまった。カオ・ラークじゅうに波が流れ込んできた。わたしは頭から波をかぶり、つかんでいた手すりが手から離れていくのを感じた。波にゆられ、何度か行ったり来たりしていたが、息をしようとして海水を飲み込んでしまった。水面に浮き上がらないと、もうだめ。最後に深い息をした。目はつぶったままだった。
 わたしは何かをつかんでいた。木片だろうか? それとも屋根の一部? 見ようとも思わなかった。つかんでいる物から手が離れてしまったのか、それともそれがこわれてしまったのか。わたしはふたたび海に戻され、寄せたり戻ったりしていた。7分ぐらいたっただろうか。目を開けてみるとホテルにいた。まわりにはたくさんの人が横たわっていて、あちこちから血が吹き出ていた。わたしは泣きながら「助けて」と叫んだ。男性がわたしが立ち上がるのに手を貸してくれた。
 「どこの国から来たの」と女の人が英語で聞いた。スウェーデン人だった。彼女はわたしをなぐさめてくれてタオルをくれた。どこのホテル? 部屋番号は? 名前は? さらに家族はどんな人たちか、何歳か、そしてパパとママと兄さんの名前も聞いた。その人は「心配しなくて大丈夫、きっとうまくいくから」といった。わたしは「足がすごく痛んで、怖いの」といった。青あざができた脚は曲がってしまって自分で立つことができなかった。わたしがあまり痛がるので、救急病院に連れて行きたいとタイの女性たちがいっていると、その人がいった。わたしは彼女から離れたくなかったけれど、ほかに選択の余地はなかった。わたしは担架に乗せられ、車で運ばれた。
 途中、叔母といとこたちが走って行くのが車から見えて、運転手に止まってくれるように叫んだ。手をふったり、窓をたたいたりした。でもふたたび混乱におちいっていた。道路まで水が溢れていて、わたしはこわくてしょうがなかった。いっしょにいたタイの人たちが、波がもっと押し寄せて来るかもしれないので、山のほうへみんな避難しなければならないと言った。運転手は車を止め、わたしを助けてもくれないで、山のほうへと逃げて行ってしまった。
 わたしは這ったり、跳び上がったりしながら山の方へと向かった。足が茶色になっていた。山の上にはある家族が住んでいて、わたしに水と衣類をくれた。その家の人が木の葉で血を拭き取ってくれた。ここでホテルの受付で働いていた女の人に会った。彼女は英語を話すことができた。7時間たって、もう大丈夫ということがわかってから、わたしたちは下におりていった。彼女はわたしが歩くよりずっと楽だった。
 わたしたちは病院に行った。そのホテルの女性が通訳してくれた。そこで体や髪を洗ってくれた。足の傷も手当てしてくれて包帯をまいてくれた。そのあと、その女性が自宅に連れていってくれた。家族が衣類や食べ物、そしてゴムぞうりをくれた。夜はそのベッドで彼女もいっしょに寝てくれたのだった。翌日の夜、彼女のお兄さんがだれかにメールを送りたいかと聞いた。わたしは友達にメールを書いた。こんなふうに書いて送った。

 −こんにちは。元気ですか? わたしは元気だけれど、たいへんな事が起こってしまいました。ものすごく大きな波が襲ってきて、ママとマルクスとパパをさらって行ってしまったの。今タイの人の家にお世話になっていて、これからどうすれば家に帰れるかもわかりません。携帯電話もお金も旅券も全部波にさらわれてしまいました。元気でね。間もなく会えることを願って。−ロッティより。

