精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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カテゴリ:社会福祉士会フォーラム( 13 )

「共生社会フォーラム」SSCM藤原さん発表

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by open-to-love | 2009-12-21 21:48 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)
社会福祉士会盛岡ブロック主催
「共生社会フォーラム~心の病をもつ人たちを地域で支える」
(2009年12月20日、盛岡市大通リリオ)
提言者:黒田発表(盛岡ハートネット事務局)

◆盛岡ハートネットについて&ソーシャルワーカーに期待すること
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◆盛岡ハートネットとは…
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◆会則はないけど…4つのルール
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◆第1回例会
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◆第2回例会
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◆第3回例会
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◆第4回例会
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◆第5回例会
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◆第6回例会
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◆第7回例会
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◆第8回例会
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◆第9回例会
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◆第10回例会
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◆第11回例会
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◆第12回例会
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◆なぜ盛岡ハートネットをつくったか?
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◆当事者や家族と最もつながりやすい仕組みは?
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◆盛岡ハートネット事務局の実際
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◆「お金がないから何もできない…」は本当か?
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◆盛岡ハートネット例会テーマ設定への流れ
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◆ニーズをどう反映するか?
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◆ソーシャルワーカーに期待すること…先人に学ぶ①
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◆ソーシャルワーカーの課題…先人に学ぶ②
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◆「べてるの家」向谷地生良さんの苦労…先人に学ぶ③
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◆ソーシャルワーカーとは、単に社会福祉士と精神保健福祉士の総称ではない
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◆岩手にソーシャルワーカーはいるか?
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◆北川明子さん&キララの「共生社会」への取り組み
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◆「仕分け」られないためにどうすればいいか?
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◆ハートネットもソーシャルワークでありたい
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◆ご静聴ありがとうございました
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by open-to-love | 2009-12-21 10:47 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)

精神保健福祉士の仕事

精神保健福祉士の仕事

◇医療機関◇
 医療機関で精神保健福祉士(以下「PSW」)が担う業務は、単科の精神科病院、総合病院の精神科、精神科診療所、医療機関併設のデイケアなど、配属先によって違います。しかし、精神障害者の生活を支援する立場であり、医療と地域生活の橋渡しをすること、常に権利擁護の視点を持つこと、医療機関にあっても治療を担うのではないことは共通しています。
 これらの活動に関連して、主治医や看護師、作業療法士や臨床心理士など、機関内の他職種とのチーム医療を展開します。精神保健福祉士法には他職種との連携を保つことが義務づけられています(精神保健福祉士法第41条)。
 なお、PSWは医療職ではありませんので、医師の指示によって業務を行うものではありません。ただし、「主治医がいれば、その指導を受けること」もPSWの義務として定められています(精神保健福祉士法第41条第2項)。つまり、主治医の意見を聞き、指導を受けますが、PSWとして独自の専門的な視点に基づく判断と、それによる支援を行う職種となります。また、病院の外の他機関との連携による援助活動を展開する視点も必要です。

◇さまざまな生活支援施設◇
 社会復帰施設などでは、その設置目的によってPSWの業務も幅があります。
 日常生活訓練をする施設では、家事などの具体的な基本動作を一緒に行い、助言します。就労前訓練や作業を行う目的の施設では、作業を通して社会参加することを支援します。また就労前のトレーニングや、実際の就職活動に関する助言、職場への定着のための支援などを行います。
 地域生活の支援を主目的とする施設では、利用者に電話や対面、訪問による相談や日常生活にかかわる各種サービスを提供します。また、各種情報の発信や、居場所提供も行います。関係機関相互の連携の中心となり、ネットワークを活用して精神障害者のよりよい生活を支援する立場でもあり、ボランティアの養成や身体・知的障害者や高齢者、児童など地域住民を幅広く対象にすることもあります。
 2006年4月の「障害者自立支援法」の施行により、社会復帰施設体系は改訂され、現在は移行期間(2006年10月より)のため、各施設の事業内容に変更が生じている最中です。しかし、精神障害者は地域で生活する一人の人であり、その生活がより豊かなものとなるようPSWの立場で支援する視点は共通しています。

◇福祉行政機関◇
 行政機関では、法律に基づいた各種支援事業や手続きの実施を担うほか、今後の地域における精神保健福祉の充実発展のために、現状分析や将来を見通した計画立案などにも関与します。また、精神障害者の生活支援のために、関係機関のネットワークを作るコーディネートや就労支援事業、退院促進支援活動、地域住民への普及啓発活動などの企画、実施とそのための調整なども担当します。

◇司法施設◇
 「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った精神障害者の医療及び観察に関する法律」(2003年制定)による新しいシステムに基づく役割です。社会復帰調整官や精神保健参与員などの多くは、その期待される機能からPSWが活躍しています。本法に基づく指定医療機関では、専従のPSWがチーム医療の一員として社会復帰プログラムなどの業務を担います。また、矯正施設においても精神保健福祉士の配置が始まっています。

◇その他◇
 精神科病院の高齢者病棟に限らず、老人病院や介護保険施設などでは、PSWを配置して利用者の生活支援や家族支援を行っています。
 また、常時勤務の例は少ないですが、教育現場のメンタルヘルスに関する相談援助を行うスクールソーシャルワーカーや、職場でのストレスやうつ病対策、職場復帰のための支援などを行う企業内ソーシャルワーカーが活躍を始めています。
 教育機関では、PSW養成課程での教育と、精神保健福祉に関する各種調査研究活動を行います。学問的理論と現場の実践や本音などを結びつけること、日本の精神保健福祉全体の向上に役立つような研究報告も行います。また各職場のPSWも「精神保健福祉援助実習」の現場指導者として、教育・養成に携わります。
 また、常勤の職場を持ちながら、委嘱を受けて特定の会議などに継続参加する業務もあります。たとえば、都道府県立精神保健福祉センターに設置される精神医療審査会や、市町村が行う障害者自立支援法下での障害程度区分認定審査会、社会福祉協議会の日常生活自立支援事業(旧地域福祉権利擁護事業)や運営適正化委員会への参加などです。
by open-to-love | 2009-12-13 20:29 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)
□精神保健福祉士(PSW)とは

精神保健福祉士とは、1997年に誕生した精神保健福祉領域のソーシャルワーカーの国家資格です。

 21世紀はこころの時代と言われています。多様な価値観が錯綜する時代にあって、こころのあり様は私たちがもっとも関心を寄せる問題の一つとなっています。

 特に、わが国では、たまたまこころの病を負ったことで、さまざまな障害を抱えた人々(精神障害者)に対する社会復帰や社会参加支援の取り組みは、先進諸国の中で制度的に著しく立ち遅れた状況が長年続いていました。近年になり、関係法の改正などにより、ようやく精神障害者も私たちと同じ一市民として地域社会で暮らすための基盤整備が図られることとなりました。

