精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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カテゴリ:全家連( 16 )

 破産・解散した全家連(全国精神障害者家族会連合会)が栃木県喜連川で運営していたホテル「ハートピアきつれ川」のホテル部門が閉鎖されたそうです。かつて岩手からも、多くの方がこのホテルを訪れ、研修に励んだと聞いています。ハートピアきつれ川は、全家連破産・解散の大きな要因であるとともに、また、多くの方にとって、思い出の場所でもあったことでしょう。全家連解散後に、元全家連スタッフはコンボ(「こころの元気+」発行)と全福連(「みんなねっと」発行)に二分されていますが、それぞれが、ハートピアのホテル部門が閉鎖されたことについて、言及しているので、紹介します。

まずは、コンボ「こころの元気+」にいつも挟まっている、編集責任者の丹羽大輔さんのお手紙から。とてもいい文章です。

□「こころの元気+」5月号をお届けいたします

 読者の皆さま、こんにちは。
 新緑の季節となりました。晴れた日にドライブをしていると緑が本当にまぶしく感じます。
 私は、コンボが立ちあがる前は、2年間、栃木県喜連川にある、「ハートピアきつれ川」というところで、研修会開催や書籍発行の担当をしていました。
 ハートピアは、精神疾患のある人たちが働いている温泉ホテルでした。ところが今年の4月、経営難のため、福祉部門を残して、ホテルが閉鎖されてしまいました。
 ハートピアは、ちょっと小高い丘の上にあって、夜は下の道路から見ると、丘の上にうかびあがって、なかなかきれいな夜景でした。
 先日、かつてハートピアで働いていた同僚がコンボになってきて、、「夜は真っ暗になってしまって、さびしいですよ…」と言っていました。
 春には、カタクリ、ツツジ、ポピーなどの群生地が近くにあり、季節ごとに自然を楽しむことができました。
 今、わが家の前に、ポピーが咲いています。このポピーを見ると、喜連川の2年間がふと思い出されて、ちょっとさびしい気持ちです。
 それでは皆さま、ごゆっくりと5月号をお読みください。

 一方、全福連「みんなねっと」通巻25号(2009年5月号)でも、ハートピアについて触れていました。こちらは、実にあっさりとした記述でした。

□ハートピアがホテル部門閉鎖

 大変残念なことですが、3月20日、精神保健福祉施設「ハートピアきつれ川」(運営(福)全国精神障害者社会復帰施設協会)のホテル部門が閉鎖されました。福祉部門の運営は継続されます。
by open-to-love | 2009-05-16 22:37 | 全家連 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(中央法規、1993年)

第3章 家族のこころ—解決すべき問題点

 第2節 家族会運動の展開

  10 家族(会)組織の全体的推移と問題点

昭和六三年に実施した全家連組織調査によると、病院家族会が昭和四四年までは数の上で主流を占めていましたが、昭和四八年からは小規模ながら地域家族会が急速に増加します。発足についての協力スタッフは病院家族会は当然病院スタッフに支えられていることが多い(八〇%)のですが、地域家族会は病院スタッフの協力は三%程度であり、保健所スタッフ五〇%、市町村役場スタッフが二五%を占めます。昭和六三年三月現在、病院家族会二七二会員数(二万五八〇〇世帯)、地域家族会七六八会員数(二万六五〇〇世帯)であり、病院家族会の半数以上が一〇〇人以上の会員を擁しているのに対し、地域家族会の約七割が五〇人未満の会員です。また、財政面をみると、病院家族会では年会費三〇〇〇円以上が四割を超えますが、地域家族会では年一〇〇〇円台が多く、そのため後者は自治体市町村、社協などから援助を受けています。

 活動面をみると、家族会員にスタッフなどだけでの定例会を中心としたものから、要求団体、社会復帰の実施主体などに広がっています。とりわけ対外的活動では、行政、議会への陳情請願(五八%)、家族や患者に対する相談や学習(四三%)であり、近年地域作業所の運営(二六%)が増えています。また、病院、行政の事業などへの参加、市民への啓蒙などがありますが、概して地域家族会のほうが行動的です。全体的に昭和四〇年代は相談活動に重点がかかり、昭和五〇年代は要請、要望活動が重点となり、また直接の社会復帰活動としての地域作業所の運営が昭和五五年以降急速に増加しています。近年の家族会の要望活動の中で声の高いのは、精神障害者福祉法などの制定をして「社会福祉施策を充実させること」が圧倒的に多く、「偏見の除去」や「医療費公費負担」などが続き、「病気の原因や治療法研究」にも期待をしています。また、より具体的な社会復帰事業としては「公立の作業所を設置する」「福祉工場の設置」「精神障害者を雇用している事業所に助成制度を」「職親制度を充実する」「地域作業所を強力に助成する」「職場適応訓練制度の実施」等を望んでいることが分かります。

 病院や地域の定例会のときにのみ集まる(呼びかけに呼応する)のが単位家族会の実態であり、実際集まる家族にも大半は我が子(同胞)に対する病院(職員)、保健所、市町村(職員)等に治療や世話を負っていることへの返礼(義理)の意を含めて参加している感じがあります。もちろん積極的で熱心な発言や姿勢を示す家族もいますし、老齢の両親が我が子を案じ、その回復に一縷の望みをもち、わらをもつかむ思いで出席していることも多くあります。

 こうした会の呼びかけそのものが病院や保健所関係機関職員の働きかけなくしては成り立ちません。家族会員が病院の外来などで勧誘したりするなどの機会は全くないし、ましてちらしや手紙で呼びかけようとしてもその多くは住所氏名など知る機会がなく、かつ患者家族が自ら名乗り出ることはほとんどありません。そんな中で現存の会運営だけに終始し、事務および郵便料等費用負担まで、ほとんど関係者に依存している傾向があります。ただ家族会活動をし続ける家族会員には「すでに長期化し、明らかに快方に向かわないまでもそこそこに回復、やがて退院し社会で他人の最少限の世話程度で暮らしてくれたら」とか、「自分の子どもはともかく、家族会の活動が生きがいである」という感じの役員が増えつつあり、そういう人はとりわけ地域作業所運営や回復者クラブ応援に熱心な役員です。全国的に見ると、単位家族会が常時事務所をもったり、専従の職員(家族員)を置いて活動しているところが少なく、独自に家族会を組織化できないのも問題ですが、それとともに、家族会がすでに二十数年余りたった今も、いまだに新しい家族会の発足時は行政(保健所とか市町村役場)や病院の手を、いわば産婆役として必要とする点も問題です。

 その理由は、率先して精神障害者家族が名乗って単位家族会を組織化するためには、家族会をつくろうと考える一人の家族がまず他の多くの家族たちと出会う機会が必要ですが、現行の医療法、公務員法および精神保健法にも秘守義務があって、いわゆる入院者、退院者、通院医療費公費負担申請者などの名前や住所などが家族には知らされにくいからです。したがって他の家族を外来などの待合室で誘うとか、ビラやポスターで誘う例から発足することも極めて困難です。やはり多くは病院や保健所、町村役場のスタッフなどが他病院、他地区の家族会活動を見て自分たちの病院や地域にも家族会の必要を感じ、あるいは家族に要請されたりして、所属する病院や保健所や機関内で資料を使って最初は家族懇談会とか家族教室の形式をとって家族会づくりをするパターンです。現在の偏見の多い社会、秘密保持義務のある病院や保健所、そして主張の弱い家族(高年で心身ともに疲労の極に達している両親)、これらの三点は相互に絡まり合って家族会をできにくくしているのです。

 それを組織上の問題で言えば、比較的若年の、初期病状患者の家族が入会してこないことです。これは社会およびその家族自身の認識(偏見?)の所産でもありますが、精神病(障害)かどうか、まずその受容ができないうちは、自分の家の子は違う(患者自身も長期慢性化した他の患者を見て、自分はあの患者とは違う)と考え、自分の家の子はそのうち良くなるに違いない、治るのなら家族会に恥をさらして入る必要がないと考えがちです。ときどき一時的に好転した患者の親で家族会にわざわざ「おかげさまで良くなりましたので、もう私たちは家族会に出席する必要がなくなりました」と挨拶にくる人がいます。この初期患者の比較的若い親の時期こそ、家族会での学習などが一番再発、長期療養化防止に役立ちうるはずなのですが……。

 例えば、精神薄弱の発症はその大半が乳幼児期あるいは学齢期に判明します。したがってその親は若く、中・壮年期であり、養護学校児童の親が「手をつなぐ親の会」(全日本精神薄弱者育成会)に入るのはこのころからです。一方精神障害(病)の発症の時期は、本人の思春期、青年期であり、その親は当初精神医療にわらにもすがる思いで依存しますが、そのときすでに大半が初老期(五〇歳代)であり、やがて度重なる再発の後には老年期(六〇歳代)を迎えることとなります。やはり最初は医療を信じていつまでもそれに頼りたい心情なのです。そしてひたすら他の親戚や地域社会(職場等)に隠して問題の解決に当たろうとします(多くの場合周囲からは見え見えで隠しおおせないにもかかわらず、自分では隠しているつもりになっているだけなのですが……)。親はしばしば退職後に諦観ではなくも、ようやく腹を据えてこの病気(障害)に立ち向かおうとすることが多いのです。そうして役員になる人が出てきますが、その結果として、家族会役員は治りきらなかった患者の高齢の親がなることが多いのです。それを皮肉なことに家族会活動を一生懸命にしていてもあまり良くならないと、現象面だけを見て評価する人もいます。

 家族会の組織化上、こうした諸点が大きな矛盾をはらんでいるのです。精神保健相談などに訪れる親は、各種機関に出向く決心をするとき、「清水の舞台から飛び降りる」心境なのです。まして家族会入会(参加)なども「恥ずかしくてたまらない」と、初めは思いつつ、やがて「いや自分だけがつらいのではない」と思う例がしばしばなのです。

 近年は地域作業所が、またそれとともに、市・県連合会役員が未組織地区の単位家族会組織化に多少加われるようになりました。全国レベルでも、ブロックごとに研修会などを開催し間接的に組織化のための物(財政)心(技術と情報)両面で応援、交流できるようになりました。

  11 社会復帰実践を担う家族(会)

 昭和五〇年代の心身障害児者福祉界はまさに在宅福祉の夜明け時代でした。昭和四〇年代の施設収容の後、逆に地域に取り残された(?)形になった重度、重複障害児者、とりわけ全身性障害を伴う脳性麻痺者などは自らの生存権を主張し、家族の庇護下から、ときには家族との対立関係を超えて脱け出していきました。その歩みは生々しいものです。一方、統合教育問題に発展していった精神薄弱児問題は、多数の養護学校卒業生の対応を含め、急速に地域在宅福祉を志向していきました。これら心身障害児者に対しては、政策的にも年金、手当などの所得保障の面や、地域の在宅訓練会、福祉作業所、施設の社会化や通勤寮の設置、授産施設などが成果を挙げ、他方、福祉工場、多数雇用工場なども在宅、地域福祉を側面から支える役割を果たしました。

 その結果でしょうか、在宅訓練や福祉作業所以外にも、当事者の切実なニーズにこたえるという形で小規模地域作業所が、親の会や養護学校教師や市民ボランティアにより続々と誕生し始めたのです。これに触発を受けた形で精神障害者の地域作業所が地域家族会の延長線上で誕生するに至りました。精神障害は病気だから当然医療がかかわります。専門家としての医師、看護婦らを中心にして主に病院を場として入院治療を行ってきましたが、結果的には長期入(在)院の弊害が表れ出したこともある一方、昭和四〇年代に起きた法改正に伴う地域精神衛生運動などが地域家族会を生み出しました。

 作業所は昭和四三年福岡で、昭和四六年滋賀、京都府下に開設され、昭和四〇年代には全体でその数七か所となりました。その後代表的なものとして、昭和五三年小平市にあさやけ第二作業所が、昭和五四年川崎市にあやめ作業所(私自身直接かかわりましたが)がそれぞれ誕生しています。前者は養護学校教師に、後者は地域家族会によるものです。地域家族会の定例会も最初は病気の治療、再発再入院防止、各種福祉制度の学習などから始まり、デイケアとの交流、退院在宅障害者を受け入れての家族会開催、合同レクリエーションなどを経て、ついには地域作業所開設へと踏み出していけたのです。昭和四〇年代には地方自治体の民生(福祉)部局により補助金制度が導入され、やがて昭和五〇年代になって衛生(医療)部局でも準用、ないしは独自に制度化されるようになりました。今度はそれが一つの刺激剤となって精神障害者地域作業所の開設ラッシュとなり、平成五年度現在では、全国約七〇〇か所に及び、そのうち設立や運営に家族会(役員)が関係するものが約六※、※七割を占めています。その結果、国は家族会関係地域作業所に対し、昭和五九年度から補助金制度導入へと踏み切りました。初年度四八か所(一か所七〇万円)、二年度九六か所(一か所七〇万円)、平成元年度一四二か所(一か所八〇万円)、平成五年度二九四か所(一か所九〇万円)となっています。

