精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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カテゴリ:岩手大学術講演会( 21 )

一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…(21)

※講演会を振り返って。

 私はいつもながら、与えられた1時間に到底話し終わるわけのない長々とした発表文を準備し、かいつまんで説明して、「後はみなさん読んでくださいね!」となってしまったという、反省の多き講演会でした。私は講演のたび、こうして反省していますが、いつもこうなってしまって、すいません。
 さて、私はいつも精神保健福祉関係者対象の集まりで話していますが、今回はそうではなく、学生さんやフェミ関係者が参加されるせっかくの機会でしたので、いつもしゃべっている精神保健福祉とフェミとの連携の必要性に加え、森崎和江『東北幻想』を手掛かりに、近現代女性史と古代史との関係性も探ってみよう、という欲張りな内容としました。
 森崎が、戦前貧困のため海外に行き性をひさいだ女性「からゆきさん」について、その「底辺女性」としての過酷な現実のみならず「国家・民族を越える開放性・インターナショナルな感性」というポジティブな側面にも重きを置いた、との水溜さんのコメントに、なるほど、一条もそうだよなあ、などなど非常に勉強になりました。
 森崎が「からゆきさん」のポジティブな側面を描いているのと同様、一条においても「農村女性」は「底辺女性」でありつつ、単に「困ってる人」ではなく、土とともに生きるたくましい女性としても描かれています。さまざまに抑圧されつつも、力強さもある。例えば、一条が敬慕する「当三のばっちゃ」の生き方。
「底辺女性」の、ネガティブでもありポジティブでもあるという両義性。今後、もっと突っ込んで考えてみたいです。もとより、精神障害者は単なる弱者ではありません。図らずもそういう立場に置かれたからこそ、同じ苦しみにさいなまれる人に共感できる力があるのだし、だからこそ、その言葉は強くもあれます。
 さて、森崎も準拠していた「奥羽独立王国論」について、一概には否定できないことに留意しておきたい。この種の物語性があればこそ、専門家間のみならず地域住民の理解を得て、その希少性に世論が高まり、壊されずに残った遺跡もあったことでしょう。遺跡保存・復元整備について、一概に称揚もできない。地域住民の生活の利便性を度外視はできないし、ましてや復元整備とは、その地において太古から現在まで営まれてきた暮らしの中で、ある時代のそれ以外の時代に対する卓越性を恒久的に謳うこともである。この辺りについても、バランスよく考える必要性があると思いました。
 対話について。『北上幻想』における縄文~古代と近現代との対話の不在を指摘しましたが、これは森崎に限ったことではないと思います。例えば、縄文時代における自然との共生が現代に求められる、古代末~中世における平和希求の思想が現代に求められる、といった場合、果たして、近現代史を踏まえた上での言及か、あるいは、その現実を捨象した上での単なるキャッチフレーズか。その違いは大きい。
 また、講演後のフリートークでは「底辺」の定義をめぐって、講師と参加者の間で対話が開かれました。いい感じでした。翻って、じゃあ精神保健福祉とその外部とで、どんな対話が必要か、にパラフレーズしてみると、例えば精神保健福祉では「精神疾患」「精神障害」となるところを、例えば文学、社会学的には「狂気」とされる。相互の用語の含意の違いも、はなはだしいものがあります。これを、安易に言葉狩りに走ることなく、それぞれの含意するところの接点を探る、すなわち、まだまだ対話が必要だなあ~と思った次第でした。(黒田)
by open-to-love | 2010-02-11 23:07 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑲

3-2 書くこと・声を上げること/対話すること

 書き、声を上げ、自らの現実を可視化させる。その上で、対話を志向する。女性同士がつながるために。抑圧された者同士が手をつなぐために。そのために、森崎と一条から学ぶべき視点とは具体的にどんなことか。▽過去と現在▽女性と〝底辺女性〟▽中央(都市)と地方(農村)-という3項目について、2人の視点のいいとこ取りをして、相互補完的に、「対話の女性史」なるものを構想して、発表の締めくくりとします。

3-2-1 過去と現在との対話

 森崎は自身の来歴や思いと岩手・北東北の歴史風土との対話から、双方をイマジナティブに連結しましたが、岩手の近現代との間には断絶があった。縄文や古代とは対話してますが、近現代とは対話し得ず、むしろ拒まれ、終わっている。その断絶をつなぐために必要なのは、『幻想』の世界のみならず、実証的な研究の積み重ねというレベルで、縄文や蝦夷の独自性を過度に称揚するのではなく、国家の論理との相関関係の中で、冷静にその独自性と関係性を推し量ることが必要でしょう。
 ここで、大いに参考になるのが、古代史研究の第一人者八木光則さん(盛岡市)の提唱する「蝦夷社会の内なる発展と、それに対する国家の論理との相克」という、古代~中世史研究の新たな視座です。

奥州藤原氏の性格:独立政権説と国家枠組内説

独立政権説(高橋富雄・板橋源)
「征伐と忍従を強いられた古代蝦夷、彼らの自立と発展の結実としての安倍~藤原氏」

国家枠組内説(遠藤巌・大石直正・斉藤利男)
高橋説を内からの発展を重視しすぎた「奥羽独立王国論」として批判(大石直正)
「公権の行使者や中央に連なる者として、国家権力の枠組みの中で実権を握った藤原氏」

八木の提唱:「蝦夷社会の内なる発展と国家の論理の相克が必要」
(「平泉研究の課題」2008年7月12日、盛岡市西部公民館古代史講座)