 精神保健福祉士は、精神科ソーシャルワーカー(PSW:Psychiatric Social Worker)という名称で1950年代より精神科医療機関を中心に医療チームの一員として導入された歴史のある専門職です。社会福祉学を学問的基盤として、精神障害者の抱える生活問題や社会問題の解決のための援助や、社会参加に向けての支援活動を通して、その人らしいライフスタイルの獲得を目標としています。

 さらに、高ストレス社会といわれる現代にあって、広く国民の精神保健保持に資するために、医療、保健、そして福祉にまたがる領域で活躍する精神保健福祉士の役割はますます重要になってきています。

□精神保健福祉士登録者数(2009年10月末日現在)

・国家試験合格者数:44,384人
・登録者数:43,419人
(登録率:97.8%)

岩手県=416人(男121人・女295人)

社団法人日本精神保健福祉士協会(日本PSW協会)
〒160-0015
東京都新宿区大京町23番地3 四谷オーキッドビル7F
TEL.03-5366-3152 
FAX.03-5366-2993 
(日本精神保健福祉士協会HPより)
by open-to-love | 2009-12-13 20:08 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)
共生社会フォーラム資料:ソーシャルワーカー論③

増野肇『森田療法と心の自然治癒力』(白楊社、2001年)

森田療法とソーシャルワーカー

ソーシャルワーカーとの出会い

 1990年に宇都宮大学から日本女子大学の社会福祉学科へ移ることになった。いくつかの理由があったが、その一つが、ソーシャルワーカーの教育ができるということにあった。宇都宮大学では、障害児教育に携わり、何か本来のやるべきことから少し離れたところにいる感じがしていた。たしかに、大学という教育の場に入り、学生を教えることはいやなことではなかった。新しいことを学んだり自分の考えを整理する機会も与えられ、それを利用して『森田式カウンセリングの実際』(白楊社)を出版することもできた。教育の現場に関わり、養護教員などの相談を受けるなかで、学校の先生や「いのちの電話」の相談員などに、もっと森田療法を知ってほしいと考えるようになったためである。
 しかし、地域精神医療の現場では、まだまだやるべきことがたくさんあるように思えた。精神障害者のリハビリテーションに関わる多くのシステムが地域のなかに揃うようになり、それらの活動も活発にはなってきているが、一方で、まだそれらの恩恵にあずからず、精神病という重い課題に悩む当事者や家族の人たちが、たくさんいることも事実であった。これらの新しい成果を伝える役割としてソーシャルワーカーがもっと力を持てるように、その人たちを育てることで少しは貢献できることが残されているのではないだろうかと考えたのである。
 私が最初にソーシャルワーカーと出会ったのは初声荘病院である。福井院長は開院当時、パラメディカルの人たちを重視し、心理士として仕事をしていた私の妻が日本女子大学出身だったところから、日本女子大学を卒業した心理士やソーシャルワーカーが働いていた。一緒に職場を探したり、精神医療を改善する当事者と市民のグループ「あすなろ会」活動に取り組んだが、日本福祉大学にいた窪田暁子先生にお願いして、講演会を開いたこともある。
 三崎の保健所には滝沢武久氏がいて、研究会に参加したり、当時入院中だった身内の相談などで話し合うことが多かった。のちに、氏は初声荘家族会の会長だった川村伊久氏とともに、青年医師連合の揺さぶりのなかで混乱していた「全国精神障害者家族会連合会」(全家連)に入り込み、会の組織化に力を揮う。政治的な発言力をもった現在の全家連を育てた中心人物である。滝沢氏のあとに三崎保健所のソーシャルワーカーに赴任したのが角田英昭氏で、前述したように氏と組んで、カプランの危機理論に基づくコンサルテーションとネットワーク作りの実験的な試みを三崎地区で行うことが可能になったのである。
 1975年に栃木県精神衛生センターの所長に赴任して気付いたのは、県精神衛生協会の事務局的存在で、県の精神衛生を動かしている3人のソーシャルワーカーの働きであった。もっとも歴史のある森病院では大関ワーカーが、当事者のクラブ「つくしクラブ」を組織し、皆で一泊佐渡旅行まで行っていた。両毛病院の増山ワーカーは、やはりソーシャルクラブ「青桐会」を組織しており、やがて佐野地区にクレープハウス「ブローニュの森」を開店することになる。今では、生活支援センターとして2軒のコーヒーショップ、お弁当屋、グループホームなどの活動を繰り広げている。全家連が建設したホテル「ハートピアきつれ川」の授産施設長をしていたこともある。それに、県立病院の関口ワーカーを加え、この3人の協力があって、私が栃木県で進めていった地域精神衛生システムの新しい試みが可能になったのである。
 県の保健所では、都会と異なり、専門のワーカーを置くだけの財政がなく、保健婦を精神衛生相談員として教育するシステムをとっており、精神衛生センターがその教育を担当した。私がセンター長になってから、40日にわたる精神衛生相談員の講習が数年続き、そのなかで多くの専門家を招聘してお話をうかがう機会ももてた。のちに、サイコドラマティストとしてSST等で活躍される前田ケイ教授と出会ったのも、この講習会でのことだった。
 谷中輝雄氏が初声荘を見学に来られ、それを参考にして地域のなかに「やどかりの里」を展開し30年になるが、私もその目覚ましい発展に驚きながら、いろいろな形で応援をしてきた。自分にはできない大胆な試みをどんどん実践していく人として感銘を受けていた。同じような人に、精神病院をやめて、仲間と基金を出資して、ファウンテイン方式のクラブJHCを組織した寺谷隆子氏がいる。また、まだ面識はないけれども、北海道の浦河で「べてるの家」を事務局的存在として支えている向谷地生良氏も、私が敬服しているソーシャルワーカーの一人である。身近なところには、不思議なレストラン「クッキングハウス」の松村幸子氏、全家連での活動のあと、伝統的な精神病院で活動している三橋良子氏らがいる。
 このような人たちの自由な活動を見ていると、ソーシャルワーカーには本来、新しい実験的な試みを実践する役割が備わっているような気がするし、日本の精神医療を改革してきた仕掛人でもあるように思えてくる。私は以前から、医師であるよりはソーシャルワーカーであったような気がしているが、アクションメソッドのサイコドラマが気に入っているのと同じで、性格的にもその方が適しているのかもしれない。とにかく、自分が時間と勇気があればやりたかったと思うことを、この人たちは実践し、実現させてきたと思っている。