  12 全国の家族(会)の現状と今後の展望

 いろいろと家族の問題点などを示しましたが、近年、全国各地で新しい状況が展開されつつあります。それは家族がもつ健康な能力としての社会的体験を生かし、活躍する例が増えていることです。また元来、精神障害者はどこも身体の不自由な面があるわけでなく、また知的能力も遜色があるわけでなく、そもそも身体的疾患を中心にした今の精神医療、看護の体系、病院構造、入院生活ルール、治療内容そのものが問題なのです。一時的・一過的精神症状は、現在では薬物による効果が著しいのですが(そのように、専門家でも宣伝している)、やがてなんらかの人間関係面での役割分担、身体ならしなどが大事なのに、そのリハビリテーションの機会が少ないことにも問題があります。国際障害者年の理念と合致する西欧先進諸国の精神医療のみならず、その職業的・社会的実生活体験そのものを含んだ就労社会復帰や地域社会への参加が、本人にとっても人間らしさを保って生きていく条件なのです。地域作業のような社会人大学では、狭義の専門職、医師、看護職、ソーシャルワーカー、作業療法士、臨床心理士などから得る専門知識や体験だけでは、精神障害者の社会生活体験の訓練指導は不十分なのです。こうした場合では、特に表立っての技術をもたぬ年輩のお母さん方の家事、台所などの切り盛りも、退院後の精神障害者の自立生活準備に十分役立ちます。今後ますますこの傾向は強まることと考えられます。

 家族会に集う家族が願う共通の意識の中に、家族個人としてできることは最大にやって、個人では解決しないことは制度や施策として国、県、市、町、村それぞれで対応してほしいという事柄があります。いわゆる陳情や請願行動も家族会活動の重要な役割を占めています。

 そうしたとき、家族個人はその家庭内の実情の一部を相互にアンケート調査などで客観化し、その困難部分の実態を明らかにしつつ、それを根拠に要望すると説得力があります。政治や行政は、しばしばその声の大きいところに素早く反応する傾向があります。今まで精神障害者問題にその当事者である家族や、本人そのものの声はあまり大きくありませんでした。時に起こる事件や事故というつらいニュース報道などに家族の心は萎縮しがちであったのですが、それは一人ひとりの家族が孤立していたからなのです。

 家族会に集まることにより悩んだり苦しんでいるのは自分だけではないことを知り、手をつなぎ合うことにより勇気をもつ、そうすれば声を大にして陳情、請願活動にがんばれるのです。昭和六三年の精神保健法施行を機に、全国一斉陳情、請願活動を全国四七都道府県で実施するようになりましたが、中には県内の全市町村議会に行うところなども出てきています。ようやく国連の障害者の十年の理念である「社会参加と平等」を精神障害者家族が、せめて身体障害者、精神薄弱者福祉と同等程度にと主張し始めたのです。最近、地域や病院におけるデイケアや地域作業を足がかりに、社会生活を続ける精神障害者本人たちの動きが注目され始めました。精神障害回復者クラブとか患者会、ソーシャルクラブと呼ばれていますが、こうした活動と家族会活動は両方とも目的は同じなのですから、可能な限り、こうした本人たちの活動と協同し支援していく必要があります。我が子と家庭内でしっくりいかない場合でも、よその患者本人とは打ち解けて理性的に付き合える、こんな体験ができることも大切です。合同例会や合同レクリエーションなどを通じて、共通な目的のために共に行動することはしばしば相乗効果を生みますし、相互理解への一歩を進めることになるのです。

 かつて家族会の活動の中で、一部の専門家の意見を信ずる人たち(グループ)と、他の家族とその活動の違いでばらばらになったことがあります。その原因は、一時期精神科医の間で起きた論争に、家族会役員が巻き込まれたものでありました。精神医療の知識や社会運動の体験のあまり多くない家族が、一定の情報を確信し、しかも一部の専門家に追随的に行動したのです。別な面で我々家族は患者を良くしたい一心であればあるほど、何かにすがりたい、信じたい心情をもっていますので、良いと思う一つの方法以外を信じたくないだけでなく、他の方法を認めにくくなるのです。

 現在の精神医学で精神分裂病も躁うつ病もその原因が分かっていません。これは多くの精神科医が認めるところです。そして治療技術も向精神薬という精神弛緩を中心とする対症的療法が行われていますが、それ以外は比較的著効がある共通の治療はあまりありません。ですから、ときに信条、信仰、思想、政治的背景の論理が入り込むこともあるのです。私たちは自分の、そして他の家族が抱える患者に、良い治療や影響を与えてくれる医療関係者と、節度をもったチームの一員として付き合っていくことも非常に大事なことです。

 家族はこうした活動体験を通して、どちらかと言えば精神障害者を身内にもった負い目に打ちひしがれ、自分個人や家庭内に内向していた姿勢から、積極的に知識、情報を集め、医療、福祉関係者とともに、いま心病む精神障害者に何が必要かを考え、そして必要な行動を取っていき、やがて社会を動かしていくようになると信じています。

 全国の家族大会のテーマに「家族が変われば社会が変わる」とありましたが、内側では「家族が変わることにより患者も変わる」のです。パール・バックの「母よ嘆くなかれ」にありますように、考えつつの行動のあり方がこれからの家族の将来を示しています。

  13 家族(会)は圧力団体たりうるか

 我が国での精神保健向上運動をめざす上で、同様の目的をもって組織化している、とりわけ専門職種、専門家団体の展開する運動との関係についてふれておかなければなりません。

 一様ではありませんが全国の家族会および県連合会、全家連が組織化され始めた昭和三五年から昭和四五年のおよそ一〇年は、個々の病人の看護や病気の知識を吸収していく段階でした。そして昭和四五年から昭和五五年の一〇年は、精神医学会の各種の論議の中、専門家関係者団体などから離反、もしくは行政、医療への不満、そして弱いとはいえ結構批判的言動も出なかったとは言えません。先述したように、模索の時期、雌伏の時期でもあったのです。昭和五五年以降すでに一〇年以上になりますが、現段階より関係者団体や専門職種が拒まなければ、家族会の活動との相互補足的関係をめざすことを強調しておきたいと思います。それは家族会という当事者団体、かつ非専門家集団も、永年の多岐にわたる活動の中で多くの知識や体験を集積してきたわけで、ときには専門家の技法や運動と結果的に類似化、酷似化した形となり、その結果も同様に得られることもあります。地域作業所活動などが精神障害者の地域リハビリテーションとして有効であることは、欧米でもすでに実証ずみです。

 最後に家族会「圧力団体」論について触れておかなければなりません。

 しばしば病院家族会にしても地域家族会にしても、圧力団体化するから設立に反対という関係者がいますが、よしんば単に圧力団体に過ぎぬとしても、現行の精神医療、社会復帰、福祉等の諸制度を変えうる力をもつならばそれはそれで大いに意味があります。他の心身障害者福祉、老人福祉の諸団体にしても、また精神医療関係職種団体にしても、技術や身分の向上あるいは現行制度を変える必要があって団体を組織し活動しているとするなら、それ自体圧力団体化するわけです。現行より一歩でも物事を改善していく諸活動に専門家、非専門家の違いはありません。その意味で、「存在」そのものが直接間接、有形無形の圧力をもつと言っても要はその活動の内容しだいであると思います。それぞれの運動が適当に客観化され、協議され、他団体との連携がなされるなら、圧力団体論議はおのずと問題でなくなると言えます。

 本年六月、精神保健法の見直しがあり、公衆衛生審議会で、あるいは各政党から全家連の意見をきかれました。私たちは精神保健法の中にあった保護義務者条項の撤廃を強く主張しました。多くの関係団体も家族会がこれほど明確に撤廃を主張するとは予想しなかったようですが、その理由はそれほど全国レベルの判断として全国の家族は物心両面で追いつめられていると考えたからです。

 その結果、多くの関係者も何らかの家族支援策が必要だが、かといって保護義務者の代替案もないため当面名称を「保護者」とすることにし、他方で「社会復帰促進センター」として厚生大臣の特別に指名する法人として国の委託事業をすることになりました。五年後に法の見直しをする時、保護義務について再度検討することになっています。このように会の存在、意見を直接、間接アピールすることで圧力団体といわれますが、海外ではロビー活動と称しています。
by open-to-love | 2008-07-16 21:02 | 全家連 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(中央法規、1993年)

第3章 家族のこころ—解決すべき問題点

 第2節 家族会運動の展開

  7 全国家族会の成立

 先述したように昭和三〇年代には、病棟ごとに、あるいは月一回程度病院全体の患者家族を集めて、主として病気についての知識、入院生活の状況などを、やがて薬剤の大量普及後は自宅などでの服薬の重要性などについて、医師による講義を中心に主治医による患者の個別指導(説明)も交え、病棟家族懇談会や家族教室が開かれました。中にはこれらを病院家族会として定期的に開催したりしたところがいくつかありました。また当時は結核患者自治会の活動が擡頭したこともあって、入院患者自治会が職員側からの意識的な働きかけで組織されたところもありました。

 昭和三五年代以降の向精神薬の普及後は、精神医療界の一部に患者の退院後の治療継続協力者としての家族の役割の重要性を認識する声が高まり、病院家族会を開催、指導する医師が増えました。京都府の北部では地域の有志らによって地域家族会が誕生したのもこのころです。一方、向精神薬が精神医療界に革命的効果をもたらしたのも初期の間で、しばらくするとすべての患者に確実に効くわけではなく、鎮静、安定効果は良いけれど、その反面ホスピタリズム(施設病)への始まりでもありました。副作用などが顕著に出てきたりし始めた中での対応策としての家族への働きかけでもありました。

 昭和四〇年、すったもんだのあげく、精神衛生法はいちおうの改正となりました。市民からの措置申請、警察官通報、自傷他害のおそれの概念など患者の人権面では後退という意見もありましたが、他方、通院医療費公費負担、地域精神医療、精神衛生(保健)相談員などの面では進歩という意見があります。この法改正および多少の予算獲得に初期の全家連の役員が大蔵省陳情までやったことは、精神医療界で初めて圧力団体として存在しえたということで、極めて意味が大きいのです。昭和四〇年九月第一回の結成大会が新宿の安田生命講堂で五〇〇余名の参加者を得て開催されましたが、この「全家連」誕生はマスコミにも大きく報道され、世間に大きな反響を呼びました。いわゆる偏見の強い日本社会の中で、当事者である家族が勇気をふるって立ち上がったのです。

 結成大会にこぎつけるまでの、すでにあった烏山病院家族会、松沢病院家族会、湊川病院家族会、国立武蔵病院家族会、国立肥前療養所家族会、友部病院家族会、栃木県精神障害者援護会、京都府精神衛生推進懇談会などの全国組織結成や予算獲得運動への役員の努力はたいへんなものでした。会の性質そのものが医師、精神科ソーシャルワーカー、その他病院職員などの指導や要請により家族がいわば集められてしだいに「会」の形を整えていったもので、必ずしも家族自らが目標をもって活動や運動を始めたわけではなく、昭和四〇年一月の調査でも、家族会のある病院は、公立七、その他一六、そして地域家族会がいくつかといった程度であって、それを一気に全国団体としてまとめたのですからその旗振りをした役員たちの不安も大きかったことは想像に難くありません。

 その後、朝日ルポから始まる精神病院スキャンダル事件は、日本精神神経学会内論争や病院告発という形で、精神病院治療の見直しが提起され始めました。一方、このころ急速に保健所、市町村単位の地域家族会が法改正の影響を受けて小規模ではあるが増えていきました。保健所、市町村の保健婦やソーシャルワーカーのバックアップがあり、呼びかけられ、誘われ、働きかけを受けてしだいにグループが形成されていきました。そして着実に例会を重ねてきました。しかし、全国レベルの家族会である全家連の活動の中心は発足以来役職員の活動として、機関誌「ぜんかれん」の定期的刊行と全国大会の開催に終始し、本部レベルでは全国から寄せられる相談の対応に精いっぱいでした。激動する精神医療界の論争や家族会の主体的価値判断を求められる状況の中で、厳しい選択が迫られることとなりました。すなわち精神医療の荒廃はその医療構造と医学教育が問題であるとする見方から、当時大学医局内で無給医局員の診療拒否、東大インターン問題、精神科医師連合の国家試験ボイコットなどで、医局講座制度と学術発表など学会のあり方や体質が問われていましたが、それが波及し精神衛生各関係方面に大きな影響を及ぼすことになりました。そのあおりで、全家連も主催者として加盟している第二一回全国精神衛生大会が、精神科医全国共闘会議の公開質問状を受け開催不能となりました。その余波もあって、昭和四九年岡山大会での記念講演をした医師に傾倒した役員と、その反対の考えをもつ医師グループおよび一部役員との意見の違いが表面化、昭和五〇年京都で開かれた全国大会は紛糾し、プログラムは中断して終わり、その責任をとって当時の理事長が辞任するなどしました。全国から参加していた多くの家族は詳しい事情が分からずに壇上の混乱を見守るしかありませんでした。そのためその後約三年間、全国大会は開催できなかったのです。

  8 昭和50年代の全家連運動

 昭和五三年の夏に、それまで三年間中断していた全国大会再開のため、時の理事長川村伊久氏は自分の所属する神奈川あすなろ会会長の旧知、有岡宣子氏や渡辺長四郎神奈川県連会長らに協力要請を続けるとともに、川崎市精神障害者家族連合会あやめ会にも働きかけました。県内保健所、精神衛生センターなどのソーシャルワーカーらも積極的にこれを支援し準備を重ね、横浜市従会館での第一六回全国大会は、開催直前には一部不穏な動きが出るのではないかと緊張しましたが、無事開会できました。