 戦前の「野蛮な縄文」「国家への反逆者だった安倍氏」という見方の揺り戻しとして、戦後の縄文・蝦夷・安倍氏・さらには平泉藤原氏の独自性の強調は、東北人に元気を与えるがあまり、過度に過ぎた面がありました。森崎の記述にも、そんな時代背景が反映しています。それに対して八木さんの指摘は、過度に貶めるのでもなければ過度に称揚するのでもない、バランス感覚に優れた指摘と思います。ようやくこうした視点で研究できる時代になったともいえましょう。
 さらに、いかに「国家の論理と内なる論理」がせめぎあってきたかの検証は、ひとえに古代~中世のみならず、さらに近世、近現代へとつながらなければなりません。例えば、「婦人年」と「遠くで鳴る鐘」。そのためには、縄文~古代~近世~近現代研究者の間、それぞれと女性史研究者の間の対話も必要となります。
by open-to-love | 2010-02-11 22:13 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑳

3-2-2 女性と〝底辺女性〟との対話

 これは、私たちが一条や森崎の著作を読むことはもちろんですが、一条や森崎の取り組みにならい、〝底辺女性〟の声を聴き、代弁し、かつ〝底辺女性〟が声を上げるような取り組みを私たちが受け継ぐところから始まります。足元に目を転じれば、声を聴く機会はたくさんありますよ。
 例えば、盛岡ハートネットでは昨年末、第12回例会「自殺予防-私たちにできること」で、自殺未遂者の「声」を手掛かりに、精神科医と保健師の協力を得て、当事者と家族と関係機関と市民が対話(グループワーク)し、それぞれができることを考えるという取り組みをしました。ちなみに、手記を寄せていただいた未遂者4人は、いずれも女性です。〝底辺女性〟という言葉がそぐわなければ、いまだ不可視の現実の中で苦しむ人たちを(プライバシーに配慮しつつも)可視化し、その人たちの力で、例えば自殺という大きな社会問題に対し、真に実効性ある方策を考えていく。しかるべき枠組みがあれば、一歩を踏み出すことは可能です。かつて、その枠組みとは文集でした。

3-2-3 中央(都市)と地方(農村)との対話

 先に取り上げた『岩手の婦人―激動の五十年―』(1981年)を例に挙げましょう。この本は、国際婦人年がらみの岩手を知るのみならず、岩手の女性史の大きな流れをつかむ上で基本文献であり、私も多いに御世話になっています。行政の本にありがちな、いい面ばかり書くのではなく、戦前の農村女性の身売りなど、暗部も捉えている。しかしながら、一条の「遠くで鳴る鐘」については、一行も触れていない。ちなみに、この本では別の文脈で一条が登場します。

 二戸郡一戸町小鳥谷の一条ふみのように、ほとんど一人でこつこつと「むぎ」を編集発行している人もある。(第1章「岩手婦人の軌道」第1節「婦人と教育」)

 これだけ…。丸岡秀子らの一条の受け止めと違って、ずいぶんさらっとしたもんです。察するに、やっぱり、岩手では一条のことは取り上げづらかったんでしょうね~。あるいは、取り上げる価値がないと判断されたのか、ページ数の都合だったのか。ともあれ、ある時代をある視点で記述する際、その視点とは異質な視点をどう取り扱うか、は、永遠の命題であることでしょう。異質な視点を排除せず、それを中央の用語や概念の枠組みに押し込めず、それぞれを相克=相関関係の中で、バランスよく見て、双方のつながりに向けて対話の糸口を探ることが必要と思います。
 森崎は『北上幻想』において、自らの軌跡と、岩手や北東北の旅で感じた縄文、蝦夷、安倍貞任・宗任、百姓一揆、鬼剣舞…こうしたすべてを対話させ、「いのちの母国」としてイマジナティブに連結させました。あくまで『幻想』の領域ではありますが、私たちに美しいビジョンをもたらしてくれました。ならば次は、実証的なレベル、あくまで現実に根差した対話による、「列島を統合する側の論理=物欲権力欲システム」を乗り越えるビジョンの構築が求められている。そんな「対話の女性史」、みんなでやりませんか!

3-2-4 対話成立の諸前提:文集復刻の意義と展望

 「対話の女性史」が成立するためには、まず一条がどんなことを書いたのかを知る必要があります。そのためには、文集を復刻しなくちゃならないのです。
 文集復刻自体に意義はありませんが、将来的にどなたかが読んで、自身の問題意識に引きつけてなにがしかを感じ考えるならば、意義があります。展望としては、健康に留意し復刻を続けたいと思います。ご静聴ありがとうございました。

問い合わせ 携帯:090・2883・9043  E-mail: yukapyon@estate.ocn.ne.jp
盛岡ハートネットブログ「Open, to Love」 http://opentolove.exblog.jp/
by open-to-love | 2010-02-11 22:13 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑱

3-1-3 一条の視点の可能性と限界…「遠くで鳴る鐘」発言をめぐって

 一条の視点の可能性とは、「地方(農村)の現実に根差した抵抗」が今なおアクチュアリティーを持っているのではないか、ということです。私が冒頭に掲げた「ある精神障害者家族の事例」のような現実にみなさんが目をそむけない限り、かつて一条が「遠くで鳴る鐘」として端的に表した「抵抗」の視点は有効と思います。
 一方で限界はと言えば、それは一条にも原因があるでしょうし(言い方が厳しいですから…)、また、一条の発言が向けられた側にも原因があるんでしょうが、双方の間で、いまいち対話が成立していないことです。
 「遠くで鳴る鐘」発言の本意は、「…残されるたくさんの女たち―。婦人年を叫ぶとき。この生活の現実の場にも生きる人々との接点をどこに求めるのかも、実は重大な抜きに出来ぬ問題なのであることを忘れてはなるまい」(岩手日報)でした。ただ単に婦人年を批判するためではなく「婦人年を叫ぶ人と、残されるたくさんの女たちとの接点」を求めるがための「抵抗」でした。だが、それに対するレスポンスは、丸岡のようにきちんと受け止める人もいましたが、藤田のように「なんやかや文句付けないで行動計画読め」的な受け止めも。いずれ、この発言はその後、対話につながることはなく、結果としてはそれぞれが言いっぱなしに終わってしまいました。
 何より、今、一条の業績が忘れられつつあること自体が、最大の限界ですけどね。

3-1-4 一条の視点から森崎を逆照射すると?