 みんながわたしの兄と両親を探してくれた。3日目になって一台の車がやって来て、わたしをプーケットまで連れて行ってくれると伝えた。わたしはお世話になった家族に、泊まらせてもらったこと、お金をいただいたことのお礼をいった。車から降りると、たくさんの人が助けてくれた。そこには電話があって、だれかがスウェーデンの国番号をさがしてくれたので、スウェーデンは真夜中だったけれど、友達に電話をした。彼女はものすごくショックを受けて泣いていた。親類がみんなわたしもメールを見たといっていた。
 マルクスが生きていることも、叔母の家族も大丈夫だったことも、その友達が教えてくれた。「マルクスはどう?」わたしがいったことはただそれだけだった。遠く離れたスウェーデンでそういうことがわかっていると思うと、とてもふしぎだった。友達は叔父の携帯電話の番号を教えてくれた。でもいくらかけても、最後の番号を押す前に切れてしまうのだった。友達に電話をかけ直すと、それも切れてしまった。正確な電話番号がやっとわかって電話がかかったと思ったら、留守電だった。わたしはタイの運輸大臣といっしょにヘリコプターでプーケット空港に飛んだ。空港でお昼ごはんをご馳走になって電話をかけることもできた。叔父が電話に出て泣きそうな声で「シャルロッテ、生きているんだね! どんなに心配したことか、とても不安だった」といった。
 彼らは車でわずか十分のところにいた。
 マルクスを見た時、泣いてしまった。マルクスはわたしを強く抱きしめてくれた。叔母も抱きしめてくれた。叔母も抱きしめてくれた。わたしは友達に電話をして、マルクスといっしょだから、もう大丈夫と伝えた。
 わたしたち兄妹は叔母の家族といっしょにスウェーデンに帰ってきた。2週間たった後、ママが見つかったようだという連絡があった。わたしはママが生きていると思った。でも正反対の知らせだった。1週間後に確認してまた電話連絡しますといっていたが、わたしたちは2カ月もの間、ずっと待ち続けた。
 ママが見つかったと連絡があった。
 その次の日、パパも見つかったと知らされた。わたしは彼が生きていると思った。でも残念ながら反対だった。死んでしまったのだ。こんなことが起きるなんてどうしても信じられない。ママもパパもどこかが悪いとか、年をとっているとか、病気だとかいうことではなかった。なんとも残念なことだ。

 スウェーデンに帰国してから、わたしは病気になってしまった。悲しみやストレスもずいぶんあったと思う。叔母が学校に連絡をしてくれた。学校では両親のために黙祷を捧げてくれるはずだったが、わたしはそこにいたくなかった。黙祷のあとの会話になどとても参加する気にはなれなかった。いちばん仲のいい友人たちがわたしの話をクラスで話してくれることになっていた。それにわたしがどんなことを経験したのかを他の人にいろいろ聞かれたくないことも伝えてもらった。
 学校には行きたかった。今9年生、とても大切な時期だ。学校では2人の友達がわたしをひとりにしないように、いつもいっしょにいてくれて、大きな支えになってくれた。彼女たちはわたしが時には学校に行けないこと、ただただ泣いていたい時もあること、勉強は少し遅れてしまうけど、授業に出られない日もあることなど、すべてを知っていた。
 高校ではレストランコースを選んだ。料理にとても興味があるし、わたしには適している。ママは料理が上手だった。わたしが料理がうまくなるように、そして2人でいっしょに台所で楽しく料理ができるようにと望んでいた。でも彼女はもうここにはいないし、学校で習ってくることを見てもらうこともできない。以前はママといっしょにいろいろなことができたのに。洋服を買いに行ったり、いいたいことをお互いにいいあったり、間違いをしてもちっとも恐れることはなかった。パンを焼くことだって、わが家では毎日やっていた。
 でも今はそんなことをする勇気がない。ここにあるのはよそのオーブンで、それが電気だったりガスオーブンだったり、慣れていないので、いちいち聞かなければならない。それがわたしにとって助けを求めにくい理由なのだ。ママもパパもいつもわたしたちを助けてくれた。
 ママは世界一やさしい人で、まわりの人たちを明るく楽しくした。でもきっとだれもが自分の母親についてはそういうのかもしれない。パパは楽しい人だった。いつもトランプをしていっしょに遊んだ。両親はわたしたち兄妹になんでもしてくれた。わたしたちが願っていることをすべてかなえてくれた両親がいなくなってしまうなんて考えられない。
 なぜママとパパが? 海岸での楽しいランチレストラン、タイではわたしたちはすばらしい時を過ごした。海岸からあがってくるとシャワーを浴びて海水を洗い落とし、そのあとは、少しおしゃれな洋服に着替えて、カオ・ラークの街を見て歩いた。夕方レストランでおいしい晩ごはんを食べて、ホテルに帰ってトランプをした。