 終了後直ちに次回全国大会は全家連本部が独力で東京で開催することを内々に決めて、早速取り組んだのは、昭和四五年時に〓げた全国大会スローガンであった「精神障害者福祉法」案についての具体的内容検討です。あえて家族会役員および回復者そして身近なソーシャルワーカーのみの委員構成とし、五回ほどの討議を経て「精神障害者福祉に関する基本的見解」を上梓しました。その折、この委員であった乾三郎氏、青野敏夫氏(元理事長)らは、主として身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法文を基にアレンジし、精神障害者福祉法文(案)私案を作成しました。翌年第一七回全国大会は東京代々木の青少年オリンピックセンターを会場として開かれ、メインプログラムは国会議員による公開討論会でありましたが、テーマは「精神障害者福祉法」を五党がどう考えるかというものでした。そこで先述の「基本的見解」および「福祉法文」案を公開発表したわけです。当然のことながら、実際に参加した四党の国会議員は多少の考えの違いはあるにしても、基本的なことは大賛成であり、また来賓席には国政選挙立候補者も参加していました。この大会も盛会となり、本部役員は失いかけた自信を取り戻し、以後の全家連運動の方向や戦術を決める決定打となって成功裡に終わりました。

 翌年は本部事務局を中心に、国際障害者年に向けての精神衛生思想普及キャンペーン全国自動車キャラバンを組みました。先に公益助成金の助成で制作したイギリス、ベルギーなど先進西欧諸国の精神障害者に対する地域ケア社会復帰システムの一六ミリ映画フィルムを持ち、映画と講演会を開きながら二年間かけて約四〇県、北海道から九州、沖繩まで走り回りました。各都道府県庁所在地の繁華街で地元家族会有志と街頭演説やビラ配りを行い、県庁精神衛生主管課、国際障害者年担当課、精神衛生協会、精神病院協会等に地元役員と表敬の挨拶回りを続けました。こうして横浜、東京の全国大会に続き、各県連と全家連との提携事業、組織強化が推進されました。このキャラバンは、総理府の口添えで日本チェーンストア協会からの寄付金によって賄われたものでしたが、続けてトヨタ財団の助成を受け「精神障害者福祉ニードに関する研究」、更には社会福祉開発研究基金よりの助成で「精神障害者の社会福祉施策についての提言」をまとめ、それぞれ出版報告を重ね政策提言活動を実施しました。そして昭和五五年全家連が保健文化賞を、翌年理事長が国際障害者年総理大臣賞を受賞しました。

 その後昭和五八年政権与党の斎藤邦吉元厚生大臣を会長とする「精神障害者社会復帰促進議員懇話会」が結成されました。日本船舶振興会の助成で全国八ブロック家族指導者研修会が二年、その後映画と講演会を三年継続実施する間、昭和六一年車両競技公益資金財団からの助成で、昭和五八年厚生省が全国で実施した精神衛生実態調査を上回る家族一万余、回復者二四〇〇の当事者の「生活実態調査」を実施しました。また国の厚生科学研究費により、社会復帰、福祉に関する家族会活動のあり方を中心とする研究調査報告を出すとともに日本身体障害者雇用促進協会からの委託で、「精神障害者の雇用職業に関する研究」なども始めました。

 なお、この精神障害者社会復帰促進議員懇話会結成に至る経過では、昭和五五年の五党による国会議員の公開討論の後、出席者の与党代議士が幹事となって政権与党内に働きかけ、当初九名の参加者を得たものでした。自民党内の派閥の関係もあって数名の厚生大臣経験者のうちから長老格の斎藤氏が会長となりました。本来、家族会運動のような当事者団体の運動は、信仰、信条、思想を超え政治的には超党派であるべきだという声を何度も聞きましたし指摘も受けましたが、他の四党内での呼びかけがなかったことにより与党議員のみの構成になりました。一方野党議員の中には、予算を獲得するには与党でなければ残念ながら効果少なしと助言してくれた人もいました。事実こうした極めて政治的な判断がなされたとき、政治学者である京都大学の高坂正堯氏らを中心とするトヨタ財団研究の「高度産業国家における利害関係団体の福祉に関する研究調査」の調査対象となったのを参考にして、三菱財団の助成を受け「精神障害者の社会復帰・福祉施策形成基盤に関する研究調査」を実施しました。このような当事者活動の研究・調査の意味は、その結果を根拠にして運動、活動の基本にしてきていることにあります。

 全家連結成以来、地域家族会や県連合会では市区町村や県当局からの補助金や委託事業など財政的支援を少ないながらも徐々に獲得する中で、本部財政はずっと会員の会費と一部自転車振興会の助成で月刊「ぜんかれん」誌発行を続けてきましたが、先に挙げたいくつもの研究調査を中心にしてようやく昭和五九年、国の直接的助成に近い、厚生科学研究の委託を受けるようになりました。更に他の精神薄弱者、身体障害者の社会福祉全国団体がそうであったように、昭和六二年には国庫補助事業である小規模作業所運営助成金配分を、本会が受託実施するようになりました。

  9 法改正運動における家族(会)の存在

 振り返ってみれば、昭和四〇年の法改正の主流は明らかに日本精神神経学会や日本精神病院協会などの一部有志の精神科医グループであり、全国に三々五々散らばっていた家族会は、改悪反対運動のいわば旗印として、全国規模の当事者団体であるということで便宜的かつかなり意図的に組織されたふしがあります。もちろん生まれるべくして発足し、主体的な判断をして行動したのでしょうが、周囲の状況や役員のメンバー構成や活動内容から永続的に行政や政治家を動かすに足る組織力をもつ団体ではないと言われました。それはその後の本会の歩んだ道がある程度示しています。

 昭和四〇年代、精神病院告発、大学医局講座制解体などの嵐や、精神医学・反精神医学論争が盛んになるころ、一時期、部分的に病院告発、精神医療批判に同調した動きを見せたこともありましたが、それは長続きしませんでした。むしろ役員同士に批判などが出てきて家族会の足並みが乱れ、家族会の力が鈍化してしまったのです。そのころ我が国の各種福祉領域、とりわけ精神薄弱者や身体障害者の福祉が国の高度経済成長の結果を受け、各種の施設や制度が整備されていったにもかかわらず、です。全家連にとってこの約十数年は雌伏の時代であったと言えます。

 さて、昭和六二年の法改正にどうかかわったか、その評価は別として、事実関係について記しておきましょう。昭和五六年当時、「保安処分」問題で日弁連に招かれた全家連は、精神医療、社会復帰施策の段階的積み重ねをする道が効果的という従来の経過を踏まえ、基本的に「精神医療の改善による問題解決」を一貫して主張しました。そしてそれは弁護士会の主張でもありました。昭和五八年の国の精神衛生実態調査問題で、全家連が、社会復帰施策企画のためには精神衛生実態調査も必要=基本的には賛成と態度表明した段階で、一部弁護士グループと意見および運動の齟齬を来しました。それに続く昭和五九年の宇都宮精神病院リンチ殺人事件をめぐり、弁護士グループはより明快に患者の人権擁護の主張を主軸に告発などに方向づけし、家族会は与党国会議員の集まりである精神障害者社会復帰促進議員懇話会への協力依頼による具体的な社会復帰対策を急がせる方向へ歩みました。そして弁護士グループが国連人権小委員会へ問題提起をした結果、ICJ(国際法律家委員会)、DPI(障害者インターナショナル)の調査団来日となりました。調査団と会った家族会は、日本の政治、行政の仕組みにおける精神医療と社会復帰施策の現実的、具体的改革に的を絞り、それを強くアピールしました。他方、そのころすでにいくつかの行動で政府、与党寄りと見られていた全家連の請願活動は、与党や精社懇議員の立場から見れば、請願の手続きそのものはむしろ野党的方法であり、奇異に写ると評されつつ、従来からのスローガンである精神障害者福祉法制定のための五〇万人署名を集めて国会請願を実施しました。こうした間、国際的世論という外圧に弱い(?)政府は昭和六〇年八月精神衛生法改正を示唆し、国連の場でも小林秀資精神衛生課長が改正を明言しました。はたして何が政府部内で法改正を決意させた動機となったのか依然として不明です。

 そんな訳で、宇都宮精神病院事件の後はガイドライン部会、次いで法改正のための精神保健基本問題懇話会、公衆衛生審議会精神衛生部会などを経て、精神衛生関係二四団体からの意見聴取に際しては、全家連は先の「生活実態調査」から絞り出した社会復帰問題一本に意見をまとめて強調しました。その結果昭和六一年秋までに厚生省内では改正法案作り作業が進められました。改正法文案は当初審議会中間答申などかなりの改革案を盛り込んでありましたが、各省庁間や各種法制度の調整もあって、予算非関連法案としてまとめられ、与党内に設けられた精神衛生法問題小委員会に付されました。小委員会に呼ばれた関係団体は、日本精神病院協会、自治体病院協議会、日本精神科看護技術協会、日本精神神経学会、そして全家連などであり、それぞれの意見を述べました。しかし国会提出された改正法案は、折悪しく大型間接税論議の犠牲となって三月の国会では危うく廃案になりかかり、ようやく夏の国会へ継続審議となりました。全家連としては二二年ぶりの人権と社会復帰を中心とした法改正であり、多少不満足ではあっても是が非でも通さなければと考え、本間長吾理事長を先頭に足繁く精社懇議員(その多くが与党社会部会議員)へ陳情を繰り返しました。他方、野党の社会労働委員会所属議員へは選出地元県連役員が地元私宅や東京の議員宿舎へ電話陳情するなどしました。

 昭和六二年夏、一時日本精神病院協会が罰則規定がやたらに多いなどの理由で成立反対の意向を示したという噂を聞き、与党議員がひるむように見えたこともありましたが、全家連としてはむしろいっそうの波状的陳情を強めました。九月の衆参両社会労働委員会および本会議の舞台裏と壇上ではぎりぎりまで成否が予断できず、時には国会内控室で関係議員に陳情するなどしました。こうして九月一五日の裁決日の傍聴席には、自治労精神医療評議会、日本PSW協会、東大赤レンガ、一部弁護士、医労協、日本精神神経学会、日本精神病院協会、そして本会役員という精神医療史に類例を見ない、従来の運動や諸活動からみれば呉越同舟のようなそれぞれの立場の者が列席する中で精神保健法が誕生したのです。その当時の読売新聞の記事には「政府提出法案は、それまでの隔離主義、入院中心型から社会参加型への転換である。当初は与野党が法案審議に足並みをそろえ、スムースに運びそうな情勢だったが、私立病院の団体が新設の罰則の削除などを急に求めたりしたため、与党内で慎重論が強まった。そんな中で一転して自民党が法案審議に踏み切った背景には、これ以上審議を遅らすと今国会の法案成立が難しくなり、国際的にも大きな非難を浴びることは必至という状況判断があった。そして何よりも約一〇万人が加盟する全国精神障害者家族会連合会を中心とする法律改正派の人たちの強い要請があった」と書かれていました。

(以下、「その4」に続く)
  10 家族(会)組織の全体的推移と問題点
  11 社会復帰実践を担う家族(会)
  12 全国の家族(会)の現状と今後の展望
  13 家族(会)は圧力団体たりうるか
by open-to-love | 2008-07-16 20:55 | 全家連 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(中央法規、1993年)

第3章 家族のこころ—解決すべき問題点

 第2節 家族会運動の展開

  3 戦後日本の精神医療形成の背景

 振り返ってみれば第二次大戦後における日本の国民生活は、まさに原爆投下後のごとくいわゆる焼け野原状態であり、都市を中心に「飢餓」からの脱出が先決でした。食糧を含めすべての物資が不足する中での経済復興は、環境衛生、食品衛生、住宅建築、道路や都市計画整備などを進めるとともに、医療面ではいわゆる民活のはしりのように国民医療計画の一端として、昭和二三年に医療法人制度の創設がなされています。

 精神科医療の分野では明治、大正時代からの精神病者監護法および精神病院法を廃止し、昭和二五年新たな理念をうたって精神衛生法が公布されました。確かに目的(この法律は精神障害者の医療および保護を行い、かつその発生の予防に努めることによって、国民の精神的健康の保持増進を図ること)や、国および地方公共団体の義務(医療施設、教育施設、その他福祉施設を充実することにより、精神障害者等が社会生活に適応することができるよう努力するとともに、精神衛生に関する知識の普及を図るなどその発生を予防する施策を講じなければならない)を明記し、戦後民主憲法の欧米の理念を、公衆衛生向上の目的下でうたったものでしたが、実質上それ以外の条文のほとんどは医療および保護という名目で、自傷他害のおそれのある精神障害者の精神病院への入院手続きに費やされています。発生の予防および社会適応努力という、社会復帰条項などはほんの数か条であり、実際はかつての西欧の精神病院をモデルとした精神障害者入院手続法でした。その当時、基幹病院構想が出されたのを皮切りに、昭和二九年には医師優遇税制、昭和三五年には医療金融公庫の創設、昭和三六年には国民皆保険制度、更に昭和三九年には医療法の一部改正により、公的病院病床規制などがなされ、国民医療の方向として、現在に至る医療機関の体質を規定する、民間医療機関養成策方針が着々と打ち出されました。

 こうして少なくともイギリスの国営医療である「揺りかごから墓場まで」という国家を責任主体とする社会保障制度の確立とは違った歩みになってきたのでした。その理由は、当時まだ地方自治体の財政力が弱く、政策的な意図として健全な民間医療機関の設立をめざしたものの、しだいにその民間精神医療機関は独自な歩みをするようになっていったからなのです。ちなみに精神病床のその後の増加傾向は、昭和三〇年四・四万、昭和三六年一〇万、昭和四〇年一七万、昭和四五年二四万、昭和五五年三〇万、昭和六〇年三三万、と急勾配を示しました。その訳は昭和二八年に精神衛生実態調査が行われ、精神医療の整備が叫ばれたからです。一〇年後の昭和三八年の精神衛生実態調査にかかわった大谷藤郎氏(後に公衆衛生局長、医務局長、現藤楓協会理事長)は、「とにかく地域で患者さんの医療が放置されている状態は明らかに悲惨の一語に尽きる。早く入院させ衛生と栄養を保障することが急がれた」と語っています。