 「男性/女性」という大きな二項対立に重なり合う、一条における「中央(都市)/地方(農村)」の二項対立。一方、森崎における「国家の論理/国家の論理の外部=いのちの母国」という二項対立。それぞれは、底辺女性へのシンパシーという点では通じ合うものの、ベクトルは異なります。底辺女性=農村女性の側から都市女性の論理を批判した一条に対し、森崎は女性を底辺女性ならしめる国家の論理の外部の論理を志向し、イマジナティブに連結することで、いのちの母国の論理を構築しようとしました。同じ岩手といえど、それぞれの視点から見える岩手像は、ずいぶん違う。
 共に対話を志向していたことには変わりないでしょう。ただ、一条は県北の農村に根を張り、そこを自らの原点=母国とし、その現実と共にあり、現実に縛られていたゆえ、その現実とあまりにかけ離れていた中央との対話が成立するには至らなかった。その点、森崎は出生地の外地に根を張っていたわけではなく、むしろ原点の喪失から出発し、母国を探して旅したがゆえ、一条より軽やかに、対話を志向した。その一つの成果が『北上幻想』だったのではないでしょうか。
by open-to-love | 2010-02-11 22:12 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑯

2-4 森崎と岩手

2-4-1 森崎にとっての旅…国家の論理の「外部」へ

 ヒントになるのが、次の記述。

 こうして坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて以来の国史の年表と、そして私が小学校で習った「衣の館はほころびにけり」の蝦夷征伐につながる小学校唱歌までの、国史と呼んだ史上時間と空間とを、私は戦後の生き直しの旅でも、そして子育て自分育ての日常の炊事場でも、くりかえしくりかえし往来してきた。「衣の館はほころびにけり」の前九年の役・後三年の役の安倍伝承は、唱歌で習っただけではない。神湊の夕風に、先年ともに吹かれた朝鮮での女学校時代のクラスメートの韓国女性と、「神のみあれとは、天皇霊の生れることであり、天皇霊は死すことなく、年ごとに生れる不滅の神霊である」と、南太平洋での若者の自爆の報の時代に、心身統一を命ぜられて瞑目する教室で天皇霊への随順として耳にタコの共通の仔牛となった。その神霊の国の古代史として蝦夷征伐の、とどめの歌の「衣川の館」である。その衣川が私にとって聖地めく内陸の地となったのはなぜなのか。(p105)

 戦前、皇国史観が刷り込まれた幼少期、それでもどこか引っかかった「衣川の館」。それが、森崎が戦後、岩手をイデアライズする契機となったようです。なぜか。皇国史観=賊軍安倍氏という見方を押し付けられつつ、その論理から異質な、安倍氏へのシンパシーをうかがわせる「衣川の館」の挿話に、「賊と呼ばれた者の無縁さへ我が心を託した庶民の思い」を感じたのではないでしょうか。
 それまで「地上の権威とは無縁な生き方に出会いたくて」海辺を旅していた森崎は、「聖地めく内陸の地」へ。すなわち、国家の論理の外部へ。

 …旅を重ねながら明日を探す。いのちの母国を。今日この頃のあふれる物たちの背後に。列島統合史の流血、他民族侵略の戦乱、今なおひびく少数民族や女・子どもへの暴力等々の物欲権力欲のシステムから、大きなカーブを描いていのちの母国を探したい。そのいのちへの旅めく、あの女人土偶。
 …ああ、出会えたよ。この列島の先行文明に。あの建国神話とは異質の、いのちの母国に。国のために産み、国のために死ぬことを、くりかえしくりかえし他民族の少女と共に求められ、犯され、殺された近代国家建国期。その歳月の間信ずることを求められた古代建国神話。だからこそ帰国して探し求めたのは消し合い殺し合うことのない精神の山河でした。
 …5500年前の男女の心からの発信が、今聞こえます。対立殺傷のシンボルとしての鏡や剣などが出土する同じ列島の、北海へとつづく大地の中から。ことことといのちの音がする。(p122~5)

 森崎の旅は物見遊山ではなく、鋭敏なまなざしで時間と空間を行き来し、それに自らの来歴を重ね合わせることで言葉を、思想をつむぐプロセスでした。
 時間をめぐる旅=戦前、外地の小学校で皇国史観を、国のために産み、国のために死ぬことを刷り込まれた森崎。戦後、そこから解放され、生き直しの旅。目指すは「いのちの母国」。
 空間をめぐる旅=物があふれ、女子どもへの暴力等々の物欲権力欲のシステムのただなかにあって、消し合い殺し合うことのない精神の山河、「いのちの母国」を探す旅。
 空間のみならず、時間をもめぐる旅の途上で森崎が訪れたのが岩手でした。そして、その地は、歴史上の諸事象の舞台であるのみならず、歴史が今に生きる舞台でもあったのでした。