ソーシャルワーカーの役割

 ソーシャルワーカーは、最初はケースワーカーと呼ばれていた。ケースワークは19世紀末にイギリスで始まり、アメリカで発展した。リッチモンドは1922年に著書のなかで、「人とその社会的環境との間に個別的な効果を意識して行う調整によって、その人のパーソナリティを発達させる諸過程」をケースワークと呼んでいる。
 ソーシャルワーカーの仕事には、個人に対するケースワークと、グループに対するグループワーク、そして地域への働きかけであるコミュニティ・オーガニゼーションとが含まれると言われている。ケースワークの前身は、1869年の慈善組織協会(COS Charity Organization Society)での友愛訪問であり、グループワークの始まりは英国のセッツルメント活動と言われている。ロンドンのスラム街の悲惨な生活を改善するために、オクスフォードやケンブリッジの大学生が1884年にトインビーホールを設立し、スラム地区に自分たちの生活の場を置き、大学で行っているような文化活動を繰り広げることで、地域の人達の啓発をしようとしたのである。同じ年に、YMCAの活動も始まっている。
 少し遅れて、アメリカでもセッツルメント活動が始まる。アメリカでは1929年の大恐慌をきっかけに、専門家の技法として発展するようになる。ニューステッターが1935年に、グループワークを自発的なグループ参加を通して個人の成長と社会的適応を図る教育的過程であるとし、さらに、そのグループを社会的に望ましい諸目的を達成できるようにする手段であるとした。この年にアルコール依存症者のセルフヘルプグループAAが発足したのも、このような動きと関連しているように思える。
 1960年代になると、ベトナム戦争などの影響でアメリカ社会の病理が露呈し、そのなかでソーシャルワーカーの需要が大きくなり、その数が増えてくる。そして1970年代には、それまで独立していたケースワーク、グループワーク、コミュニティ・オーガニゼーションの3部門が統合されて、ソーシャルワーカーが身につけるべきものとされる。
 日本での発展は、1930年代のYMCAが始まりで、戦後にソーシャルワークの技術がアメリカから入ってきて、大きく広がったといえる。精神科ソーシャルワーカーが「社会事業婦」という名称で国立国府台病院に配属されたのが、1948年である。その後、精神科ソーシャルワーカーが少しずつ力をもつようになり、病院の事務職が兼任で行っていたソーシャルワークを専門家が担うようになってくる。1964年には、精神科ソーシャルワーカーの全国組織が仙台で結成されるのである。
 初声荘時代の後半に、アメリカから戻った迎町氏がアメリカでのソーシャルワーク理論を語り、それまでケースワーカーと呼んでいたのをソーシャルワーカーと呼びかえることになったのを思い出す。最終的に患者の側に立って考えることができるのはソーシャルワーカーなのだから、ソーシャルワーカーが病院に所属してはその活動に制限が加わるのではないか。したがって、独立して地域に属したワーカーが必要ではないかといったことを、皆で熱く論じたことなど思い出す。
 これからの精神科医療にはコンシューマーの立場にたった観点が必要であり、セルフヘルプグループのオーガニゼーションやボランティア、ピアカウンセリングなどの育成といったことが課題となることが予想されるとき、それらのキーパーソンとしてのソーシャルワーカーの役割はさらに重要になってくるだろう。社会のシステムそのものの変革者としての実力をみにつけていってほしいものである。

森田療法とソーシャルワーカー

 現在、医療の場では治療チームが問題となってきているが、人間を身体面、心理面、社会面からとらえることが必要であり、医学、心理学、社会福祉学がそれぞれを担当し、チームを組んで関わるということになる。ソーシャルワーカーが担当するのが社会面ということになり、その内容は社会的資源を活用することであったり、住居や就労などのフィールドをクライエントの成長に役立つように調整することであったり、それらを可能にするために地域や社会に働きかけをすることであったりする。それに対して、クライエントの心理面における変容、時間をかけて洞察やカタルシスを通して心のあり方を変化させる精神療法は心理学が担当することになる。
 しかし、ソーシャルワークをする際の人間関係を築くには、カウンセリングの基本的な姿勢は必要になるし、簡便的な精神療法が役立つことになる。そのような場合には基本的な姿勢として、私が提唱している「森田式カウンセリング」の必要性も生じてくるように思う。
 森田神経質とまではいかなくても、こだわりが強くて、問題点に注意を集中させるために悪循環のとらわれに陥ってしまう傾向の人はけっこう多いものである。その場合に、森田療法的な発想が助けになったり、ヒントになることは意外に多いものである。「生活の発見会」の各支部における集談会では、先輩の指導者がピアカウンセリングのような形式で、森田療法の考え方を活用して後輩の援助にあてているのであるから、「いのちの電話」の相談員や養護教員のような立場であれば、森田療法を有用に役立てることは無理なくできるだろう。それと同じく、ソーシャルワーカーも、たとえ精神療法を専門としていないとしても、森田療法の考え方や技法をその仕事のなかで十分活かすことができるのである。それはとらわれに対しての発想の転換をはかることができるという技術的な面だけでなく、クライエントの「生の欲望」にそって、それを活かすフィールドを模索するという、基本的な姿勢においても役立つことになるであろう。
 同じことが逆の場合にもいえることになる。森田療法は行動的な精神療法であるから、本来ソーシャルワーク的な面をもっているのである。不安をそのままにして、物事本位、目的本位の生活を進めるときに、また、内面にある心の葛藤には触れずに、外面のこと、社会的なことに目を向けようとするときに、ソーシャルワークの技法が役立つのではないだろうか。その人にとって現在やるべきことを見つけ、それに即した行動をしていくということは、ソーシャルワーカーがめざしていることと重なるのである。
 精神病の場合には、ソーシャルワーカーが積極的に提示していかなければならないが、神経症では、それを自分で見いだしていかなければならない。治療者は原則だけを提示し、あとは本人が自分の目的を探していくことになる。しかし最初に述べたように、現代においてはそれが可能な典型的な神経質症の人が減少してきている。自己愛的な段階にあったり、未発達な課題を残しているような人には、社会資源を見いだしたり、それを利用できるように、積極的なソーシャルワーク的介入が必要になってくるだろう。社会的な資源やサポートシステムに関する情報を共有し、提示していく必要がある。
 また、同じことは、「生活の発見会」活動を実際に運営するにあたっても必要である。そのリーダーとなる人たちは、グループワークやコミュニティ・オーガニゼーションの技術を身につけることが求められるであろう。ソーシャルワーカーとして必要な、社会資源のリスト、法律の知識、行政への働きかけの技術などは、「生活の発見会」の発展を考える上で、必要な技術であるといえよう。精神保健関連機関のネットワークのなかでの位置を確認し、相互の活用をはかることができれば、「生活の発見会」の知名度を広げることも可能であるし、支援と協力を広げていくことができるであろう。また、「断酒会」をはじめとするさまざまなセルフヘルプグループとの交流を図ることが、相互の発展に役立つことであろう。
by open-to-love | 2009-12-13 01:06 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)
共生社会フォーラム黒田資料 ソーシャルワーカー論②