 当時我が国では、医療機関増設にしろ、個人の医療費にしろ、結核対策が国策として手厚い公的対応がなされたのに比し、精神医療は民間に委託し、実質的には放置してきたに等しかったのです。らい予防法、伝染病予防法、そして精神衛生法と、これら特別法の立法精神の大義は公衆衛生と患者の医療保護でしたが、その根底にあるものは病者の医療、人権保護というより、公衆の福利、市民の平穏とを天秤にかけた隔離収容中心指向でした。精神障害者はそれまでの精神病院法下での私宅監置公認という悲惨な状態から、今度は精神病院入院(収容)という、当時は少なくとも形の上では待遇改善かと思わせる処遇下へと移されることになりました。しかし、今にして思えば昭和四〇年代に頻発した精神病院内不祥事件などは、その後の処遇内容が、民間医療機関病床増を急ぐあまり医療内容について指導、点検できないなど放置状態だったことを浮き彫りにしたものと言えます。

 加えて結核の公費負担と、らい予防法や精神衛生法における公費負担とは、両者の治療技術確立の歩みの差と同様、その性格の差が顕著になってきています。更に警察権力の介入を含めた社会保安という大義名分、あるいは医療技術の未確立による離院防止のための施錠や格子という外見、これらが隔離収容の意味内容を二重三重に増幅させ、一般社会の世論形成に大きくマイナスに作用していることが当時は見逃されていました。

 こうした形で悪循環作用は進み出したのです。昭和三〇年代における向精神薬の導入は「第三次精神医学革命」と呼ばれるように、従来からの治療技術と効果を大きく変化させました。精神医療が単なる隔離収容からショック療法(電気やインシュリン)、精神外科療法など独特の治療法を経て、他の医療並みとなり、患者、家族、治療関係者たちに精神病院のイメージ変化に大きな希望を与えたことも事実です。そうした段階になって初めて精神障害者家族会の胎動の気運が芽生えたといってよいでしょう。

  4 家族会の誕生の土壌

 向精神薬の効果は従来のインシュリンショック療法や電気ショック療法、果ては拘束のための厳重閉鎖病棟などの治療法と異なり、薬物生産量に比例して全国に普及し、その効果も顕著でした。例えば松沢病院の統計でも昭和三〇年当時の退院率より昭和三八年当時のほうが約二倍にものぼり、その影響が端的に示されています。加えて作業療法、レクリエーション療法が促進され、「働きかけ可能」の素地をもつくり始めたのです。一部には外来が大きく拡大され閉鎖病棟を開放化するなどのところも現れました。

 また薬物療法はショック療法や精神外科療法などと比べて患者に与える心理的、肉体的苦痛も少なく、医療スタッフ側にとっても利用しやすいなどの利便性がありました。これら薬物療法と並行して、欧米における力動精神医学の展開による精神療法、とりわけ精神分裂病の家庭内心理的力働関係の影響が、我が国の精神医学界にも及んできました。これにより治療者と患者の間の人間関係で恐れや不信がとれると結果的に症状の安定化を招くこと、また家族の患者に対する心理的影響が大きくクローズアップされてきたのです。こうして家族は主として患者の在宅、通院時における治療的役割の担い手、更には退院の受け皿的機能として重要視され始めたのでした。

 しかし他方、戦後社会の生活構造としては国民の教育理念も大きく変わり、家制度(家長制)が廃止されるなど家族意識も変化してきました。と同時に経済構造面でも昭和三〇年代には戦前の生産性を回復し、神武、岩戸景気と驚異的な高度経済成長を遂げました。いわゆる太平洋ベルト地帯の京浜、中京、阪神、北九州などに重化学工業都市が形成されていき、大都市中心の工業生産繁栄のために多くの地方都市からの労働者を受け入れる形となりました。地方の次男、三男などが中、高校を卒業し、金の卵ともてはやされ、大都市労働者化していったのです。そうした中で、徐々に地方都市も産業構造が変化し、また家族構造も都市をはじめ農村も、おしなべて核家族化していったのです。

 こうした変遷の中で精神障害者や家族は、生活の実態は別でありながら意識としての家族制度の重圧の下に呻吟し続け、やがて家族はその一員である患者を精神病院に委託しながら、家庭のバランスをとらざるをえなくなるのです。問題点は、法の建て前として精神病者監護法、精神病院法、そして精神衛生法として改善されてきてはいるが、日本の精神医療の骨幹は依然として、患者の扶養および保護を家族の任においていることです。例えば、精神病院法時代の在宅監置の悲惨さがしばしば精神医療界で語られますが、この病気の発症原因も不明で対応策がない状態にもかかわらず、扶養保護を中心として最終的にその看護などを法律により、一市民であり医療知識をもたないところの家族に負わすとすれば、家庭内監置以外に方法がなくなるのはいわば当然でした。

 昭和二〇年から四〇年代に至る間、さほどの経済的蓄積がない中で、歴史的に積み重ねられた偏見によるとはいえ、対人関係障害という世間から疎んじられる病人を抱えた家族の生活防衛策はほとんどなく、中には本当に土地、田畑を売って、病院に医療費を支払い続けた家庭も数多いのです。当時の健康保険制度の給付率は低かったのです。第二次大戦後、日本は民主化が叫ばれ、福祉施策も西欧モデル指向であって、あたかも近代化されたかのごとく語られます。しかし、生活保護法ひとつをとっても家族に相互扶助としてその扶養の任を親子はともかく兄弟姉妹にまで負わせているのですが、その兄弟姉妹とて自分たちの生活自立や配偶者とその子どもたちの養育で実際には手いっぱいの状態であることが多いのです。現行の生活保護法では、他法優先、世帯単位、資産活用、扶養義務規定などで対象者にかなり窮屈な思いや負目を感じさせてきました。

 その上、昭和三六年、国家財政に多少の余裕が出てきたころ、ちょうど行政管理庁監査結果もあり、措置入院の基準がばらばらであったのを統一するため、また昭和三八年の精神衛生実態調査で要医療者が多数いるという結論もあって措置入院奨励策をとりました。昭和三八年には局長通知により、生活保護や国保・社保のうち多少とも精神症状がありそうな患者には、自傷他害のおそれを拡大解釈してでも、いわゆる経済措置と称して措置入院策をとり、その結果措置入院患者の急激な増加となりました。

 例えば、昭和三五年に一万二〇〇〇人だったのが、昭和三六年の通知後には実に四倍の約四万七〇〇〇人となっており「自傷他害」というレッテルを貼ってしまうところの措置入院患者が急増したのです。とりわけ生活保護法からの一部負担のある患者の措置入院への切り替えは病院にとっては一部負担金の徴収の手間が省け、家族にとっては入院費の負担がなくなるので、詳しく措置入院の意味を知らずして(仮に多少知ったとしても、医療側から勧められたりして)自然と切り替えに拍車がかかりました。特に、昭和四〇年の法改正は、その前年のライシャワー大使刺傷事件を契機としているだけに、治安対策の観点からも医療および保護という名目の下の措置入院に関する予算確保が強化されたと言われています。ちなみに昭和四〇年法改正以後も、措置入院患者は六万六〇〇〇人、昭和四五年には七万六五〇〇余人となり、その年に「ルポ・精神病棟」報道が世間をあっと言わせたのです。やがて七万七〇〇〇人をピークに、その後下降現象を呈したのです。

 はたして家族は、精神病とその医療や、精神衛生法の意味について何を知っていたのでしょうか。「ルポ・精神病棟」が出たころ多くの家族には、たとえその病院が少数例であったとしても、「精神病院とは本当に精神の病気を治療してくれるところなのだろうか」との疑問を抱かせ、また全家連にも精神病院に対する質問の電話が相次いだと言われています。

  5 病院家族会成立の経過

 家族会などの当事者団体の成立は、自主的な集まりの組織であるべきだと、行政や医療にかかわる関係者は言いますが、それは建て前上のことです。現実的には、精神障害者やその家族たちが偏見の強い日本社会の下で、わざわざ名乗って家族会運動に参加する場合はごくごく稀れです。ほとんどの病院家族会の発足過程を見ても、まず家族の患者への働きかけが必要だと考える医師や看護婦、ソーシャルワーカーなどが担当の病棟もしくは病院全体の家族へ、病気の症状や対応の仕方、服薬の重要性などについて教育指導することから始まっています。家族の側でも肉親が治療を受けている、世話になっている医療スタッフからの働きかけであるし、早く治したい一心で、できるだけそれらの会合には出るようにします。だがそうした家族ばかりではなく、できるだけ隠したいと考える人、長い療養の結果もう治らないのではないかとあきらめかけた人はあまり出席しません。何回もの入退院などの中で、少しでも変化のある人、またはあきらめきれない家族が懇談会や家族会に出席することになります。

 そして病院家族会の会合には、例えば病棟別家族懇談会という形で、医師、看護者、ケースワーカー、事務員と当日呼びかけに応じた家族(数人から数十人まで)が集まります。医師が教師役となって病気の症状や服薬の大切さ、継続療養の意味などを述べるのが初歩的段階、次いで外出、外泊時など家庭での生活管理、患者本人との接し方、在宅療養の留意点などが指導されます。集まった家族の多くはまず、自分の子や兄弟姉妹の病状や問題点にどう対応するか、おずおずと質問します。その質問はしばしば非常に具体的で個別であるため、参加している他の家族は反射的に自分の患者(家族)問題と区別しようとします。「うちのより病状が軽い(重い)から参考にならない」と。すなわち客観的共通点から学ぶより個別的、主観的視座をとりがちとなります。しかしそうした家族も何回かの会合に出ると少し余裕もでき、他の家族の話も聞き、比較判断することもできるようになります。また会合に何回か出ているうち、いくつかの世話役が回ってきます。そうした体験を恐るおそる繰り返すうちに、役割分担をしだすのです。

 病院家族会員は、ほとんどがその病院に身内を入院させてもらい世話になっているわけですから、「待ち時間が長く、面接時間が少ない」「主治医になかなか会えない」「薬以外の治療はどうなっているか」「喉が乾いて水ばかり飲んでいるが薬の副作用ではないか」「どんな状態になったら退院できるか」「はたして本当に治るのか」「働けるようになるのか」「社会復帰の訓練はどんなことをしてくれるのか」などたくさんある病院の治療関連問題に関してはなかなか率直に質問できないことが多いのです。「先生たちもいろいろと努力してやってくれるのだから」「この病気は難しいのだから」との考えもさることながら、やはりこの人たちに世話になっているという気持ちが強いせいでしょう、あまりはっきりとした質問も出てきません。病院家族会の限界はこの辺にあります。昭和四〇年全家連発足時に結集した家族会は、国・公・私立の病院家族会が中心でした。

  6 地域家族会成立の経過

 保健所や市町村を中心とする家族会の誕生は昭和四〇年の精神衛生法改正により、保健所が地域精神衛生活動の第一線と規定されてからですが、それ以前にもいくつか地域家族会が誕生していました。昭和三五年に京都府北部に我が国初の地域家族会が生まれました。背景としてはこのころ精神病院増床施策が展開中であり、まるで雨後の筍のように新精神病院開設や、他科医の転向がめざましく、また当時、向精神薬も出回り始めたとはいえ、まだインシュリンショック療法や電気ショック療法が多用されていました。多動や反抗的な患者ほど持続的にこの療法を受け、一般的に言って患者は治療を喜ばず、いわゆる医師との信頼関係というより管理治療(しかも指示的)が中心でした。精神病院の看護者も屈強な男性が採用され、無資格で病院職員としての地位も低く労働条件も悪く、その反動なのか、患者に威圧的態度で接しがちであることなど問題点の多い状況でした。それでいて、国民健康保険の本人家族は七割負担の時代で、それほど豊かでない家族には長引きつつある入院医療費は苛酷ともいえる負担でした。その対応策でもないのでしょうが、このころ地域の保健所を窓口に措置入院の経済措置拡大策が始まり、深い事情を知らない多数の家族たちには一見恩恵でした。

 その中に入院医療費公費負担を求め、リーダーシップを取る家族たちが出てきて家族会を結成していきました。栃木県でも友部病院家族会に触発され、昭和三七年に「やしお会」の芽生えが見られ、群馬県東村では国保医療費負担要求運動の形で地域家族会が誕生したと言われています。昭和四三年くらいになると、一時急速に使われた向精神薬の限界も見え始めるようになりました。改正された精神衛生法により設置された精神衛生センターや、在宅精神障害者の通院医療費公費負担制度、保健所の相談や訪問業務の結果が、従来の入院中心精神医療に飽き足らない医療関係者、保健所、センター関係者をして地域精神衛生活動の声を大きくならしめたのです。

 このように地域精神医療への期待が高まると、家族への働きかけも単に病院のみならず、保健所や市町村単位で通院公費負担申請患者家族や直接相談、訪問に関係した患者家族、措置入院患者家族と、いわば関係深い家族へ働きかけていく形で、地域家族会が生まれ出したのです。それとともに、従来の病院(入院)中心主義治療に飽き足らない家族が、地域家族会にポツポツかかわりだしました。それは病院家族会ではどうしても主治医、看護職員などに対し直接患者が病院に世話になっているため、治療内容や面会時間の少なさなどの不満表明も遠慮がちとなり、十分納得できぬ家族や、あるいは自分自身で何かもっと役立つことはないかと考える、より自立的、行動的な家族が、地域家族会で活動し始めたことによります。したがって、地域家族会の活動は、病棟懇談会など病院家族会活動プラス直接の社会復帰的働きかけや市町村などへの制度改善要求などが追加された活動となります。いわば自助(セルフケア)から当事者団体(セルフグループ)化するようになったと言えます。