 今、わたしがいっしょに住んでいる人たち。でもそこには両親はいない

 面倒をみてくれるという人がいることはとてもすばらしいことだ。でもはっきりいって、わたしが今住んでいる家はものすごく居心地がいいとはいえない。将来もよくはならないと思う。今住んでいる家には男の子が3人。男どうしスクーターも持っていて気が合うけれど、その中でわたし1人が女の子。だからわたしはほとんど部屋に引きこもったきりで、コンピューターの前に座っている。家族はわたしにもっと顔を見せてというけれど、わたしはすぐ悲しくなったり、怒ったり、いらいらしたりして人と衝突してしまう。だからそっとしておいてほしい。ただ、それはとてもいいにくいことだ。友達のほうが簡単。わたしはおく女友達とカフェに行く。
 冬に社会福祉事務所の人がマルクスとわたしに面接をしにやって来た。わたしたちがこれからどのように生活をしていったらよいのかを話しあった。わたしたちがずっと住んでいた家に住み続けたいのかどうか。ママとパパの親類の家に住むことについても提案があった。わが家から何軒か先に住む近所の人で、わたしたちの家族と仲良く付き合っていた人たちがわたしたちを引き取りたいと申し出てくれた。そこの長男とわたしは前に付き合っていたことがあるし、マルクスと末っ子は友達どうしで、よく遊びに行っていた。今わたしは彼らを「兄弟」と呼んでいるし、彼らもわたしを「姉」とか「妹」と呼んでいる。

 パパがいなくてパパの親類に会うのは辛いことだ。パパと兄弟仲のよかった叔父たちと祖父母。息子を亡くした祖父母がとてもかわいそう。
 友達とは今クラスは違うけれど、同じ高校に通っている。以前のようによく会うということはなくなったが、でも彼女とは仲がよい。今のクラスで友達が2人できた。彼女たちはわたしがどんな経験をしてきたのかを知っている。
 タイから戻ってきた時に、ボーイフレンドができたけれど、彼を放っておいて、他の人たちと騒いだりしてしまった。その時はわたしがいちばん気分がすぐれない時だった。彼に対してあんなことをしてと今、後悔している。というのも彼はわたしを暖かく包んでくれた。彼を失ってとてもむなしい気持ちだけれど、彼とはいい友人として今も付きあっている。それに彼と彼のお母さんをわたしは心から信頼している。2人とはわたしが思ったことを話しあえるし、彼らもわたしの気持ちをよく理解してくれている。
 わたしは、「児童の社会的権利を守る組織BRIS」のグループの集まりに参加している。そこでは何についても話すことができる。話している間に泣き出したりしても、みなそれがなぜかということを知っている。少し時間を前に戻して、ママとパパに長い手紙を書いたりもする。その手紙についての話をしたり、将来について書くこともある。グループに参加している他の子どもたちがどんな気持ちでいるのか、彼らにどんなことが起きているのかを知ることも興味深い。
 最初のころ、シャワーを浴びることができるかしら? と思った。水を見ること、水にもぐること、ボートに乗ること、水に関することすべてをわたしは恐れた。でもある時、友達の一人といっしょにわたしの新しい家族の別荘に行った。群島の中にあるひとつの島。そこでは友達といっしょに、何時間も水に飛び込んだり泳いだりできた。
 6月にマルクス、叔母夫婦それに今の家族のマリアといっしょにタイをふたたび訪れた。再訪はとてもよかった。でも行く途中、飛行機の中でわたしはパニックにおちいってしまった。飛行機に乗ったことを後悔し、飛行機から出たいと、そればかり考えていた。同じようなことが起こったらどうしよう!!
 なぜわたしは生き残れたのだろうか? これまでずっと考えてきたことだ。その答が運であることが今わかった。わたしたちにはどうにもならないことなのだ。ママとパパは運が悪かった。わたしとマルクスは運がよかった。  シャルロッテ

※みなさん、本書をぜひ購入し、読んでください。(黒田)
Tracked from レディース ウエットスー.. at 2011-06-04 19:42
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by open-to-love | 2011-04-05 22:11 | 喪失と悲嘆 | Trackback(1) | Comments(0)