斉藤道雄『悩む力 べてるの家の人びと』(みすず書房、2002年)

絶望から

 …べてるの家には場の力があり、生きたことばがあり、それを生み出した一人ひとりの苦労やつながりというものがあったとしても、ではその総体としてのべてるを可能にしたものはいったいなんだったのかという疑問である。べてるを作ったのは個性あふれる一人ひとりのメンバーの生き方だったとしても、またユニークな支援スタッフのおかげだったとしても、あるいは町の人たちの力が欠かせなかったとしても、なぜ浦河という町にべてるの家が生まれ、20年あまりの歳月を経て多くの人びとのこころをとらえるようになったのかを説明しきることはできない。
 それはそもそも説明しきれることではないかもしれないが、私はそこにやはりひとりの人間の生き方が色濃く反映されていることを見逃すわけにはいかない。向谷地生良さんというソーシャルワーカーがかかわりつづけたことによって、べてるはその礎となる部分を形作り、理念となるべき考え方を練り上げてくることができた。日々山ほどおきる問題と向き合い、苦労し悩むなかで一人ひとりが生きる力を身につけること、あるいは問題の責任を問うのではなくその意味を考えること、そうした生き方は向谷地さんひとりが提唱してきたものではなかったが、しかし向谷地さんがべてるにかかわり、多くの人びとと20年にわたりぶつかりと出会いを繰り返す中で育まれ、鍛えられ、絶え間なく周囲に伝えられていった。
 そうした考え方、生き方を求め、語りあうことができたのは。向谷地さん自身がべてるのメンバーと同じように、しかしちがった形で、さまざまな苦労を重ねてきたことと深く結び付いている。学生時代の向谷地さんは、自分の危機は苦労のないことだと感じていたという。けれどそれは実際に苦労していなかったということではない。自宅からの仕送りなしで自活し、難病団体の支援活動もしていたというから、学生としてすでに十分な苦労をしてきたはずだ。それでも納得できなかったというのだから、はじめから頑固な性格だったのだろう。それが浦河に来てようやく〝ほんとうの苦労〟を経験することになる。しかもその苦労のはてに挫折を重ね、深いひとつの感慨をいだくことになった。
それは1978年、向谷地さんが日赤に就職したときからはじまっている。
 浦河の町にはじめてやってきた22歳のソーシャルワーカーをまず待ちかまえていたのは、アルコール依存症の患者やその家族の抱えるさまざまな問題だった。過疎の町だというのにアルコール患者だけは異常に多く、アル中のホームレスまでいた時代である。いまはべてるの元気なメンバーになっている何人もの患者が、日赤病院の玄関先で酔いつぶれていたり、集団で日赤の救急病棟に担ぎ込まれてくることも珍しくはなかった。家庭訪問にいけばドタバタの騒ぎに巻き込まれ、怒鳴られたり殴られたり味噌汁をかけられたりしながら、向谷地さんはこの問題の奥深さ、むずかしさをつぶさに体験することになる。
 「そういった家庭のなかでたくさんの子どもたちが育てられていることがわかりました。そしてじつは、そのお父さんたちもおなじような境遇で育てられていることがわかりました。そしておじいちゃんたちもおなじような境遇で育てられ、貧しさとアルコールによる家庭崩壊のなかで子ども時代をすごし、さまざまな傷や苦労を背負いながら、差別的な体験を背負いながらおとなになってアルコールにおぼれていく。その繰り返しが何十年も、何世代も繰り広げられているという現実に出会いました」
 アルコールの修羅場は、くる日もくる日もおなじことの繰り返しで際限がなかった。しかもその繰り返しはきのうきょう始まったことではなく、歴史と、文化と、地域に深く根ざしている。ひとりのソーシャルワーカーの努力ではほとんどなにも帰ることができないと分かったとき、向谷地さんは巨大な壁に突き当たったときのような、非常な無力感を覚えずにはいられなかった。
 そうして苦悶する向谷地さんをさらに痛めつけ、徹底的に鍛えることになったのは、共同住居でともに暮らしたひとりのアルコール依存症の患者である。
 恵庭の自衛隊にいたことがあり、大尉と呼ばれたこの患者は、しらふのときはほんとうに実直で礼儀正しい人だったが、少しでも酒が入ると人が変わった。その酔い方は異常酩酊ともいうべき劇的なもので、この病気が浦河の町や人びとにもたらした災厄と問題の多さはいまから振り返ってみても並大抵のものではない。その大尉と、向谷地さんは共同住居でともに暮らすことになった。異変がおきたのは、暮らしはじめて1週間後のことである。
 「敵機来襲…」
 大尉は、共同住居の2階から双眼鏡で外をうかがい、ビール瓶の入ったケースを積み上げていた。部屋に日の丸を飾りカセットから軍歌を流し、窓からは脱出用のロープをぶら下げている。
 「攻撃開始、手榴弾!」
 そういいながら大尉は、ビール瓶を2階の窓から通りに向けて投げ始めた。次々とビンが割れ、ガラスの破片が飛び散って道路は泡だらけ。それでも大瓶を投げ続ける大尉は、「ほふく前進」などと叫んで狂乱状態に移行する。近所の人が飛び出し、となりの教会にいた宮島夫人も駆け付け見守る中で〝戦闘〟は続いた。人と車が右往左往し、町中が大騒ぎになってパトカーが駆け付けた。
 その後も大尉の妄想はおさまらない。2階にいると敵が攻めてきて危ないといって、1階の向谷地さんの部屋に土足で踏み込み籠城する。教会の番犬だったゴンもつれこんだ。そして教会の電話を使って交換を呼び出し、「ホワイトハウスにつなげ」とか「アラファト議長を出せ」などと支離滅裂な交信を始めた。寝ていた向谷地さんを無理矢理起こし、「お前も戦え」と命令する。疲れ果てた向谷地さんが「もう休戦します」といって寝込むと、ナイフを突き付けプロレスの技で羽交い締めにし、耳元で目覚まし時計を鳴らして寝かせようとしない。犬のゴンもそれにあわせて吠えついた。
 大尉はいつもなにかを異常に恐れていた。自室の錠は三重にし、鉄パイプを毛布にくるんで持ち歩く。かと思うと日の丸を立てラジカセの軍歌を響かせながら町内の銀行に出入りし、一円ずつ貯金しては難癖をつける。病院のロッカーに泥棒に入り、「浦河伝道所のものだ」といってあちこちで金をだまし取り無銭飲食を重ね、町一番のきらわれ者になっていった。酔いつぶれて道に寝ているところをパトカーにひろわれ、教会に運び込まれたことも再三である。多くのアルコール依存者を見続けてきた宮島夫人に、「一品でしたね。ああいう人にめぐり会ったことない」と言わせたほどの人物である。
 その大尉と一緒に暮らして、向谷地さんはほんとうに振り回された。ほとほと痛めつけられた。そして身にしみて分かったことは、こんなことは「もういやだ」「自分にはできない」という思いだった。日ごろソーシャルワーカーとして、精神障害者を抱えた家族にああしなさいこうしなさいといっている自分が、いざその立場におかれてみると、とてもではないができない。ビール瓶が飛びナイフがせまり、犬のゴンが吠え立てる。そうしたことが自分の目の前でおきると、もう事態を距離感をもって冷静に受け止めるなどということができなかった。
 浦河で2年あまり暮らしたあと、大尉は病院や役場や消防や町のみんなから「どうか出ていってください」と請われ、列車に押し込まれるようにして町を去った。どこをどうしていたのか、10年後に再び浦河に舞い戻ってきたときには、すでに身体がぼろぼろになっていたのだろう。日赤に入院して2カ月後にひっそりと息を引き取っている。48歳だった。
 大尉の葬儀が終わったあと、向谷地さんは川村先生に「あれが、べてるのはじまりでしたね」と語りかけている。
 それは大尉がずばぬけて多くの問題をおこしたからに違いない。問題のあるところにべてるが生まれるとするなら、大尉はまさしくべてるの家の胎動につながっていた。徹底的に振り回され痛めつけられながら、あのとき私たちもずいぶんいろんなことを教えられましたねと宮島夫人はいい、向谷地さんもまたそうやって育てられたんですと振り返っている。簡単にいえば、あれほどの問題に直面していれば、もうなにもこわくないということだろう。あるいは、このときすでにあらゆる問題に対処する際のこころがまえを学んだということかもしれない。それは、だれも大尉の代わりに生きることはできないし、大尉の問題を引き受けることもできない、大尉の問題はかぎりなく大尉に返していくしかないということだった。そうした考え方は、その当時からいまにいたるまでべてるに変わることなく貫かれている。