(以下、「その3」に続く)
  7 全国家族会の成立
  8 昭和50年代の全家連運動
  9 法改正運動における家族(会)の存在
  10 家族(会)組織の全体的推移と問題点
  11 社会復帰実践を担う家族(会)
  12 全国の家族(会)の現状と今後の展望
  13 家族(会)は圧力団体たりうるか
by open-to-love | 2008-07-16 20:46 | 全家連 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(中央法規、1993年)

第3章 家族のこころ—解決すべき問題点

 第2節 家族会運動の展開

  1 精神障害者とその家族の生活実態

 近年、精神医療も進歩し、開放的処遇、薬物開発などにより早(短)期入院(治療)、早(短)期退院が増えました。この論は特に若年層の急性期患者には、というかっこ書きで当たっています。しかし私の立場からは、日本の精神障害者の圧倒的多数を占める精神分裂病圏の患者が、長期在院化してきてしまった現状から目を背けてはならないと言わざるをえません。またその早(短)期、若年層の患者群が後日これら多数者の仲間入りしない保障はないという意味で、現行の、その多数の患者の家族の生活実態や、保護、扶養能力の現状などを分析しておかなければなりません。全家連では昭和六〇年、患者を抱える会員一万弱の家族の生活実態調査を実施しました。その結果をひと口でまとめると、長期療養化の結果、気力、財力、体力が衰え、変形した核家族(老親と障害者)化現象を呈しているということになります。患者、その多くが娘、息子ですが、思春期に初発し、両親は老齢化してしまっています。

 少しくその結果をみてみましょう。日本の精神障害者の数は推計で一五〇万とも一七〇万とも言われています。そのうち三五万床の精神科病床中、精神分裂病圏が七割を占め、全入院者の長期在院化とともに、中高年化が問題になっています。昭和五八年の厚生省の実態調査からみても五年以上の在院者が六割、退院できるが三〇%の一〇万人、五七%の一八万人以上の人が受け皿があれば退院できると国の公式調査結果が出ています。そう言いながら実際に退院指導が進まない現状があり、その理由の多くを家族の責任に転嫁していますので、それをできるだけ客観化した資料で判断してみましょう。

 昭和六一年七月八日毎日新聞、七月九日朝日新聞の朝刊に「精神障害の家族調査、退院後引き取りたいは二割」「将来への見通しなく不安を募らす家族(連合会)、初の本格的全国調査」とそれぞれの見出しの記事が載りました。実はこの記事の出所は全家連が昭和六〇年一〇月から六一年三月にかけて行った、全国の精神障害者家族約一万人と患者本人(回復者)約二四〇〇人のアンケート調査をまとめたものからです。記事は次のようなものでした。

*  *  *

 精神障害者と家族の生活実態や、どんな福祉施策を求めているかを探る初めての本格的な全国調査を、家族団体の「全国精神障害者家族会連合会」(傘下会員約一〇万人)が実施し、結果をまとめた。調査で特に目立っているのは、精神障害者の闘病が長期に及びがちなため家族が高齢化していることだ。精神障害者の実態調査は、プライバシー保護問題がからんで実施が難しく、最近では厚生省が昭和五八年に実施した精神衛生実態調査があるがサンプル抽出の限界や大都市部で反対運動があったため不十分。しかし、全家連会員の間では「施策を前進させるにはまず、当事者が何を望んでいるかを客観的に示す必要がある」という声が強く、結成二〇年を機に、実施に踏み切った。調査は会員家族を対象にした「家族調査」と、全国のデイケア、作業所、回復者クラブ、共同住居の利用者が対象の「患者・回復者調査」の二本立てで、昨年一〇月から今年三月にかけて実施され、家族は九五四〇人、患者・回復者は二三五五人が回答した。

 〈高齢化〉家族調査によると、患者・回復者の四七%が四〇歳以上。七三%が発病から一〇年以上たっている。精神障害者の三人に二人が入院中でそのうち「閉鎖病棟」「半閉鎖病棟」に入っている人が五六%を占め、開放病棟は三二%だった。入院と在宅の割合は六五%対三五%、家族の年齢は、五七%までが六〇代かもっと年をとっている。

 〈在宅者の生活〉「勤めに出ている人」二一%、「家事をしている人」二八%、「作業所やデイケアに通っている人」二二%、「何の役割ももっていない人」も二三%いた。精神障害者が家族にいることから生じる家族の困難としては「将来の見通しが立たない」が七一%で最も多く、次いで「病気が回復しても働く場や訓練の場所がない」五五%、「心身ともに疲れる」五三%など(複数回答)。また、冠婚葬祭や旅行などに出かけるのに支障がある家族も四〇%にのぼった。

 〈入院者の生活〉外泊は、半年に一※、※二回かそれ以上の人が五三%。面会は、六八%の家族が月一回以上出かけており、厚生省調査では四三%にとどまったのと比べ、かなり多かった。

 〈退院の条件〉そして「退院させたくない」と答えた家族は三四%、「退院させたいが現実的に困難」は三〇%、「医師の許可があれば家に引き取りたい」というのは二〇%にとどまった。入院者の家族に退院が難しい理由を聞くと、「まだ病気がよくなっていない」五七%、「病気の管理ができず再発の恐れが強い」四七%、「家に戻ると問題行動が出る」二二%など、病状に関する問題が中心。次いで「高齢、病弱で家族が世話しきれない」二〇%、「患者と家族の関係が悪い」一三%、更に「家が狭くて居場所が無い」七%、「経済的に世話するゆとりが無い」一一%(複数回答)。また両親の死後、兄弟が引き取りを渋っている例はより深刻だし、「どんな条件がそろっても引き取れない」一三%という答えの裏には、社会や自分ともに偏見という重圧に耐えられない家族の姿が浮かび上がっている。

*  *  *

 更に続けて先の新聞記事以上に詳しく述べると、調査回答者の六四%が患者の父母、その七五%は六〇歳以上で無職が四二%、年金収入が主たる人が三七%、世帯年収は二〇〇万未満のものが四一%を占めています。回答者の健康状態では「非常に具合が悪い」プラス「少し具合が悪い」が三九%に達しています。

 また入院患者をもつ家族の調査結果のうち、家族が「患者への治療や生活ぶりをよく知っている」が二七%、「少し知っている」が四六%ですが、面会に出かけるのに「遠方で時間的に負担が大きい」が二一%と、「生活に追われてゆとりがない」という人が一八%もいました。家族がめんどうをみられなくなったときの準備については、「将来の生活の場としては入院継続を予想する」三四%が一番多く「何かしなくてはと思いつつ何もできない」三四%、「福祉制度をあてにしている」三一%が高く、次いで「施設」も二五%、退院については入院患者をもつ家族の、実に六四%は患者の受け入れが難しいと答えています。これに対して家族の受け入れの可能性がある回答者別にみると、配偶者のいる兄弟またはその配偶者の「退院が難しい(受け入れ困難)」は七七%と父母の五九%より高く答えました。

 一方、在宅患者の家族では、患者の日常生活活動の自立について清潔や身だしなみに気をつける、金銭管理ができる、決められたとおりの通院服薬など基本的なものの八〇%ができているが将来の生活設計、生活のはりを見つける、友達づくりなど生活の中身を豊かにする活動ができているのは二〇〜三〇%の人でしかありません。在宅患者は勤め以外の就労(作業所を含む)では四二%が収入を伴う仕事をしていますが、就労上の困難は多く、「作業能力低く肩身が狭い」二六%、「職場の人間関係がうまくいかない」二二%と出ました。勤めに出ていない在宅患者は「働きたい」が四五%で、どのような職場であればよいかの問いに、「雇主が理解ある人」四二%、「相談援助担当者のいる職場」三六%が多い回答でした。在宅患者家族は、「通院服薬するよう働きかける」八九%、「清潔な身だしなみ、規則的な生活を送るよう配慮する」八五%、他方「友人を作れるよう配慮する」四六%、「生活のはりを見つけるよう配慮する」四七%、「将来のためにお金や資産を貯える」五〇%が、それぞれの努力の中身でした。やはり世話をするのは母親が多く、次いで父、兄弟姉妹ですが、二五%の人は母だけという回答でした。また医療費等経済的負担、結婚問題、服薬継続の苦労、病気の変化、一家団らんの機会、親戚付き合い、などに多くの気苦労が多いと答えています。一方、「家族の外出に支障あり」の家族が四〇%となっていて、これは心身障害児(者)実態調査では三一%であるのに比べ高くなっています。特に患者が家庭内で無役割の場合五三%に達しています。在宅患者の将来の自立や社会復帰の可能性について、「世話してくれる人と同居していれば何とか暮らしていける」が三二%挙げられました。また「資産を残す」が二九%と出ました。将来の生活の場として「家族とともに」が四四%と最も多く、二〇%の人が「病院以外の適当な施設」と答え、なお家族がめんどうを見られなくなったとき、「年金などに加入する」二八%でした。また全体として兄弟がめんどうを見る見込みとしては、「世話をする約束をしている」プラス「たぶん見てくれるが」四二%で、「絶対にめんどうを見ない」プラス「見てくれないだろう」は二六%と兄弟に期待している親が多くみられます。

 まとめとしては次の四点に要約されます。

一 長い病気と患者・家族の高齢化―慢性の経過をたどる精神分裂病を中心とした精神障害者の病歴は長く、それを反映して患者・家族の高齢化が進んでいます。

二 患者・家族の自助努力―老齢化が進んでいるにもかかわらず、家族は患者のために熱心な働きかけをしています。

三 家族の扶養能力の低下と障害者を抱える家族の生活困難の増大―家族の自助努力にも限界があり、扶養能力の低下が認められ、そして特に入院患者の場合、患者を家族が引き取るのは非常に困難になっています。

四 制度的対応の立ち遅れ―以上のような現状に対して、制度的対応は著しく立ち遅れていて、家族は地域の中で孤立し、なすすべを知らない現状にあり、この高齢の家族の余生を考えるとき、一刻も早い、福祉法をはじめとする精神障害者・家族に対する生活援護の施策の確立が望まれるわけです。

 このように家族は退院できる患者の引き取りを、はたして「拒否」しているのでしょうか。私の立場から言わせてもらえば、多くの家族は引き取りたくても引き取ってやっていけない(自信と裏付けがない)のです。決して「拒否」しているのではないのです。なぜこれほど言葉にこだわるのかとご指摘を受けるかもしれませんが、永年精神科医師たちに「治してください」「生活できるようにしてください」と言い続けた私の母も含めて、非力な明治・大正生まれの、昭和の戦後復興や高度経済成長のため、それなりに精いっぱいがんばった勤勉な患者の親である家族が、長い間精神障害者家族として名もなく、貧しく、恥ずかしく人生を生き、高齢化し気力も財力も体力も衰えた現在、なおかつ家族会活動を積極的にやっている熱心な家族でさえこの生活の現状であることを、どうか察していただきたいからなのです。
 もとより家族によっては、家、屋敷など財産をもち、預けっぱなしでろくすっぽ面会にも来ない家族がいるという病院職員の声も承知しています。しかしそうした家族が本当に数多くいるでしようか。あるいはなぜそうなったのでしょうか。この結果についていろいろな評価をすることができますが、その多くの問題点をもちつつも家族がなんらかの活動をする例として、やはり現状では家族会活動が一番大きな具体的な効果をもつ活動なのでしょう。

  2 日本の家族(会)

 かねて精神障害者家族会という精神的な病人や障害者を身内にもつ者の集まりである組織運動体は、諸外国にない日本独特の団体であると紹介されてきました。確かに名前も家族会と称し、会員もその九八%くらいまでが家族だけで構成されており、別の面では日本の家族制度に基づく保護、扶養意識による公序良俗と美化されたりしましたが、諸外国にも家族を主構成員とした団体は実はたくさんあるのです。英語での表現ですが、イギリスを中心に西欧諸国にはNational Schizopherenia Fellowship、アメリカではNational Allians for The Mentally Illなどがあり、また東洋では韓国、台湾などにも類似の団体があります。これらの海外の組織団体は精神医療、福祉関係者、それに市民ボランティア運動の人たちが個別に家族、患者を囲む形で、具体的には地域社会内でその治療、訓練、そして生活援助、就労、職業リハビリテーションなど実践的協同活動を主体にしたものであったため、家族がさほど目だたなかったのです。日本の家族会は、いささか家族だけが再発、再燃、再入院のもと、引き取りを拒否し、社会復帰にマイナスになると精神医療の諸悪の根元のように言われ続けてきました。心細く寄り添いながらも、単位家族会では家族中心の集団学習、個別ケア、慰め、励まし、愚痴を言いあい、連合会では陳情、請願、そして啓発・啓蒙運動という、意識や心情レベルの運動が中心であって、西欧のような社会復帰実践の展開とは違った形でした。近年、日本の家族会運動も懇談会、啓発、啓蒙、陳情活動のみでなく、ボランティアを招じ入れた地域作業所設立運営という社会復帰実践活動の主体になりつつあり、変貌を遂げてきていますが、かえりみれば、今までは抽象的な、あるいは個別的な、毒にも薬にもならない家族だけの活動で、相互扶助は日本独特の美徳だとおだてられてきたふしがなくもないのです。