2-4-2 森崎にとって岩手とは

 そして、森崎は、三内丸山遺跡出土の板状女人土偶の導きによって、岩手・北東北の地に「いのちの母国」を見出し「大地の中からことことといのちの音がする」のを聴いたのでした。
 定式化しちゃうと味気ないですが、森崎は国家の論理、男性性の原理に立脚するともいえる
 
古代建国神話=列島を統合する側の論理=他民族侵略=女子どもへの暴力等々の物欲権力欲システム

 に対し、女性性の原理に立脚する、と言い切っていいのか分かりませんが、少なくとも女子どもへの暴力等々の物欲権力欲システムとは別種の論理に貫かれた「いのちの母国」と、

縄文文化=蝦夷=安倍貞任・宗任=侵略された側の論理=百姓一揆=鬼剣舞

 との接点を探し求め、岩手の地に見いだしつつ、外地での少女時代、「無名通信」発行と座折、「からゆきさん」との出会いといった自らの軌跡を、その地に重ね合わせたのでした。

2-4-3 森崎の視点から岩手にいる私たちが学ぶこと

 本書から学ぶべきは、まずは、歴史や伝統をきちんと継承していることの大切さです。森崎がこれほど岩手を舞台にイマジネーションを飛躍させ、著作にまとめられたのは、埋蔵文化財関係者や民俗芸能の担い手らが、それぞれの役割を果たし、歴史を大事にしていたからこそでしょう。
 具体的には、記録保存=主として考古学関係者間だけの情報共有から、現地保存・史跡としての整備活用が進められていたからこそ、旅人である森崎はその地に立ち、往古へと想像力を飛翔させることができた。考古学者ならともかく、素人が、まして旅人が現地に立ち、往時に思いを馳せる上で、現場がなかったら詩情が沸かない。まして、そこにビルが建ってたりしたら、詩情もクソもない。現地保存や復元整備がなされていたからこそ、旅人の眼に留まったのではないか。
 これって、森崎に限りません。思い当たるのは、大門正克著『日本の歴史 第10巻 戦争と戦後を生きる』(小学館、2009年)。この本には、戦後の和賀地方の取り組みが数多く取り上げられていますが、それには、当時の取り組みが今なおきちんと受け継がれているからこそでした。旅人なり研究者なりが今はもう何もないところから再び歴史を掘り起こすのは容易ではありません。自らの地域の取り組みを、今後なにがしかの研究に反映される可能性を秘めている取り組みとしてきちんと伝えられているか=「研究準備」されているかどうか。これがあるなしで、その後の展開が大きく変わるのです。
 加えて、相澤さんら「悪ガキご一同さま」の存在。森崎のみならず、いきなり異郷を訪れ、見て回ろうと思っても、一人ではなかなか大変です。森崎に共鳴する受け入れ側がいたからこそ、これだけの情報を岩手から得ることができたのではないでしょうか?
 私も、一条のことなどを知りたくて岩手を訪れる人の案内役にならなくちゃと思っています。
by open-to-love | 2010-02-11 22:11 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑰

3- 森崎と一条 対話の女性史に向けて

 キーワードは「対話」。それは、お互い言いっぱなしでもなければ、喧嘩でもない。別個にカテゴライズされてきたり、接点がなかったり、そもそも片一方が存在自体を知られていなかったりしたのが結び付いたり、接点を求めたりして、一面的な理解を超えて相互理解を深めることです。

3-1 2人の視点の可能性(現在的意義)と限界

 ここで、いよいよ森崎と一条を比較対照してみましょう…といっても私は森崎についてそんなに知りません。森崎については、あくまで『北上幻想』における森崎の視点の可能性と限界、ということでご容赦下さい。

3-1-1 森崎の視点の可能性と限界…『北上幻想』をめぐって

 森崎の視点の可能性は、対話の可能性、あるいは対話への可能性への志向にあります。本書はひとえに森崎の内面と岩手の歴史風土との対話のみならず、女性史と歴史との対話でもあります。歴史研究は従来、おそらくは今も男性中心だけに、いざ女性史をやろうとすると、女性の歴史、女性がいつどこでどんなことをしたのかの掘り起こしが中心。これまた戦前と戦後の縄文・蝦夷観の変遷と同様、致し方ない面もあることでしょう。でも、そんな中で『北上幻想』のように、いわゆる女性史の枠を飛び出して、岩手・北東北の歴史と対話しようという試みは、実に意義深いと思います。
 一方、森崎の視点にも限界があります。それは下記のように、本書に刻まれました。

 これまでの永い歳月の間に北上山地へも、いく度となく立ち寄った。東北や北海道での雑多な用の折には、せめて一夜の宿であれ岩手県に足をのばした。北東北独自の雰囲気が北上川の両岸の高地や盆地やいく筋もの支流のひだひだに籠もったまま、今につづく側面があることに心ひかれる。多様な地勢のそれぞれの場から上空にかけて立ちのぼる風の渦のように、山ひだひとつ越した集落どうしが、ことりと異質に感じられる。重なる山並の中の、ちいさな峠、そのあちらとこちらに住みわけあうように異質な風が吹く。思わず心が立ちどまる。じっと耳をすませてしまう。(p142)
 …岩手県は、後年「からゆきさん」を心に抱く種子をまいてくれた地である。
 が、その山国が帰国者の感性では解きがたい。近代への開国を個人の精神に求めた先見者たちがはやばやと故郷を出払ったかと思うほど、集落が固い。また性差が固い。山間の多様なオシラサマや諸流派のかくし念仏やアラハバキ神、そして大和朝成立前後からの地下資源地等々の、固有な伝承を内にたたえて互いに無縁である。なぜなのだろう。何があるのだろう。(p146)

 森崎にとって岩手は「いのちの母国」でありながら、集落が、性差が固い。それがなぜか分からない。そのことについて森崎は「帰国者の感性」ゆえ、としています。その妥当性はともかく、分からないことをきちんと分からないと書くのは、誠実な在りようと思います。

3-1-2 森崎の視点から一条を逆照射すると?