 アルコール問題に巻き込まれ、大尉の存在によって自らの限界を悟らされた向谷地さんは、一方職場でも泥沼のような人間関係に巻き込まれていた。当時日赤の部長だった精神科医に、精神科への出入りを禁止されたのである。
 上司にあたる精神科医は、それでも進歩的な医者だった。地域ではじめての断酒会や患者の回復者クラブを組織し、精神医療に人一倍の熱意と工夫をかたむけている。けれどそれほどの医者でも、さすがに向谷地さんのしていることは理解できなかった。患者と距離をおくどころか、一緒に暮らしてしまうソーシャルワーカーは、けじめがなく許し難いばかりか、自らの立場を脅かす不可解な存在と映ったのだろう。そういうやり方をやめろといい、もう病院に来るなといった。辞職勧告である。それでもやめないでいると。ついに向谷地さんに精神科への「出入り禁止」をいいわたしてしまった。
足止めは5年続いた。
 このころが、向谷地さんが一番苦労した時期である。
 アルコールで崩壊した家庭の際限ない争いやもめごとに巻き込まれて疲れ果て、その背後にある歴史の壁に無力感を深め、早坂さんがひっくり返るのをどうすることもできず、そうでなくてもべてるの家はもめごとだらけというのに昆布の内職も行き詰まっていた。次から次へと背負いきれないほどの重荷がいくつものしかかるばかりだのに、どれひとつ解決への道筋を見出せない。おまけに職場は締め出され、人間関係が破綻している。挫折の連鎖で胃が痛くなった。胃潰瘍になった。無力感に打ちのめされ、立ち直ることができなかった。
 そこで見えてきたものはなんだったか。そのときのことを1999年、札幌での講演でこういっている。
 「いろんなことがあったときに、私は絶望感みたいなものが自分のなかに実感していくのがわかったんです。『もしかしたら、これがほんものの絶望感なのかもしれない』と、〝絶望感〟という深い鉱脈を掘り当てたかのような感触といいますか、感動が自分を襲うようになりました。『あ、これがほんとうの行き詰まりなのかな』『これがほんとうの絶望というものか』『自分はいい経験をしているな』と思えたんですね。これだ、と。私の前には自殺未遂をはかったり、いろいろ生きづらさを抱えている人たちがいるわけですが、『こういう気持ちになるのかな。そうか、こういう気持ちでそうなるんだ。そうか、そうか。これで、生きたくなる気持ちになったり、生きるのをやめようと思うんだ』『これはいいものを経験させてもらった』というふうに思えたんですね。究極のものを掘り当てた、そういう感じを思うようになりました」
 ついに自分も絶望におちいったという「感慨」が、そこにはあった。
 このとき向谷地さんははじめて、早坂さんや佐々木さんやべてるにいるみんなのところにたどりつき、つながったという思いをもつことができたのかもしれない。自分の苦労はこの世界のどこかとつながっているはずだという思いをかねてもってはいたが、どこでどうつなっているのかわからなかった。それがこんなところで、絶望という鉱脈を掘り起こすことによってつながったということが、深い感慨とともについに見えてきたのではなかったろうか。
 「私は早坂さんや佐々木さんに出会って、病気を経験した人たちと出会って、この人たちは人間関係に傷ついて、関係のなかで自分を見失って、関係を閉ざしてきた人たちだと、それを回復する関係が必要なんだ、豊かな関係が必要なんだと思ったんですね。…自分は人間関係に苦労している、じゃあこの苦労をどうやったら豊かな関係に変えていけるか、これはだいじな宿題をもらったと思ったんです」
 絶望のなかで思ったのは、そういうことだった。
 5年たって、上司の精神科医が「君には負けたよ」と言いながら握手を求めてきた。札幌の病院から川村先生がやってきてあとをつぎ、日赤の精神科は少しずついまのような姿に変わってゆく。べてるの家もいつしかどん底を抜け出し、町に出て商売への道を歩みはじめていた。5年がすぎてみれば、べてるの人びとに助けられて、向谷地さんもまたどん底をあとにしていた。
 べてるの家の歩みがどこからはじまったかを考えてみると、そのはじまりは佐々木実さんが古い教会堂に入居したときからとみることもできるし、旧教会堂に入居したときからとみることもできるし、旧教会堂がべてるの家と命名されたときとみることもできる。ずばぬけて多くの問題を起こした大尉が浦河にやってきたときがそうだったのかもしれない。けれどべてるの生き方、暮らし方が真に根をはり、内実をもつに至ったのは向谷地さんが「絶望という鉱脈」を掘り当てたころと重ね合わせることができるのではないだろうか。べてるの家がひとつの理念として確立されたものになったとするなら、その理念はこの絶望の体験に源を発している。
 絶望、すなわちすべての望みを断たれること。
 それはべてるの家の一人ひとりがさまざまな形で体験してきたことだった。分裂病で、アルコールで、うつ病で、あるいはそうした病気がもととなる差別偏見で、一人ひとりがそれぞれどん底を経験し絶望にうちひしがれてきた。そこで生きることをやめようと思い、けれどそうすることもままならず、生きのびた末に気がつけば精神病という病を背負ってひとり荒れ野に残されている。そうした人間がひとり集まりふたり集まり、群れをなし場を作り、暮らしを立ててきたのがべてるの家だった。
そこでは、生きることはつねにひとつの問いかけをはらんでいる。
 なんの不条理によって自分は精神病という病にかかり、絶望のなかでなおもこの世界に生きていなければならないのか。病気をもちながら生きる人生に、いったいなんの意味があるのだろうかと。
その問いかけにたいして、V・E・フランクルのことばを引いて向谷地さんはいうのである。「この人生を生きていてなんの意味があるのか」と考えてはいけない、「この人生から自分はなにを問われているか」を考えなければならないと。
 「私たちがこれからおきる人間関係だけでなく、さまざまな苦労や危機にあう、その場面でどう生きられるか、その生き方の態度を自分に課していく。…この人生から私がなにを〝問われている〟のか。私が問うのではなく、私が問われているのです。あなたはこの絶望的な状況、危機のなかでどう生きるのかと」
 絶望のなかからの問いかけ。
 それがべてるの理念のはじまるところだった。
 もしもべてるの家が絶望ではなく、希望からはじまったとするならば、その歩みはまったくちがったものになっていただろう。メンバーは明日を信じておたがいに励ましあい、病気を治し生活を整え、技術を身に付け仕事に挑戦し、そして困難を克服し昇りつづけて社会復帰を目指したことだろう。けれど絶望からはじまったアプローチは正反対の道を歩もうとする。そこでは、最後には死すべき存在である人間が病気をかかえながらも苦労し悩むことを求められ、一人ひとりが生きづらさを生きなければならず、弱さをきずなにつながりあい、かぎりなく降りていくことによって広い大地に降り立とうとする。
 絶望からはじまり、深い幻滅をくぐりぬけ、ひたすら降りてゆく生き方のために、べてるでは苦労が与えられ、悩みが勧められる。絶望することが援助され病気であることが肯定され、そのままでいいという生き方、あるいはそのままでしかいられないという生き方が提唱される。不思議なことに、あるいは当然のこととしてそうなるのだろうか、その生き方は問題のあまりの多さにもかかわらず、ほかのどこでも見つけることのできない人びとの顔つきのよさと、深い安心と、思いもかけない豊かさとを生み出している。べてるの人びとは、そうした生き方が、いますぐこの社会で役に立つことはなくても、これから200年後、300年後の世界でかならず評価される価値を擁しているにちがいないと、ひそかなる妄想をふくらませている。