 今、全国の家族会(役員層の)活動の周辺にも、文明開化の波がヒタヒタと押し寄せてきつつあると言えます。その第一点は、回復者たちの自己主張運動です。回復者クラブ、患者会、退院者クラブ、友の会、あるいは保健所デイケアの修了者によるソーシャルクラブと呼ばれる本人主体の諸活動があり、それは社会復帰訓練、病気の知識学習過程そのものの活動から現行精神医療や、行政システム改革をめざす運動や批判活動まで、実に幅広いものがありますが、それは家族会活動と両輪をなす患者会運動は密接不可分な運動でもあります。

 二点目は、文字どおり家族会活動の国際化です。具体的には海外からの一六ミリフィルムやビデオ、翻訳書籍、関係雑誌を通じての情報吸収です。イギリス、ベルギーについてはもう一〇年も前から、また最近ではカナダ、フランス、中国などの地域医療について一六ミリフィルム等が全国のかなりの範囲で家族の学習用に使われています。

 三点目は、そうした影響もあってなのか、現実の医療、社会復帰効果にしびれを切らしたのか不詳ですが、地域で作業所設立運営の担い手(実践主体)になったことです。

 四点目は、以上三点の活動を更に促進していくための政策要求運動の結果、家族会の存在と運動そのものがようやく一定程度の社会性、政治性を帯びてきたことです。全国の個々の家族会を具体的にみれば、組織的にも構成メンバーにもいくつもの弱点が認められます。しかし精神障害の中枢的疾患・障害である精神分裂病の唯一の全国規模の団体として、また、見逃しえない福祉ニードをもつ組織体として、地方・中央の行政府、議会にようやく認められるようになったことの意味は大きいと思います。こうした都道府県連合会や全国連合会の活動は、連合会がもつ広域的な基盤のゆえに、その期待される運動は、行政施策の向上への働きかけという、ある意味で極めて政治的活動と評される性質の活動を含むものです。とりわけ、我が子のため個々に世話になるところの専門職員との個別関係だけでないため、自分の家族が直接世話になる病院や行政の職員にさほど遠慮することなく、自らの意志、疑問、意見の表出が自由にでき、狭い枠を拡大できるわけです。このことはとりもなおさず、普段、行政や病院などに患者を預けている家族はいかに弱い立場にあるかの証左ですが、その場合でも連合会活動であれば、一定の病院や狭い地域に限られずにすむからです。いずれにせよ、精神障害者をめぐる医療、社会復帰、福祉活動や行政施策の改変に確実にかかわりつつある家族会活動は、本来、常に医療や福祉サービスのモニター役を勤めなければならなかったわけですが、ようやく今その機能を果たせる状況になり、今後よりいっそう重要な意味をもつと言えます。

(以下、「その2」に続く)
  3 戦後日本の精神医療形成の背景
  4 家族会の誕生の土壌
  5 病院家族会成立の経過
  6 地域家族会成立の経過
  7 全国家族会の成立
  8 昭和50年代の全家連運動
  9 法改正運動における家族(会)の存在
  10 家族(会)組織の全体的推移と問題点
  11 社会復帰実践を担う家族(会)
  12 全国の家族(会)の現状と今後の展望
  13 家族(会)は圧力団体たりうるか
by open-to-love | 2008-07-16 20:38 | 全家連 | Trackback | Comments(0)
月刊「ぜんかれん」バックナンバー
(財団法人全国精神障害者家族会連合会(精神障害者社会復帰促進センター)刊)

第447号(2004年 4月)
 マンガ新連載 バベットしもじょう「キヨシの世界」
 特集「ひとり暮らしのやりくり」

第448号(2004年 5月)

第449号(2004年 6月)

第450号(2004年 7月)
 特集「安心できるところで」

第451号(2004年 8月)

第452号(2004年 9月)

第453号(2004年10月)

第454号(2004年11月)
 特集「精神科診断と治療の「?」に答える」

第455号(2004年12月)
 特集「家族会のこれから」

第456号(2005年 1月)
 特集「ホームヘルプが運ぶもの」

第457号(2005年 2月)
 特集「作業所で」

第458号(2005年 3月)
 特集「セカンドオピニオン(第2の意見)」

第459号(2005年 4月)
 特集「変わりゆく市町村」

第460号(2005年 5月)
 特集「2/24・25全国大会(東京大会)から」

第461号(2005年 6月)
 特集「きょうだいの思い」

第462号(2005年 7月)
 特集「生活保護の暮らし」

第463号(2005年 8月)

第464号(2005年 9月)
 特集「病院家族会」

第465号(2005年10月)
 特集「治験ー新薬の開発」

第466号(2005年11月)

第467号(2005年12月)
 特集「お医者さんと向き合う」

第468号(2006年 1月)

第469号(2006年 2月)

第470号(2006年 3月)
 特集「障害者自立支援法 どう変わる?」

第471号(2006年 4月)
 特集「よい眠りを得るために」

ぜんかれん号外「知っておきたい福祉制度 精神疾患をかかえる人のために」

第472号(2006年 5月)
 特集「地域生活支援を考えるー2/27、28全国会議より」

第473号(2006年 6月)
 特集「太りすぎの悩みに答える」

第474号(2006年 7月)
 特集「障害年金をもらいたい」

第475号(2006年 8月)
 特集「仕事『続けていける』と思えるまで」

第476号(2006年 9月)
 特集「薬が多すぎる?―薬の適量と過鎮静」

第477号(2006年10月)
 特集「お父さんの想いを伝える」

第478号(2006年11月)
 特集「喉のかわき・多飲症・水中毒について」

第479号(2006年12月)
 特集 別冊「早わかり 障害者自立支援法」

第480号(2007年 1月)
 特集「全国大会(長野大会)ー精神障害者が地域で輝いていきるには」

第481号(2007年 2月)
 特集「新薬の副作用」

第482号(2007年 3月)
 特集「自立支援法はどう波及しているか?」

第483号(2007年 4月15日)
 特別号「『ぜんかれん』のみなさまへ」
    目次
  全国の皆様へ……………………1
  全家連の活動の報告……………3
   資料…………………………13
   全家連の歴史年表…………15
  都道府県家族会事務局一覧…17
by open-to-love | 2008-04-13 23:04 | 全家連 | Trackback | Comments(0)
全福連発会式記念講演「精神保健福祉の動向と家族会のこれから−イギリスと日本の比較」後編
 伊勢田堯(都立多摩総合精神保健福祉センター長)

いろいろなチームが対応
 「危機解決家庭治療チーム」は、スタッフが24時間、365日ひかえていて、専門的な治療をして、入院が必要かどうかもこのチームが判断します。こうしたチームが335チームあります。人口比に換算すると、日本で840チームあることになります。
 さらに高度な医療をする「積極的訪問治療チーム」が263チームあります。日本でいうと660チームです。この70%が夕方と週末も対応します。また「発病初期介入チーム」というのが109チームあって、発病したての患者さんや家族に対して精力的に支援しています。発病してどうやって支えたらよいのか家族も困っているところに訪問チームが来て、学校や職業の継続ができるようにということも含めて支援をしています。
 こういうなかで、700人の家族支援専門ワーカーというのを作りました。日本に換算すると1800人になります。家族を支えるためだけの職種です。

700人の家族支援専門ワーカー
 イギリスは1995年に「家族支援法」を作りました。家族の要望を認識し、それに基づくサービスを提供しようという法律です。そして1999年に国家目標として家族支援を打ち出しました。さらに2004年家族支援法の改正をしました。この「家族支援機会均等法」ではすべての家族に平等にサービスが行き届くようにという主旨が盛り込まれました。
 2005年、英国精神医学会は、今までの家族に対するアプローチは誤りであったと総括しています。国家目標としての家族支援は、その歴史的な誤りを正す第一歩だったといっています。日本でもいかに家族を傷つけてきたのか、十分な支援を届けてこなかったか自己批判したほうが良いのです。これは科学ですから以前にどういう態度をとったかに余りこだわらずに、率直に自己批判もして前進していくのが科学的対応です。うやむやにするとなかなか次に進みません。
 さて、イギリスの家族支援専門ワーカーの役割は何か。まず第一に実際的、情緒的支援をします。実際的というのは、年金を得る方法など本当に困っていることを具体的に支援することです。情緒的支援は励ましですね。第二に地域の法定サービスに結びつける支援と紹介をしています。第三に精神疾患と治療についての情報提供。これは日本でも「家族教室」でやっていますよね。第四に24時間危機介入など精神保健サービスの情報提供。24時間いつでも援助できるようにして家族を途方にくれさせることはしません、夜中でも助けを求めることができますと、言葉だけでなくリーフレットを渡すなどして実際的支援をしています。第五に家族会支援。第六に家族の休息支援。家族へのレスパイトサービス、家族が疲れて休むのは、介護者の恥ではないことを強調しています。第七に家族の精神保健政策過程への積極的参加。第八に家族の権利擁護となっています。

情報、支援、家族自身のケア
 家族の支援するときの三つの要素は、情報、具体的なサポート、家族自身のケアです。家族自身も疲れて、精神的にも肉体的にも病気になるので、家族もケアするということです。
 また、家族を支援する時の原則として、①家族を尊重すること、②多様な機会を用意し、家族が選択できるようにする。③パートナーシップの形成。④継続的に改善する、としています。
 変な家族だとか、文句を言う家族だとかでなく家族を尊重します。パートナーシップというのは、治療は本人が中心になって家族と医療従事者が一緒にするものということです。専門チームにお任せではなく一緒にするということです。
 継続的改善ですが、日本のように審議会形式の政策決定システムと大分異なっています。圧力団体や権威者頼みの政策決定でなく、実体を調べてどう援助するのが効果的かということを、公平な国立の機関が検証する。一旦決めたものでも、例えば5年後には検証をとおして更新しています。我々の社会は常に進化しないとだめです。止まった人、団体、文化というものは弊害が出てきます。自分たちはこれでいいんだと思った瞬間からその人や団体の悪い面が出やすくなるようです。

日本はなぜ変わらないか
 それではなぜ日本が変わることができないのか。
 その主要な要因として、ビジョンのない現実志向が蔓延しているからではないかと思います。現在よく目にする、言葉だけのビジョン、政策決定では先が見えてこないと思います。
 自分の要求をはっきり言えなかったり、大きな声が出せない人にも必要なサービスを届ける政策が必要ですし、そういう政策を決定できるシステムにしなければなりません。ここが原点だと思います。今のようにとりあえず自分たちの要求を通すというやり方では弱者の声が届かないでしょう。それは政策決定の分野だけでなく、日頃の活動にも言えることです。私たちも大きな目標、夢をもつことが必要です。そのことによってみんなのネットワークができてお互いに協力し合うことができます。とりあえず目先のことではなかなか一致できないのですが、大きな目標を持っていると小さな違いにこだわらなくなり、協力し合うことができます。

小さなグループが世界を変える
 「思慮に富む献身的な市民からなる小さなグループが、世界を変えることはできないだろうなどと決して思ってはならない。実際、世界を変えてきたのはそういった小さなグループなのだ」と、人類学者のマーガレット・ミード氏が言っています。今すぐに実現できないことでも、明確で正当な主張を繰り返し訴え続けるといつかは変わるんですね。目先の結果にこだわらず、あきらめずに、小さな集団でも正しいこと、正義にかなったことをしていくうちに、いつかは通じるようになります。

声の出せない人にも届けるサービス
 最後に日本の精神保健についての私のビジョンです。社会的入院の解消を主要な目標にするのではなく、閉鎖病棟にいなければならない重度の障がいを持つ人々でも地域で生活できるようにするためにはどうしたらいいのか、どういう社会にすればよいのか、そのためにはどういう仕組みが必要なのか、それを達成することを国家目標にすることです。そうなるとどうしても研究が必要になります。精神医療も、サービスの内容も、必要な職種に関しても研究しなければなりません。地域で精神障がい者を支える力が成長し、重度の精神障がいを持つ人も地域で暮らせる、家族も必要に応じて十分な支援を受けられる社会にならなければなりません。
 イギリスでは、精神障がい者の具合が悪いときには家族が有給で休みを取って介護できることをめざしています。それから、声が出せない弱者にも、必要なサービスが届けられるような成熟した社会にしようとしています。また高度な治療法を研究開発する体制もできているようです。研究費の使い方、配分の問題が正しく行われる体制も必要です。権威者主導でなく、調査をして、実態を調べて対策を自分たちの頭で考えるシステムを作ることです。さらに当事者、家族のニーズとサービスの評価を、常に見直し更新するシステムにすることです。

家族のニーズを繰り返し訴える
 今後の家族会に対する私の提案です。家族のニーズを簡潔にまとめて、くり返し訴え続ける。その実現性は、ある程度、度外視して、余り今の社会に合わせないことです。根本的に変えなければいけませんから、施設経営は最小限にしたほうが良いでしょう。政策決定の近代化についてはよく研究しましょう。近代化するには実態調査ができるようにしなければなりません。情報を守りながらすることです。それから予算の適正な配分も重要な課題です。そうでないと、いくら予算を投入しても足りなくなるでしょう。
 「みんなねっと」は海外の家族会運動を研究しませんか。宝がいっぱいありそうです。大きい目標をもって頑張りましょう。(おわり)

(月刊「みんなねっと」通巻第5号 2007年9月号)
by open-to-love | 2007-12-02 14:05 | 全家連 | Trackback | Comments(0)