 すると、おのずと、一条が見えてくる。すなわち、集落も性差も固い山国にあって、故郷を出払うことなく、個人の精神の自立を模索したのが一条ではなかったか。その模索の積み重ねこそが『むぎ』ではなかったか。
by open-to-love | 2010-02-11 22:11 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑮

2-3-2 歴史・地域史研究の変遷:弥生から縄文へ

 かつて、縄文は「未開」「野蛮」といったイメージで語られ、日本の歴史は稲作=弥生から始まるとされてきました(柳田国男)。そんな縄文観が一変したのは、三内丸山遺跡の発見が大きい。「芸術は爆発だ!」の岡本太郎の活躍にも、さらには、哲学者梅原猛や歴史学者高橋富雄らの論考に負うところも大です。

 「古い日本の文化、いってみれば日本の深層を知るには、縄文文化を知らねばならない。縄文文化を知るには、東北の文化を知らねばならない」(梅原『日本の深層 縄文・縄文文化を探る』1983年)

 「ヤマト日本史においては政治がつき、文化はつるところの未開日本が、日本列島における最初の日本文化の時代には、その頂点をなしていた。縄文日本では、東日本が中央日本であり、カメガオカ(青森県つがる市の亀ケ岡遺跡・縄文時代晩期の亀ケ岡式土器で知られる)はそのミヤコだった。わたくしは、日本列島におけるいかなる意味においてであれ、具体的な地名に結んで語りうる統一日本の最初の名として、このカメガオカの名をあげる。縄文日本に代わって弥生日本の時代になって、ヤマトの名が、第二の統一日本の名になるのである」(高橋『もう一つの日本史 ベールをぬいだ縄文の国』1991年)

2-3-3 歴史・地域史研究の変遷:皇国史観から奥羽独立王国論へ

 前九年合戦研究史:近代天皇制の下での「皇国史観」においては、王権を守るために北方の凶属安倍氏を滅ぼした源氏の〝戦功〟が、東アジア近隣諸国への外征の先駆をなすものとして高く評価された。…この戦いを東北地方側の視点から問い直そうとする動きは、戦前までは少なくとも水面下より姿を現すことはなかったのである。
 昭和26(1951)年刊行の『盛岡市史』第2分冊では、…安倍氏は海陸産物の交易で得た多大な財力と住人からの信望を足掛かりに成長した在地豪族で、戦いに敗れたとはいえ源氏による謀略で冤罪を着せられた貞任を中心に、一族は離反者を出すことなくよく戦い抜いたとするそれまでにない新たな史的評価がみられる。…その後、1950年代より70年代までは板橋源・高橋富雄両氏を中心にこの方面の研究が精力的に推進され、90年代以降になると『陸奥話記』の史料的性格についての認識の深化、新史料の発見、考古学方面における新知見の増大などを契機としていよいよ本格的研究が盛んとなっていく…。(樋口知志「前九年合戦をめぐる二、三の問題」 2009年7月25日、盛岡市西部公民館古代史講座)

 安倍・清原氏の出自について:
 蝦夷末裔説「奥生えぬき、蝦夷の伝統につらなる者が支配する。それが安倍の正義である。安倍の正義につらなる者が、その王者の地位を継承する。これが北方古代の論理である」(高橋富雄『平泉 奥州藤原氏四代』教育社歴史新書、1978年)
 軍事貴族血脈説「鎮守府将軍・秋田城城司として赴任していた安倍氏・清原氏と現地のエミシ系有力者一族の女性との間に生まれた安倍某・清原某」(樋口知志「『奥六郡主』安倍氏について」『歴史』96輯、2001年)
(八木光則「兵(つわもの)・武士としての安倍・清原・藤原氏-前九年合戦から文治奥州合戦まで」2009年12月18日、盛岡の歴史を語る会講演)

 縄文復権と同時に、戦前の皇国史観から戦後の「奥羽独立王国論」への転換もありました。戦前は源氏=大日本帝国軍、安倍氏=賊軍、とパラフレーズされましたが、戦後民主主義の中、皇国史観も解体。そんな中、高橋富雄の「奥羽独立王国論」=安倍・清原氏蝦夷末裔説が登場したのでした。考古学研究者八木光則さん(盛岡市)のご教示によると、その論は「東北地方の独自性を強調し、東北人に元気を与えてくれる説として大いにもてはやされました。縄文文化の称揚にもどこかつながっているのではないでしょうか」とのことです。
 森崎の記述も、こうした縄文=蝦夷=安倍氏復権のムードのただ中にあります。

2-3-4 案内人の存在も大きい:相澤史郎さん

 私が「悪ガキご一同さま」と呼ぶ北上市の案内の方々はみなさん多忙である。…ご案内の方々は現地が故郷の現役世代で多忙。そしてそれぞれ専門分野を異にし一国一城の主めく。そして親しい友人どうし。共通点は肩書に依存せず、の気骨にあるのが初対面の折にびしびしひびいた。
 うれしくて以来あちらまかせの風土めぐり。…こうして四国ほど広い岩手県が私にも尽きせぬ唱和の側面をひろげはじめる。雪深い樹林の標高に伴う植物群の多様さに、この風土を愛し抜いた山の人や野の人の長い生活史がみえそめる。逆賊の俘囚荒蝦夷を自称する人びとの背後を染めるつづれ刺し。
 こうしたご案内を受けながら、つい先般、はっと心を打たれ、以来いのちの母国探しの私の長旅に灯がともった。(p159~160)