※『それでも人生にイエスという』V・E・フランクル著、山田邦男・松田美佳訳、春秋社、1993年。≪私たちが「生きる意味があるのか」と問うのははじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。≫
by open-to-love | 2009-12-12 23:29 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)
共生社会フォーラム資料 ソーシャルワーカー論①

谷中輝雄編『これからの精神保健・精神医療』(やどかり出版、1986年初版、1991年改訂新版)

対談 変る精神医療…岡上和雄、谷中輝雄

ワーカーの必置制について

谷中 そうしますと、先程から地域のマンパワーにふれてきましたが、精神病院にも患者さん50に対してワーカー1人おけとか、100に対して1人のワーカーというように、必置制のことも同時に進行していくことも考えるべきだと思うのです。それはいまいう地域と病院のワーカーとを分離しないで、一緒に患者さんをサポートする人と考えた時に、医療施設の中に必置制をもうけることが必要になってきます。

岡上 置けばたしかにいいでしょうけれど、ただ相談員は、そういうふうに縛っていくものがあるのだけれど、病院のワーカーについては今のところないですから、どうつくったらよいのか。長い目でみますと、精神医療というのは社会化していって、民間が経営しようとなんであろうと、非常に公的な性格を強めざるを得ないのですね。その時の担い手は、やはり流れとしてはソーシャルワーカーが、かなり担っていくことになるのではないでしょうか。そうでないと、やはりネットワークもつくれないし、まあ人権擁護についても、誰がそこを受け持つかということがはっきりしないし、ということではないですかね。

谷中 日本の現行の精神医療は、民間病院がカバーしているのが現状ですね。そしてそこが本来的には公益性をもつべきものに変るべきですが、それが無理とすれば、唯一ソーシャルワーカーが、患者さんの人権を擁護する、あるいは社会への橋渡しをする必要があります。そしてその任務をもったソーシャルワーカーが、今の医療制度の仕組の中では、点数には結びつかない。よって、採用していない病院が多い。だから機能を果たさない。しかし、もう一方ではソーシャルワーカーが採用されたとしても、誰の意向で働くかというと、どうしても雇用した側の意向で働かざるを得ない。非常に矛盾です。患者さんの要求や患者さんの願いを実現化するためにという一つの社会的任務を一方ではもっているのですが、一方では誰に雇われたかということになると、二重拘束性の中で、常に苦しんでいるワーカー像をずっと見てきているわけですね。公的な仕事の部分がソーシャルワーカーにあるわけですから、これをどう保障し、どう必要に応じてはりつけていくかは、国の方針などに組み込まれなければならない。今のままだと、採用するもしないも経営者の自由裁量です。それではやはり片手落ちだと思います。ソーシャルワーカーを置いている病院と、置いてない病院とがはっきりとしてしまった。今のままですと、雇わない病院はこれからもずっと雇う意志はないのだろうと思うのですね。そのあたりは、公的な機能とか役割とかがあれば当然のことながら、何らかの方法で置きなさいという法的枠組みをつくっていかなければいけないだろうと思うのです。なかなかそういう形にはできづらいですが。