「みんなネット」6月号

「みんなネット」6月号目次

知っておきたい精神保健福祉の動き
家族のための相談コーナー 今月のテーマ「育て方と病気」
親の愛に自信を持って(良田かおり)
本人から親の育て方が悪かったと責められる、発病は親の育て方が原因ですか?(三野善央)
私も「みんなねっと」を応援しています 小沢温(東洋大学教授)
本の紹介『家族にもケアを』『がんばろうよ市町村』
お元気ですか家族会 さいたま市「もくせい会」(埼玉県)
街の診療所からのお便り【連載②】(増本茂樹)大丈夫という能力を鍛える
わかりやすい制度のはなし 障害年金のポイントその2(山口多希代)
 「障害状態確認届」の診断書を書いてもらうときの注意点
家族の手記
 私の育てなおし奮戦記-統合失調症の娘との19年をふりかえる
 家族の思い-家族会に入会するまで
お知らせ&ご案内コーナー

■みんなねっとの総会と発会式が開催、新理事長選出される
  5月9日、当会の総会が開催されました(東京、主婦会館プラザエフ)。そこで長谷川清氏(埼玉県)に代わり、川崎洋子氏(東京都)が新理事長に選出されました。会議の詳細は次号にてお知らせいたします。
 当会の発会式では(5月10日、参加者延べ160人以上)。午前中の式典では、行政や関係団体の来賓の方々からの応援メッセージを頂戴し、また、リレートークとして、全国各ブロックより、「これからの家族会と全国組織」について語っていただきました。午後は、「精神保健福祉とこれからの家族会-英国と日本を比較しての夢」と題し、伊勢田堯先生(多摩総合精神保健福祉センター所長)にご講演いただきました。会の詳細は次号にて掲載します。

(「知っておきたい精神保健福祉の動き」)
by open-to-love | 2007-07-26 11:01 | 全家連 | Trackback | Comments(0)
全家連の活動の報告(後半)

5.ハートピアきつれ川の建設(後半)
 …多額の建設資金の確保には、当面、公益資金の補助申請とチャリティ事業での収益が期待され、全国10カ所で北原ミレイのコンサートが計画された。しかし1993(平成5)年、バブルがはじめた不況の時期に、東京を皮切りに始められたコンサートはいずれも予想以上に客の入りが悪く打ち切らざるを得なかった。
 資金調達が難しい局面を迎え、計画の見直し論も出たが、既に事業は動き出しており、この期に及んでの撤退は許されない情勢にあった。事業の意義とメリットを再確認し、苦渋の選択の末、再スタートをきることにした。この間の事情は「全家連30年のあゆみ」に詳しい記事が残されている。(資料①再スタート記事)
 1993(平成5)年、精神保健法の一部改正が行われて、新しく「精神障害者社会復帰促進センター」の規定が設けられ、全家連がその指定を受けた。国は社会復帰促進センター事業の拠点施設として10億円の補助金を出すこととしたが、全額ではなかった。(身体障害者団体の拠点施設は全額国庫補助)
 総額20億円余にのぼる建設資金の調達h困難を極めた。国や県、公益補助金で11億円余は確保できたものの残り9億円余は募金、寄付金で賄わなければならない。経団連、製薬業界、栃木県財界等にいろいろ働きかけをしてきたが、バブル経済崩壊後の産業界は冷たく、経団連も一時約束したにもかかわらず寄付金の拠出は実現しなかった。既に動き出したプロジェクトは止めることが難しく、不足分約8億円は金融機関から借入することになった。この時寄付が集らず多額の借入金を発生させたことが、後々大きな課題を生むことになる。(資料②建設資金の構成)
 1996(平成8)年、ハートピアきつれ川は無事、竣工、開所した。以後現在まで多くの研修会に利用され、また全国から集まるメンバーの生活訓練の場として社会復帰施設の役割を果たすとともに、良質の温泉は来所者の心を癒し続けている。

6.啓発活動の要務
 ようやく精神障害福祉に目が向けられるようになってきたが、家族会には大きな課題が残されていた。それは精神障害、特に精神分裂病に対する世間の偏見が根強く、家族が表立って活動し難い雰囲気があったことである。
 1984(昭和59)年に報道された宇都宮病院のリンチ殺人事件は、精神疾患に対する印象を更に悪くするものであった。全家連は偏見除去に対して、忌まわしいイメージのある分裂病の名称を変更することを要望した。この問題は、日本精神神経学会が真剣に取り上げて検討を進めてくれたが、全家連もキャンペーンを広げてついに「統合失調症」と変更することに成功し、世間の認識を変える契機を作った。
 また、全国各地に家族会が増えて、精神障害の知識の普及啓発活動や、家族からの医療・福祉の相談事業等各地で抱えている多くの問題に対処した。一方、保健福祉制度を改善してゆくには、実態に即した家族のニーズ調査も続けていく必要がある。立ち遅れている精神保健福祉を向上させるために、全家連がやるべき事業は多岐にわたると共に、事業実施に向けて補助金交付の道もできつつあった。啓発研修、家族相談、自立支援、能力開発、就労支援、社会復帰、出版制作、家族会育成等事業は拡大し人員も増加した。反面、経費は膨脹、特に補助金が絡む会計処理は複雑化し、全体の管理は難しい作業になる中で保健福祉の向上に努めねばならなかった。
 1995(平成7)年、ダイアナ妃が来日した折、精神障害者福祉の現場を視察するため、全家連の授産施設に来所し、訓練中のメンバーを激励された。この報道が日本で驚きの感じで受け止められたのは、まだ精神障害への理解が遅れている証拠かも知れなかった。

7.補助金不正流用の発覚
 2002(平成14)年11月、全家連は国等の補助金を目的外に使用しているとの新聞報道がなされた。直ちに補助金交付5団体(厚生労働省、福祉医療機構、高齢・障害者雇用支援機構、日本自転車振興会、日本財団)は過去5年分(一部10年分)について補助金使用状況の立入検査に入った。
 全家連は2002(平成14)年度までは、年10億円前後の補助金を受けて精神保健福祉向上に関する事業を行っていたが、その補助金の一部を事業で支出したことにして借入金の返済などに使ったのである。目的外使用の内容は、殆どハートピア建設時の借入金の返済と、ハートピアの運営費不足分の補填に当てられた。調査結果を元に債権者5団体は翌年3月(一部4月)、補助金の返還命令を出した。
 返還命令は3億8400万円プラス加算金等で総額5億3900万円に上った。
 不正流用した要因は、厳しい財政事情であったが、その直接原因となったのは、ハートピア建設時借入金の返済とハートピア運営の赤字補填であった。
 全家連は、家族ら賛助会員の会費約1億円と出版事業の繰入金3千万円を基本収入とし、認められた事業に対して補助金、寄付金を受けて事業をする団体である。補助金等は、その事業を行うために必要な経費はみてくれるが、人件費を含め自己負担を強いられることが多い。事業が拡大し,人件費だけで8千万円前後になると、財政に余力はなくなる。本部ビルとハートピア建設時の借入金返済額は年6千万円にもなり、財政は破綻状態にあった。補助金の不正流用は起こるべくして起こったとも言える背景の中で、事務局が内密に工作して続けられたが、流用した金は帳簿上きちんと管理されてすべて一般会計に繰り入れられ、立入検査でも個人的な不正使用などは一切認められなかった。
 事件が発覚し、役員は直ちに総辞任した。

8.新体制による対応
 新役員による新体制では、この難局を如何に乗り切るかで大議論となった。全国の家族に寄付をお願いして返還を進める案に対し、余りにも返還すべき金額が大き過ぎ、組織の維持は無理であるという解散論も有力であった。事件発覚の少し前に遺族から1億9千万円もの寄付があり、危機的な財政は陰で支えられ、勇気付けられもした。
 一方、身体・知的障害者の分野では、障害者個々のサービスに給付金が付く支援費制度が始まり、格差の余りの大きさに精神障害関係者間に危機感が走った。しかも運用開始早々から予測以上の利用者の増加で財政的な行き詰まりが指摘され、障害者福祉制度の抜本的な改革は避けられない予兆が見えていた。(資料③障害者福祉予算の構成図)
 このようなきわどい情勢の下で、全家連が無くなってよいのか、組織の存続にあらゆる努力が要るのではないかの検討が行われ、募金2億5千万円による多額返還と自己財源1千万円の長期返還を組み合わせた返還計画が立てられ、理事会、評議員会に諮られた。
 2003(平成15)年10月23日、新日鉄代々木研修センターで開かれた臨時評議員会は、全家連の命運を賭けて白熱の論議が交わされた。何らかの手を打たなければ解散するしかなく、返還努力もしないまま解散すれば新たな全国家族会団体が社会的に認知される可能性は薄く、啓発誌の発行も絶たれ全国の家族会へ迷惑が及ぶ。それを回避するのは募金による返還で元金を減らし、後は払える範囲で長期にわたって返還するしかない。財政は厳しく困難が予想されるが存続の可能性を選ぶかどうかで採決した結果、賛成37、反対4、保留16で募金による存続・再生が議決された。

9.募金活動と返済・返還軽減の交渉
 評議員会の決議により、直ちに募金活動に入った。期間は2004(平成16)年9月末を目途として、募金目標は総額2億5千万円。内訳として家族1億2千万円(66万家族2千円の呼び掛け)、全家連の再生を支える会(企業等へ働きかけ)1億円、協力団体3千万円と想定した。
 1年近くの募金活動の末、区切りの9月末までに約7千3百万円が集まった。目標額には及ばないものの極力誠意を尽くして債権者に返還し、併せて加算金、延滞金の免除を申し出て認められた団体もあった。不足分については猶予をもらい、更に減額・免除等について交渉を続けた。
 全国の家族会は、地域により多少ばらつきはあるが、各都道府県連の呼掛けにおおむね協力され、全国で6640万円の募金が集まった。全家連の再生を支える会は、企業からの大口の協力が得られない中、1540万円の拠出をしていただいた。募金はその後も続き、最終的には8185万円となった。
 しかし、流用補助金の返還については、免除、軽減される見通しは暗く、3億8千万円の返還義務が無くなる期待は殆ど待てない。(返還時には更に延滞金等が加算される)
 返還交渉を続けている間に、厚生労働省は全家連の支援につながる精神障害者の社会復帰のあり方について検討を開始した。(「精神障害者の社会復帰の明日を語る会」など)一時「ハートピアの国有化」との新聞報道もあり、ハートピア建設時の借入金返済先である金融機関は、厚生労働省の動きを見守るとして、2〜3年間、元金の返済を軽減してくれることになった。
 なお、「ハートピアの国有化」については課題が多く、実現へのハードルは高いとされていた。

10.障害者福祉制度改正の動き
 障害者が地域で暮らせる期待を担って発足した支援費制度は、スタート直後から予算不足が問題化し、財源確保を含めた大幅な制度改革が迫られる中、3障害者福祉の格差の解消もその主要課題の一つであった。
 2004(平成16)年、厚生労働省は介護保険との統合を視野に入れたグランドデザイン構想を公表し、障害者福祉制度改革の方向を示した。その骨子は次の点にあった。
①3障害の福祉制度の一元化
②市町村を中心とするサービス提供体制
③公平な費用負担と配分の確保
④障害者福祉主要経費の義務的経費化
 介護保険との統合は、世論の賛同が得られず後退し、財源に不安を抱えたまま法制化が急がれた。
 全家連はこれらの動きについて、3障害一元化を骨子とする基本案に賛成しつつ、医療費等負担増の軽減策を強く要望した。小松理事長は国会での意見陳述の機会に、精神障害者の実情を訴え、この点を明確に主張した。
 改正案は、2005(平成17)年10月、障害者自立支援法として成立し、翌年4月より一部施行、同10月より全面施行というあわただしさであった。
 成立した法案で、3障害一元化は実現したものの、応益負担の導入や政令で示された施設運営費用には不満が噴出した。
 全家連は他障害団体と連携し、国会や厚生労働省に運用策の見直しを求める運動を展開、作業所国庫補助110万円復活を含む1200億円の緊急緩和予算を獲得した。

11.借入金返済・補助金返還問題
 このように全家連は、あまたの懸案に精一杯取り組んできたが、巨額の返済・返還金を抱えた現状について、国会議員や厚生労働省も憂慮し、新たに「精神障害者及び社会復帰支援団体のあり方に関する検討会」を厚生労働省内に設け、社会復帰に取り組む精神障害者やその家族を支援するために必要な組織体制のあり方等について検討を続けた。
 しかし、救済策の動きを見ることで結ばれたみずほ銀行との元金返済軽減契約は、2007(平成19)年3月末が期限で、救済策が見当たらないまま、大きな元金の返還義務が復活することに対して、全家連の財政は応じられる状況にはない。
 一方、全家連再生に際し、組織のスリム化として求められていたハートピア及び都内福祉施設の運営事業切り離しは、鋭意進められて平成18年度中に別法人への移譲が実現した。それに伴い、雇用していた職員への支払いが発生、手持ち資金は一挙に減少し、19年度の事業を継続する運転資金にも事欠くことになった。
 長期借入金は未だに5億4千万円もの残高があり、流用補助金の返還額3億8千万円との合計は9億2千万円になる。(他に延滞金等が加算され負債総額は10億円を超える)
 負債に対する資産は、基本財産5千万円に本部ビルとハートピアの土地建物であるが、時価では数億円程度で債務超過は明らかである。
 2007(平成19)年4月17日午前中、全家連は都内で理事会を開き、財務状況を確認して債務超過による破産を決議、午後開かれた評議員会に報告し了承を得た。その後、裁判所に自己破産の申し立てをして、解散することになった。