 その「悪ガキご一同さま」の一人が、相澤史郎さん(神奈川県在住)。『北上幻想』には、その詩集『夷歌』(オノ企画)から2編を収録。森崎は「方言詩が適確に、岩手のとある風紋を語る。この地の荒蝦夷の心を語る。方言が直接海へ漕ぎ出す時代。異質の文明へ向かって。手をとり合おうと」(p154)と評しています。
 なお、相澤さんは「化外の会」の編集同人で、季刊「化外」を刊行(創刊1974年冬)。同人は斎藤彰吾(北上市)、南川比呂志(水沢市)、佐藤秀昭(同)、伊藤盛信(和賀町)、会友は岩間正男(北上市)。私は本講演のため、小原麗子さん(北上市和賀町)にさまざまご教示いただきましたが、その中で相澤さんを紹介いただき、手紙を出したところ、早速返信いただきました。相澤さんからの手紙の一部を紹介させていただきます。

 「(文集について)以前から草の根運動のように、岩手の各地にこのような動きがありましたが、いつの間にか消えておりました。私をふくめて昭和一桁代は引き継げなかったように思います。…森崎さんのこと、私は二十年位のお付き合いですが、やはりすばらしい女性だと思っています。北上にも一度お呼びして対談をしたこともありました。…以前から岩手とは、煙山専太郎にからんで来ていたようですが、私たちと付き合うようになって、以後はなかり訪れておりました。その結果が『北上幻想』と思います。できればもう一度お呼びしたいと思っています。一条さんは県北、森崎さんは韓国、共通点は女性とみることができます。…」
by open-to-love | 2010-02-11 22:10 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑭

2-3 『北上幻想』における森崎の記述の諸前提

 本書における森崎の縄文観、蝦夷観は、鋭敏ではあっても、必ずしも独創ではありません。彼女の目に映る岩手の風土と歴史とは、時代に規定されたものであり、かつ、彼女の視点そのものも、その時代ならではの岩手の風土と歴史の受け止め方の延長上にありました。その辺を探ってみたいと思います。

2-3-1 埋蔵文化財保護行政の変遷:歴史の可視化へ

 1972年より本県でも顕在化した「発掘調査における緊急発掘調査主体の状況」は基本的には変わっていないが、1988年以降の20年間には次のような新しい傾向が見られた。

 記録保存から現地保存へ 記録保存を目指す緊急発掘調査の対象とされた遺跡であっても、川原毛互窯跡以降、その内容の重要性によって現地保存される例が散見されるようになった。これは70~80年代とのもっとも大きな違いである。
 遺跡整備・活用 柳之御所や御所野遺跡など保存された遺跡が国や県の史跡に指定され、史跡公園として復元整備される例も増えてきた。史跡の学術的価値を解明し、その成果を地域住民の生涯学習の場としても活用するという方向性が明確になっている。史跡公園では様々なイベントが開催されたり、各種のボランティア活動が展開されるなど、住民参加型による運営が増加してもいる。
 おわりに 緊急発掘調査の減少は様々な「悪影響」を及ぼしているが、近年まで常態化してきた、調査に追いまくられる状態が「改善」される側面があるのは事実である。即ち、従来十分ではなかった「普及・啓発」活動に力を注げるのである。生涯学習社会下にある21世紀において考古学・埋蔵文化財が生き残る道である。(相原康二「岩手考古学会20年の回顧 1988~2008年」(2009年2月28日、岩手考古学会設立20周年記念大会基調講演)

 記録保存とは、開発に伴う緊急発掘のケースで、記録=発掘調査報告書としては残るが、現場は道が通ったり建物が建ったりして壊されてしまいます。現地保存は、その遺跡が貴重なゆえ、壊されずに遺跡そのものが保存され、さらには樺山も三内丸山も、本物は地中に眠っていますが、地上に配石遺構や竪穴住居跡や掘っ建て柱建物跡が復元され、史跡公園として整備されています。
 文中から、森崎が岩手を訪ねたのは1980年代から20年間と考えられますが、それはまた、ちょうど、岩手でも全国でも現地保存や遺跡整備・活用に向けた動きが進んでいる時代でした。
by open-to-love | 2010-02-11 22:09 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑬

2-2-2 安倍貞任・宗任

 本書で再三取り上げられているのが、安倍貞任・宗任についてです。安倍氏は、鎮守府胆沢城の律令体制が崩れた10世紀後半ごろに台頭し、奥六郡(北上盆地)を支配した在地の豪族。安倍頼時の時代に勢力を拡大したことが朝廷を刺激し、前九年合戦(1051~62年)が勃発しました。貞任(1019~62年)は頼時の次男、宗任(生没年不詳)は三男。合戦当初は安倍氏が優勢だったのですが、出羽清原氏の助勢を得た源頼義に敗北しました。貞任は厨川柵(盛岡市)で敗死し「死後は地元の人たちから神にまつられ長く尊崇された」(『岩手百科事典』)。宗任は厨川柵の敗戦後に降伏、伊予(現・愛媛県)、のち大宰府(福岡県)に流されました。
 森崎が安倍氏に関心を持ったのは、北陸や九州で宗任の墓と行き会ったことがきっかけでした。