岡上 結局二つあって、一つは病院が置きやすい条件をつくるということ、それは例えば、デイケアとかナイトケアの時に、身分法がないけれども、ソーシャルワーカーという名前を出すなど、たぶん保険医療の中でも少しずつ努力はしていくだろうという気はします。もう一つは身分制度、あるいは、このことに対しては責任はもってもらうが、こうした縛りをするということがあるのでしょうね。精神病院は、例えば公的な病院は公的な病院なりのよさがあって、民間病院には民間病院なりのよさがあるわけで、どっちがいいかというような議論は現実にはあまり意味がない。ただそれはそれとして、民間がやるのでも、一つは鍵をかけている所に患者さんを入れているということで、それはもう一般医療とは違いますから、公益性を持たざるを得ないですね。今後リハビリテーションが発展して、そこに取り組む病院がふえれば、必然的に地域の中へ出ていくことになりますね。その次元でたぶんパブリックでなければできないことがおきる。そういうことで、民間の効率のよさもあるけれど、同時にどれだけの条件を加えればシステムとして社会の信託に答えられるか。そういう方向にいくのではないでしょうか。その担い手にソーシャルワーカーがなるのではないでしょうか。
by open-to-love | 2009-12-12 11:33 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)
ソーシャルワーカー倫理綱領

2005年1月27日最終提案
社会福祉専門職団体協議会・倫理綱領委員会
委員長 仲村 優一
2005年5月21日 日本ソーシャルワーカー協会承認

前  文
 われわれソーシャルワーカーは、すべての人が人間としての尊厳を有し、価値ある存在であり、平等であることを深く認識する。われわれは平和を擁護し、人権と社会正義の原理に則り、サービス利用者本位の質の高い福祉サービスの開発と提供に努めることによって、社会福祉の推進とサービス利用者の自己実現をめざす専門職であることを言明する。
 われわれは、社会の進展に伴う社会変動が、ともすれば環境破壊及び人間疎外をもたらすことに着目する時、この専門職がこれからの福祉社会にとって不可欠の制度であることを自覚するとともに、専門職ソーシャルワーカーの職責についての一般社会及び市民の理解を深め、その啓発に努める。
 われわれは、われわれの加盟する国際ソーシャルワーカー連盟が採択した、次の「ソーシャルワークの定義」(2000年7月)を、ソーシャルワーク実践に適用され得るものとして認識し、その実践の拠り所とする。

ソーシャルワークの定義
 ソーシャルワークの専門職は、人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を進め、人間関係における問題解決を図り、人々のエンパワーメントと解放を促していく。
 ソーシャルワークは、人間の行動と社会システムに関する理論を利用して、人びとがその環境と相互に影響し合う接点に介入する。
 人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である。(IFSW2000.7.)

 われわれは、ソーシャルワークの知識、技術の専門性と倫理性の維持、向上が専門職の職責であるだけでなく、サービス利用者は勿論、社会全体の利益に密接に関連していることを認識し、本綱領を制定してこれを遵守することを誓約する者により、専門職団体を組織する。

価 値 と 原 則
Ⅰ (人間の尊厳)
ソーシャルワーカーは、すべての人間を、出自、人種、性別、年齢、身体的精神的状況、宗教的文化的背景、社会的地位、経済状況等の違いにかかわらず、かけがえのない存在として尊重する。
Ⅱ (社会正義)
ソーシャルワーカーは、差別、貧困、抑圧、排除、暴力、環境破壊などの無い、自由、平等、共生に基づく社会正義の実現をめざす。
Ⅲ (貢 献)
ソーシャルワーカーは、人間の尊厳の尊重と社会正義の実現に貢献する。
Ⅳ (誠 実)
ソーシャルワーカーは、本倫理綱領に対して常に誠実である。
Ⅴ (専門的力量)
ソーシャルワーカーは、専門的力量を発揮し、その専門性を高める。

倫 理 基 準
Ⅰ. 利用者に対する倫理責任
1.(利用者との関係)
ソーシャルワーカーは、利用者との専門的援助関係を最も大切にし、それを自己の利益のために利用しない。
2.(利用者の利益の最優先)
ソーシャルワーカーは、業務の遂行に際して、利用者の利益を最優先に考える。
3.(受 容)
ソーシャルワーカーは、自らの先入観や偏見を排し、利用者をあるがままに受容する。
4.(説明責任)
ソーシャルワーカーは、利用者に必要な情報を適切な方法・わかりやすい表現を用いて提供し、利用者の意思を確認する。
5.(利用者の自己決定の尊重)
ソーシャルワーカーは、利用者の自己決定を尊重し、利用者がその権利を十分に理解し、活用していけるように援助する。
6.(利用者の意思決定能力への対応)
ソーシャルワーカーは、意思決定能力の不十分な利用者に対して、常に最善の方法を用いて利益と権利を擁護する。
7.(プライバシーの尊重)
ソーシャルワーカーは、利用者のプライバシーを最大限に尊重し、関係者から情報を得る場合、その利用者から同意を得る。
8.(秘密の保持)
ソーシャルワーカーは、利用者や関係者から情報を得る場合、業務上必要な範囲にとどめ、その秘密を保持する。秘密の保持は、業務を退いた後も同様とする。
9.(記録の開示)
ソーシャルワーカーは、利用者から記録の開示の要求があった場合、本人に記録を開示する。
10.(情報の共有)
ソーシャルワーカーは、利用者の援助のために利用者に関する情報を関係機関・関係職員と共有する場合、その秘密を保持するよう最善の方策を用いる。
11.(性的差別、虐待の禁止)
ソーシャルワーカーは、利用者に対して、性別、性的指向等の違いから派生する差別やセクシュアル・ハラスメント、虐待をしない。
12.(権利侵害の防止)
ソーシャルワーカーは、利用者を擁護し、あらゆる権利侵害の発生を防止する。

Ⅱ. 実践現場における倫理責任

1.(最良の実践を行う責務)
ソーシャルワーカーは、実践現場において、最良の業務を遂行するために、自らの専門的知識・技術を惜しみなく発揮する。
2.(他の専門職等との連携・協働)
ソーシャルワーカーは、相互の専門性を尊重し、他の専門職等と連携・協働する。
3.(実践現場と綱領の遵守)
ソーシャルワーカーは、実践現場との間で倫理上のジレンマが生じるような場合、実践現場が本綱領の原則を尊重し、その基本精神を遵守するよう働きかける。
4.(業務改善の推進)
ソーシャルワーカーは、常に業務を点検し評価を行い、業務改善を推進する。

Ⅲ. 社会に対する倫理責任

1.(ソーシャル・インクルージョン)
ソーシャルワーカーは、人々をあらゆる差別、貧困、抑圧、排除、暴力、環境破壊などから守り、包含的な社会を目指すよう努める。
2.(社会への働きかけ)
ソーシャルワーカーは、社会に見られる不正義の改善と利用者の問題解決のため、利用者や他の専門職等と連帯し、効果的な方法により社会に働きかける。
3.(国際社会への働きかけ)
ソーシャルワーカーは、人権と社会正義に関する国際的問題を解決するため、全世界のソーシャルワーカーと連帯し、国際社会に働きかける。