 42年の長きにわたり、多くの方々のご支援ご協力の下、全国の家族を慰め、勇気付けてきた全家連でしたが、このような事態となり誠に無念です。全国の皆さまのご期待に添えず、解散することに対して深くお詫び申し上げます。これまでのご支援ご協力に心から感謝すると共に、新しい全国組織が立ち上がることを期待いたします。

資料①全家連30年のあゆみ「みんなで歩けば道になる」1997年刊、165ページ

新たな方針のもとに再スタート
 全家連内部でも実現は無理との意見も強く、次のような意義とメリットを掲げ、決意も新たに施設建設にむけて、全組織を挙げて取り組むことにした。すなわち、その意義として、
①保養研修施設だけでなく、新しい形の規模の大きいセンター的な施設が皆さんの近くにできる突破口になる。
②全家連の役職員、全国会員が大同団結して、わが国初めての施設を完成させることで、家族会の力が立法・行政府や一般社会にさらに認められ、精神障害者の社会理解や施策や諸補助金の拡充のはずみになる。
 また、そのメリットとしては、次のようなことがあげられた。
①全家連の理事会、評議員会や全国の指導者研修会、全国の作業所関係者の短期体験研修・入所訓練等さまざまな利用ができる。入所授産施設の入所対象は全国とする。
②関東近県はもとより全国の皆さまに身近な研修保養施設として会員割引で利用できる。

厚生省との交渉と事業の正式スタート
 一方、厚生省側は全面的に民間資金で、という従来の方針での実現性は無理であるとの判断で、国の予算を確保するとの大方向転換をした。
 さらに、同(1993)年10月、厚生省側と全家連側との協議の場がもたれた。厚生省側からは、「この事業は大事業である。全家連は担当者だけの動きしか見えないが、理事長以下、全組織あげて本事業を取り組むことが必要だ。そしてもし、そうした取り組みができないのであれば、厚生省はこの計画から降りる」とまで言われたのであった。
 これに対して「今まで、まさに厚生省主導でこの計画を進めてきた、最も困難な地元の受け入れや用地買収も済ませた。ここで放り出すとは何事だ!」と担当者たちははげしく反論した。最終的には全家連は組織を挙げて取り組むことを理事長が言明し、成功まで鋭意努力することを約束した。この確認のもとに平成7年度の予算要求に施設の予算を盛り込むことの方針が精神保健課内で決定となった。
 また、1994(平成6)年4月、日本船舶振興会の補助金が正式に決定し、補助金額は1億7300万円に確定した。総資金の10分の1とはいえ構想発表から3年弱、見切り発車的であるが、ついに正式な事業がスタートしたのである。

会員や財界への募金活動
 国や県や公益補助金は約12億円としたものの、8億円の資金は募金・寄付金でまかなわなければならない。これは深刻な状況である。
 募金や寄付金獲得については最大の課題としてプロジェクトをつくり取り組んできた。募金活動については大谷藤郎本会顧問に募金委員になっていただき、経団連や製薬業界や栃木県財界に働きかけていただいた。
 家族会の募金については1億5000万円の目標を設定し、各都道府県に要請した。ここに全国の家族会をあげての募金活動がはじまった。まさしく全国の家族会員が力を合わせて、夢のパイロット施設をつくろうという、全家連ならではの運動である。このよびかけで東京近辺の家族会はほとんど目標を達成しており、全国的には目標達成には程遠いが奮闘した。

資料②ハートピアきつれ川の建設資金の構成
20億5000万円
 9億2000万円=国
 1億7000万円=公益補助金(日本財団)
   5000万円=栃木県
 9億1000万円=全家連
   (内借入金8億円
     (内:社会福祉・医療事業団 4億5000万円
        みずほ銀行      3億5000万円
 当初の資金計画には、企業等からの募金6億7000万円(経団連傘下3億円、製薬会社3億円、医療関連メーカー他7000万円)を見込んでいたが、バブルの崩壊で実現せず借入金に頼ることになった。

資料③ 傷害保健福祉関係の財政構造(平成16年度予算より)
手当  1203億円
措置費  427億円
支援費 3473億円
精神福祉 210億円
医療費 1040億円
その他  570億円

(月刊「ぜんかれん」特別号所収「『ぜんかれん』の皆様へ」2007年4月)
by open-to-love | 2007-05-27 22:44 | 全家連 | Trackback | Comments(0)
全家連の活動の報告

1.家族会の誕生
 家族会は、当初病院側の計らいで生まれた病院家族会が始まりである。1960(昭和35)年頃から、青森、茨城、千葉、東京等の地域を代表する大病院で徐々に家族会が開かれるようになった。
 地域家族会は、京都府と栃木県で先駆的な活動が実を結び、1962(昭和37)年から63(昭和38)年には県内で連合的な組織が生まれるまでになった。
 1963(昭和38)年、厚生省による戦後二度目の精神衛生実態調査が実施された。この調査によれば、精神障害者は全国に124万人おり、そのうち精神病者が57万人、知的障害者(精神薄弱)40万人、その他が27万人で、医療も指導も受けていない者が65%あった。精神病者に限ると、入院が必要な者28万人であるが、精神科病棟は14万床で、治療も指導も受けていない者53%であった。この結果は直ちに好評され、パンフレットの配布や新聞報道もされたが、関係者に注目されたに留まった。なおこの年、米国ではケネディ大統領が米国議会に「精神病及び精神薄弱に関する教書」を提示し、精神障害者の隔離収容策から地域ケアへの転換を国策とした。
 ところが翌1964(昭和39)年3月、ライシャワー米大使刺傷事件が発生、精神病院入院歴のある少年の犯行ということで、精神障害者に対する警戒感が一挙に高まり、わが国では監視を強める法改正を進める動きがみられた。
 これに対し精神医療界は反対運動を展開、人権侵害を指摘する新聞報道も現れる中、各病院で反対署名活動が始まった。東京、京都、栃木などの家族会も同調、署名活動に参加した。
 その結果、緊急的な法改正の動きは阻止され、精神衛生法の改正は精神衛生審議会に諮問されることになった。
 この運動の過程で家族会の存在が明らかになり、直後に開かれた日本精神神経学会総会でのシンポジウムに、急遽家族の代表が招かれる機会を得た。参加したのは発足したばかりの全国精神障害者家族会協議会東京部会会長の石川正雄氏で、家族の苦境と家族会の必要性を訴え、満場の聴衆に多大な感動を与えた。石川氏は元朝日新聞社記者で、厚生省の大谷藤郎技官らと家族会の全国組織をつくろうと精力的な活動をしていた人である。しかし、その後間もなく過労から急逝されて、深い信頼を置いていた大谷技官を大いに悲しませた。

2.家族会全国組織(全家連)の結成
 精神衛生審議会は、1964(昭和39)年7月、精神衛生法改正に関する中間答申を発表した。保健所や地方精神衛生センターの整備等による在宅精神障害者の指導体制強化や社会復帰施設の設置など当時としては画期的な内容が含まれていた。
 この答申案に対して、すばやく反応したのは、茨城・友部病院の家族会員たちであった。すなわち「全国精神障害者家族協議会茨城部会」の名で、精神障害者を監視、取り締る暴挙は止め、中間答申に沿う事項の実現に向けて、政府及び関係方面に陳情する署名を呼び掛けたのである。
 同年9月、厚生省は答申に基づき精神衛生対策費の概算要求を発表した。しかし、景気後退による財政難から新規予算の獲得は厳しい状況にあるとみられた。大谷技官からは、患者家族の切実な声が必要だ。各県の家族会を通じて全国的に議員に働き掛けるようにしなければ現状は打開できないと示唆された。
 この差し迫った状況に、友部病院の古川院長、永田医局員らは友部病院家族会会長の瀧山氏に、全国組織の代表として予算獲得等の陳情をする必要を説いた。意を決した瀧山氏は全国主要精神病院及び家族会に手紙を送り、全国組織(全家連)の結成を呼び掛けると共に、結成前に全家連名で活動してよいか同意を求めた。大方の了解を得た瀧山氏は、10月に開かれた日本精神神経学会・精神衛生法改正対策委員会に出席、家族会の現状と希望を述べ、精神衛生法の全面改正に向けて共に活動することを誓い合った。
 12月に入ると、「全国精神障害者家族連合会」として初めて厚生大臣への陳情を行い、瀧山会長、石川あき夫人、高山秋雄氏(鳥山病院家族会会長)ら代表9人は2千人が署名した要望書を提出した。
 同月下旬、予算折衝で全家連が要求していた内容が通らない報が伝わるや、瀧山会長、古川院長らは各家族会に決起を呼び掛ける電話を掛け、医療関係者と共に厚生省へ予算復活について統一陳情を行うことにした。当日は途中から雨が降る中、陳情団は厚生省、大蔵省にデモし、代表団は首相官邸でも会見をするなどして、予算復活に成果をあげた。
 このような中、全国組織・全家連結成の機運はいよいよ高まり、翌1965(昭和40)年、東京、茨城の家族会を中核として全国の家族、病院関係者など73人が出席して結成大会準備会が開かれた。そこで、全国組織の目的、会則、組織、運動方針、予算など結成大会で提案する内容について討議され、大会開催の準備に入った。
 同年9月4日、東京(新宿)・安田生命ホールに全国から500余人の家族と関係者が集り、結成大会が開催された。大会は第一部で全家連結成のための規約や役員が決定され、会長には瀧山氏が選出された。第2部では来賓を交え、家族の体験発表や大会の要請文確認などが行われた。こうして全家連の輝かしい一歩が踏み出されたのである。

3.全家連の活動と組織の発展
 発足した全家連は、事務局を友部病院に置いて直ちに活動に入った。年2回の全家連だよりを発行すると共に、翌年には全国家族会調査を行い、活動資金として100万円募金も開始した。事務局を東京の松沢病院に移転している。
 発足して3年目の1967(昭和42)年、財団法人の認可を得、初代理事長に瀧山氏が就任、事務局を東京・聖和病院に移した。
 翌1968(昭和43)年には、早くも月刊「ぜんかれん」を創刊、相談室も開設して本格的な事業の定着が図られた。同時に保健福祉施策に対する要望活動も動き出し、この年、医療費の10割給付の請願(3万5千人の署名)と中間施設設置の請願(5万人の署名)を行った。
 以後、全国大会の開催や福祉法を初めとする保健福祉施策推進の要請など活発な活動を続け、わが国の精神保健福祉の向上に大きな役割を果した。中でも全国の家族会を通じて行う家族のニーズ調査は、行政では得られない貴重な資料を提供した。また、制度のない中での作業所設置運動など、後の法整備を促す先駆的な活動もあった。それらのあらましは、14〜15ページの全家連の年表にて確認することができる。

4.本部ビルの建設
 家族の思いを込めた諸活動が徐々に功を奏し、精神障害者福祉を入れた法改正が進むようになり、1988(昭和63)年、精神衛生法は精神保健法と改正、施行され、初めて社会復帰施設建設が認められた。そうなると事業の拡大・活発化に対処できる活動拠点と全国のモデルとなる社会復帰施設を併せた、「全家連・全国精神保健福祉センター」構想が語られるようになった。
 そのような背景がある中、全家連常務理事で東京都の家族会連合会会長の中村友保氏から用地提供の申し出があった。「障害を持った娘のために用意した土地であったが、娘が急に亡くなったので全家連に寄付し、障害者のために役立てて欲しい」との趣旨である。種々検討の末、千葉県松戸市にある土地は売却し、全国の人が集り易い上野駅近くの土地を買い求めた(約4億円)。建物の建設資金は補助金、会員募金、寄付金、長期借入金等で確保し、その土地に地下1階地上7階のビルを建てた。建物の名称は中村友保、千恵子ご夫妻の名前から「恵友記念会館」とした。現在の全家連本部ビルである。全家連事務局、通所授産施設、小規模作業所、研究所等が入居し、「全国精神保健福祉センター」としての活動の本拠となった。

5.ハートピアきつれ川の建設(前半)
 精神保健法が施行され、各地に社会復帰のための施設が稼働し始めたが、厚生省の中で、「もう少し夢のある事業、例えば自然の中で障害者が働ける温泉付き保養所みたいなものができればいいなという構想」が持ち上がった。国の予算をつけたいと予算要求をしてみたが果せなかった。民間委託でやってみたいが、恵友記念会館建設で実績のある全家連で取り組んでみないかとの打診があった。
 全家連としてもこのような施設を望んだ経緯はあったが、膨大な金額の要る大事業なので、理事会では厚生省が全面的に支援してくれるならばとのことで趣旨に賛同した。
 夢のある事業は動きも速く、用地の候補が2、3挙がる中で、検討の結果、栃木県喜連川町の県有地に絞られ、有償の払い下げが実現した。地元での説明会を始める頃、温泉地で精神障害者が働いて社会復帰を目指す保養所の建設は、マスコミの注目を集め、1992(平成4)年には新聞やテレビで報道されるところとなった。
 住民の受け入れが進む一方で、多額の建設資金の確保には、当面、公益資金の補助申請とチャリティ事業での収益が期待され、全国10カ所で北原ミレイのコンサートが計画された。…

 ここまでが、全家連バラ色の半生。以後、暗澹たる展開となります。乞うご期待(?)(黒)

5.ハートピアきつれ川の建設(後半)

6.啓発活動の要務

7.補助金不正流用の発覚

8.新体制による対応

9.募金活動と返済・返還軽減の交渉

10.障害者福祉制度改正の動き

11.借入金返済・補助金返還問題
(月刊「ぜんかれん」特別号所収「『ぜんかれん』の皆様へ」2007年4月)
by open-to-love | 2007-05-26 22:26 | 全家連 | Trackback | Comments(0)