 若狭(福井県・黒田注)の小浜の羽賀寺でのこと。…安倍氏の墓がある。庭の高所に。しっかりと、大きな。あの奥陸の国の。安倍貞任・宗任の名や前九年の役や後三年の役、そしてそれら攻防以前の蝦夷征伐期のながい世紀が心を走った。(p91)

 安倍宗任の墓が鐘崎(福岡県宗像市・黒田注)の地先の海の大島村にあることを、地元の方から聞いていたのだ。…大島まで連絡船が出ているのである。その島に古代陸奥国の将、安倍宗任の墓があるのだ。
 その墓の主は、この列島の国史上に蝦夷と記され賊軍討伐の水軍陸上軍をくりかえし大和から送り込まれた北東北の住人。生き直したい私が夢みる母国の基層をながれるいのちの物語りとして、沢吹く風のように語り伝えられてきた安倍族の一人である。海人族の先人たちと呼応する古代の積雪の山嶺に生きた、この列島の先人。(p102)

 こうして坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて以来の国史の年表と、そして私が小学校で習った「衣の館はほころびにけり」の蝦夷征伐につながる小学校唱歌までの、国史と呼んだ史上時間と空間とを、私は戦後の生き直しの旅でも、そして子育て自分育ての日常の炊事場でも、くりかえしくりかえし往来してきた。「衣の館はほころびにけり」の前九年の役・後三年の役の安倍伝承は、唱歌で習っただけではない。神湊の夕風に、先年ともに吹かれた朝鮮での女学校時代のクラスメートの韓国女性と、「神のみあれとは、天皇霊の生れることであり、天皇霊は死すことなく、年ごとに生れる不滅の神霊である」と、南太平洋での若者の自爆の報の時代に、心身統一を命ぜられて瞑目する教室で天皇霊への随順として耳にタコの共通の仔牛となった。その神霊の国の古代史として蝦夷征伐の、とどめの歌の「衣川の館」である。その衣川が私にとって聖地めく内陸の地となったのはなぜなのか。(p105)

 安倍貞任は平安時代の北端、陸奥国の豪族。前九年の役で、源義家の軍勢に攻め込まれて衣川で防戦。厨川の柵で敗死した。つまり西暦1000年代の初めごろまで陸奥国を統治していた一族の長である。国史上では逆賊・俘囚の長と呼ばれた。民間に数多くの物語として伝えられ伝説的な人物となった。私など戦前の外地の小学生は小学唱歌で歌った。朝廷の命を受けた源氏の大将八幡太郎義家から衣川の館に攻め込まれて敗退。その折に義家が「衣の館はほころびにけり」と呼びかけたところ「年をへし糸のみだれのくるしさに」とふりむいてこたえた。日本の軍人は昔も今も文武をたしなむのだと聞いた。その後二・二六事件のニュースが新聞に出ていたのを覚えている。歌ったあと校庭で雪合戦をして遊んだ。真冬の青空だった。

 …こんなぐあいに庶民が日常の中で家族や仲間たちと歌ったり演じたりしながら伝えた人物像は数かぎりなく残っている。その中には賊と呼ばれた者の無念さへ、わが心を託してきた人びとも少なくない。

 筑前宗像郡大島村の、宗像神社中津宮のそばに建つ安昌院に、宗任伝承があるのはなぜだろう。
前九年の役で捕虜となった宗任ら五人は、源頼義、義家の父子に率いられて1064(康平7)年京へ向かった。が朝廷によって京中に入れられずに伊予国へ流された。『筑前国風土記』には宗任には三人の子があり、長子は肥前松浦へ渡り松浦党の祖となった。次男は薩摩へ渡った。三男は筑前大島へ渡りこの島にとどまった、とあるという。が、しかしまた別の伝承や記録もあって、伊予国へ流された宗任たちは本国への逃亡を計っていたとの理由で、1067(治暦3)年に大宰府に再配流、と記した書もある。さらには江戸期に到ってもなお、「衣の館はほころびにけり」「糸のみだれのくるしさに」という古戦場での攻防への庶民の思いはふくらみつづけて、後三年の役(1983年)が起こり八幡太郎義家が奥陸へ再度出陣することになった折に、義家は自分のもとでつかえていた宗任を筑紫へ下らせて領地を与えたと『前太平記』にあるという。
 こうして奥陸の住民が九州へ移住した記録は宗任伝承だけでも、なお諸方にある。それは宗任に限らない。集団移住を命ぜられて移り住んだ陸奥国出羽国の民は九州筑紫に大量の数として記録が残っている。『続日本記』にも。
 そしてまた陸奥をはじめ東北、北東北へも大量の諸方の民が移された記録が少なくない。当時のアジア他民族の集団も。私としてはついそのほうへと心が傾く。(p158)

 ちなみに、「衣川の館」(「衣のたて」)は、鎌倉期の説話集「古今著聞集」の「源義家、衣川にて安倍貞任と連歌の事」にあります。
 前九年合戦終結間近の1062(康平5)年、衣川から退却する貞任を呼び止めた義家が、衣川の館が落ちたことと、衣の縦糸がほころびかけたことをかけて「衣のたてはほころびにけり」と呼び掛けた。振り返った貞任は「年をへし糸のみだれのくるしさに」と返歌。義家は感じ入り、弓につがえた矢を外した…。この歌は語り継がれ、新渡戸稲造「武士道」で紹介され、文部省唱歌にもなりました。