Ⅳ. 専門職としての倫理責任

1.(専門職の啓発)
ソーシャルワーカーは、利用者・他の専門職・市民に専門職としての実践を伝え社会的信用を高める。
2.(信用失墜行為の禁止)
ソーシャルワーカーは、その立場を利用した信用失墜行為を行わない。
3.(社会的信用の保持)
ソーシャルワーカーは、他のソーシャルワーカーが専門職業の社会的信用を損なうような場合、本人にその事実を知らせ、必要な対応を促す。
4.(専門職の擁護)
ソーシャルワーカーは、不当な批判を受けることがあれば、専門職として連帯し、その立場を擁護する。
5.(専門性の向上)
ソーシャルワーカーは、最良の実践を行うために、スーパービジョン、教育・研修に参加し、援助方法の改善と専門性の向上を図る。
6.(教育・訓練・管理における責務)ソーシャルワーカーは教育・訓練・管理に携わる場合、相手の人権を尊重し、専門職としてのよりよい成長を促す。
7.(調査・研究)
ソーシャルワーカーは、すべての調査・研究過程で利用者の人権を尊重し、倫理性を確保する。

経  過
 国際ソーシャルワーカー連盟に加盟している日本のソーシャルワーカー職能4団体(日本ソーシャルワーカー協会、日本医療社会事業協会、日本社会福祉士会、日本精神保健福祉士協会)は、2003年2月から合同で委員会を設け、各団体が採択している「医療ソーシャルワーカー倫理綱領」(1961年)、「ソーシャルワーカーの倫理綱領」(1986年)、「精神保健福祉士協会倫理綱領」(1988年)を吟味し、4団体合同で、新たにわが国における「ソーシャルワーカーの倫理綱領」制定をめざして取り組んできた。
 「ソーシャルワーカーの倫理綱領」改訂に向けた取り組みの契機は、日本ソーシャルワーカー協会の呼びかけによる。
具体的には、2000年12月19日に同会と日本社会福祉士会との合同作業委員会が組織され、その後、2001年3月より日本医療社会事業協会の参加を得た。三団体による作業は、2002年10月5日までに7回の審議を経て、同年10月17日付けで「『ソーシャルワーカーの倫理綱領』改訂案」を公表し、関係者や関連学会等からのパブリックコメントを求めた。
さらに、同年12月28日には、これまで改訂作業を行ってきた3団体に加えて、日本精神保健福祉士協会が今後の取り組みに参画することとなり、4団体の会長合意のもと、社会福祉専門職団体協議会・倫理綱領委員会を立ち上げることとなった。
 この「ソーシャルワーカーの倫理綱領(最終案)」は、同委員会の検討結果を取りまとめたものである。
by open-to-love | 2009-12-11 23:38 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)
ソーシャルワーカーとは、

 人権と社会正義の原理に則り、サービス利用者本位の質の高い福祉サービスの開発と提供に努め、社会福祉の推進とサービス利用者の自己実現をめざす専門職です 。
 日本ソーシャルワーカー協会(JASW)は、児童から障害者、高齢者、低所得、地域福祉、行政、研究者まで、幅広い関係者で構成された社会福祉の総合的な専門職組織です。同時に2005年のNPO法人化を機会にソーシァルワークの普及に関心をお持ちの方であれば、その他の専門職や一般市民、どなたでも会員になれる組織として性格を変え福祉の発展を目指しています。

ソーシャルワーカーの協働を広げます…日本ソーシャルワーカー会長あいさつ

 私は、2007年から会長に就任しました。
 この協会は、1960年以来の長い歴史をもつています。現在は、全国に20都道府県の支部をもち、児童から障害者、高齢者、低所得、地域福祉、行政、研究者まで、幅広い関係者で構成された社会福祉の総合的な専門職組織です。同時に2005年のNPO法人化を機会にソーシァルワークの普及に関心をお持ちの方であれば、その他の専門職や一般市民、どなたでも会員になれる組織として性格を変え福祉の発展を目指しています。
 各県の協会は、同様に幅広い領域の関係者で構成され、定期的な学習や交流を行っており専門職としての視野を広げたり、認識を高めたり、福祉の前進をはかる協働活動に取り組んでいます。
近年、介護保険法をはじめ社会福祉法、障害者自立支援法の施行などにより、社会福祉全体がその基礎構造を大きく変更されました。
 しかし、現場で起きている実態をみると日本の社会福祉は、これでいいのだろうかと思われる基本的な課題が幾つも残されています。
 大方の事業が、国責任の措置制度から市町村主体の自治事務という位置づけに変わり、利用・契約、サービス事業となりましたが、福祉の支援を必要とする人々の権利がきちんと守られる制度になっているのかどうかは疑問です。
 専門職として働く人々の位置づけや働く条件も不十分なままです。
 このままでは21世紀の福祉として展望をもつことができません。
 我が協会は、こうした課題について学習をし、協働してその解決に取り組んでゆきたいと思います。
 皆さんの参加を歓迎します。

会長 鈴木五郎

特定非営利活動法人 日本ソーシャルワーカー協会
〒160-0008 東京都新宿区三栄町8番地 森山ビル西館4階401号室
TEL 03-5913-8871 FAX 03-5913-8872
Copyright (C) 2005-2009 JASW All Rights Reserved

(日本ソーシャルワーカー協会HPより)
by open-to-love | 2009-12-11 23:31 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)
県社会福祉士会盛岡ブロック「共生社会フォーラム」

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「障がい者の日」協賛
共生社会フォーラム&クリスマスライブ〜心の病をもつ人を地域で支える

日時:2009年12月20日13:00〜15:00
場所:盛岡市大通1丁目11番8号 大通商店街協同組合リリオ2階カルチャールーム
入場無料

共生社会フォーラム(13:15〜14:20)
フォーラム提言者:障がい当事者2人&盛岡ハートネット事務局黒田大介さん(※オレです)
コーディネーター:NPO法人いわてソーシャルサポートセンター藤原隆之さん(本会会員)

クリスマスライブ(14:30〜15:00)
盛岡を中心に活動しているフォーク・デュオ「Part Time」高屋修さん&厚子さん(ギター&ボーカル)

同時開催 福祉なんでも相談会(11:00〜15:00)
会場入り口の喫茶店スペースにて、相談員(社会福祉士)が待機しております。
親の介護のこと、障がいに関すること、医療費のこと…相談無料、秘密厳守、随時相談をお受けします。

主催:社団法人岩手県社会福祉士会(盛岡ブロック)
問い合わせ:盛岡ブロック事務局(ことりさわ学園)019・662・5257(担当者:坂口・工藤)
by open-to-love | 2009-12-11 18:19 | 社会福祉士会フォーラム | Trackback | Comments(0)