2-2-3 鬼剣舞

 「大島村の宗任伝承へと見えがくれにつづいている、北からの文化を考えさせる」伝統芸能(p159)として登場する鬼剣舞。北上地方に伝承されている民俗芸能で、広くは念仏を唱えながら舞う念仏踊りの一つで、恐ろしげな鬼の面をつけて踊るところから「鬼剣舞」と呼ばれています。
岩崎鬼剣舞の享保17(1732)年の「剣舞由来録」によると、大宝年間(701~704)に修験山伏の祖役の行者が踊った念仏踊りに始まり、大同年間(806~810)に出羽羽黒山で舞われ、その修験山伏によって広められ、康平年間(1058~65)には安倍貞任・正任がこの踊りを好んで領内に勧めたそうです。剣舞は「剣の舞」の語が当てられていますが、その語源は修験者(山伏)が用いる呪術の一つで、悪いものを踏み鎮め、邪気を払う行い「反ばい(へんばい)」に求められると言われています。(北上市立鬼の館・展示解説)

 鬼剣舞は鬼ではない。それは舞踏の勇壮さが伝えるように救済道の仏。おそらく北東北の諸地方に残る民俗芸能の多くには、非道な列島統合史へ対する、地元の地霊山霊の憤怒の声々が鬼へと象徴されていることだろう。そしてまたその発祥時の歳月や成熟のいく世代を経つつ、地域性を越えて人間救済の道をたずねるものへと自問をはらみながら育っているのだろう。その代表的な一つだと、初対面の鬼剣舞を思う。(p168)
 …私は旅のあの夜、鬼剣舞の休息の折や、また宿まで送っていただきながら聞いたことを心に辿る。…この鬼柳地区は盛岡藩当時の百姓一揆で地元農民を救った。一揆指導者は打首獄門。重なる重税や飢えに耐えた記録もある。それらの精霊供養が背景にあると思っている。等々。(p170)
 私はあの脱ぎ垂れがひるがえった瞬間、あ、と絶句。鬼剣舞の祈念の鋭さと華麗さが抱いている世界の思わぬ深みに心がふるえた。あ、あれは、うぶめ鳥。ひらりと、心に三内丸山の女人土偶が走った。

 ここにおいて「非道な列島統合史」に対置される系譜として、縄文~蝦夷~安倍貞任・宗任~百姓一揆~鬼剣舞がイマジナティブに連結されます。
by open-to-love | 2010-02-11 22:08 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)
一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑪

2- 試論:森崎和江『北上幻想』と岩手について

 さて、ここは岩手ですし、せっかく森崎和江を研究されている水溜真由美さんもいらっしゃることですし、森崎が岩手について数多く言及している著作『北上幻想』(2001年、岩波書店)を取り上げてみたいと思います。本書における森崎の視点を掘り下げ、岩手を内側から見つめていた一条と、旅人として岩手を訪れ、見つめた森崎の視点をクロスさせることで、相互の視点がより一層明らかになるのではないかとも思います。

2-1 森崎和江について

2-1-1 森崎の半生と記録活動

 水溜真由美さんにお任せします…というわけで、下記、レジュメより抄録させていただきます。

 森崎和江とは:詩人・思想家。1927年朝鮮慶尚北道大邱府に生まれる。父親は教師。1944年進学(福岡県立女子専門学校)のため帰国。1947年父の故郷である久留米に転居。1949年詩誌『母音』同人になる。1958年谷川雁と共に中間に転居、『サークル村』の運動に参加(~1960年)。1968年戦後初めて韓国を訪ねる。1979年宗像市へ転居(現在に至る)。

 女性交流誌『無名通信』の発行(No.1~20,1959.8~61.7)
 ウーマン・リブを先取りする先駆的な創刊宣言「わたしたちは女にかぶせられている呼び名を返上します。無名にかえりたいのです。」

 『サークル村』(1958.9~1961.10)の運動の経験。各地に広がる草の根的な労働者の文化運動が基盤。底辺の労働者の視点、各地の労働者のネットワーク化

 1958年より森崎は谷川雁と共に筑豊炭田に位置する中間に居住、元女坑夫の肉声を聞き書きにまとめる。『サークル村』連載後、『まっくら――女坑夫からの聞き書き』(理論社、1961)刊行

 『からゆきさん』(朝日新聞社、1976)
 からゆきさん=戦前貧困のため海外に出稼ぎに行き性をひさいだ女性たち
 最底辺に位置したからゆきさんの過酷な人生とからゆきさんに対する差別
 国家・民族を越える開放性・インターナショナルな感性

2-1-2 森崎と一条の似てるところ

 森崎は1927年生まれ。一条は1925年生まれ。ほぼ同時代を生きている女性。森崎は『無名通信』、一条は『むぎ』と、それぞれ文集(ミニコミ)を発行。森崎も一条も二重性を生きた。つまり、森崎は女性であり、外地の出自。一条は女性であり、農村の出自。ともに〝底辺女性〟へのシンパシーがある。何より、森崎も一条も、実にいい文章です。
 ちなみに、森崎と一条の直接の面識はないようです。本論にあたり、一条に「森崎和江と会ったことある?」と聞いたら、「盛岡に講演に来たっけがな。オレ、聴きに行ったかもしれないな。でも、忘れた(笑)。オレ、ここいら(県北の開拓地)で留まってて、『からゆきさん』まで行ってないもんな」とのことでした。

2-1-3 森崎と一条の似てないところ

 森崎は岩手など各地を旅して歩き、著述対象とした地域も、テーマも、時代も幅広い。一方、一条は岩手県北の一戸町に生まれ、時々都会には行ったものの、基本的にその地に根差して生き、その現実を繰り返し書きました。
by open-to-love | 2010-02-11 22:07 | 岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)