精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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カテゴリ:盛岡大講義( 2 )

テクストとしての新聞記事 世論とのかかわりから…㊦

2009年6月25日 盛岡大講義「ジャーナリズム」
 第11回「ジャーナリズムと世論」 黒田大介

5.精神障害者の描かれ方

 さて、上記は、他愛もない例です。だって、「盛岡の夏の風物詩さんさ踊りが開かれ、出演者も見物客も楽しんでいた」と新聞に載ったところで、とくだん困る人はいない。ですが、いざ、これが精神障害者にかんする記事になると、どうなるか?
 よくあるパターンを2種紹介します。事例4は、いわゆる事件記事。事例5は、なんてことない地方欄の記事です。

事例4:○○署は○日、傷害の疑いで○○市○○町○丁目○ノ○、無職の男性容疑者(36)を逮捕した。調べでは、男性容疑者は○月○日○時○分ごろ、市内の飲食店で隣り合わせた女性客と口論になり、止めに入った店員にけがを負わせた疑い。容疑者は精神科病院に通院歴があり、意味不明の供述をしていることから、同署は慎重に調べを進めている。

事例5:○○市の合唱団体「ハーモニー」は○日、同市の精神障害者福祉施設「○○」を慰問した。同団体は「北国の春」など懐かしのメロディーを披露。施設利用者の岩手太郎さん(36)は「歌声に癒やされました。ありたがいことです」と感謝していた。

 さて、精神保健福祉分野の場合、例えば新聞はときどき「精神障害者と共に生きる社会をつくろう」と世論を喚起したりします。これが、狭義の世論。でも、言っちゃ悪いですが、新聞記者から新聞記者兼精神障害者家族になった私の実感として、かつ、自分がそういう立場になって知り合った数多くの精神障害者やその家族の実感としても、そうした掛け声は建前に過ぎないのではないかと思ってしまうのです。なぜ建前なのかというと、その掛け声の根底に、広義の世論があり、その大元を変えていく努力なくしては、いくら「精神障害者と共に生きる社会をつくろう」と世論に訴えたところで、うわっつらだけで、その声は大きくならないからです。
 では、精神障害者観の根底をなしている広義の世論とはいかなるものか。事例4と5は、その端的な現れです。4と5を比較対照してみると、文面から受ける印象としては、4は暗い、5は明るい。4は匿名、5は実名。
 4の匿名表記について。店員にけがをさせたのが普通の男なら、当然に実名報道なんですが、なぜか匿名。それは、刑法には心神喪失者はその罪を問われないという規定があり、新聞では、精神障害者(精神疾患患者)とみられる容疑者が逮捕された場合は匿名報道にするというルールがあります。
5は実名。温かいタッチで、世の中の善意に感謝している岩手太郎さんの喜びを描いていますね。たいてい笑顔の写真付きのこうした記事は、連日新聞に載っています。例えば「精神障害者がごみ拾いをして頑張った」みたいな。ですが、問題は、なぜ普通の人が音楽を聴いたり、ごみを拾っても記事にならないのに、精神障害者がやると記事になるのか。それは、そこに「精神障害者は善意の心で温かく迎えいれなければならない」という広義の世論があるからなんだと思います。

6.分断された主体

 事例4、5についての考察を総合すると、何が明らかになるか? それは、どちらの記事でも精神障害者が描かれているにもかかわらず、新聞では全く両極端な現れとして描かれている、ということです。人にはいいときも悪いときもある、明の側面もあれば暗の側面もある。いろいろあるのが人なんだと思います。でも、こと精神障害者の場合は、いろいろある人としては描かれません。双方の記事はまったく別世界の出来事でもあるかのような書き分けられ方です。なぜか。記者はそれぞれの記事を意識して書き分けているのではない。むしろ、広義の世論に規定された結果としての現れとして、こうなっているのです。世間一般の通念において、精神障害者とは、未だ「統一的な主体」として認識されていない、断片的な理解しかされていない、ということが新聞というテクストに反映されているのです。広義の世論に規定されて新聞に表徴可能な精神障害者とは、暗=「精神科に通院歴がある匿名容疑者」か、あるいは、明=「ふれあい」や「善意」に支えられ「感謝」する主体としてでしかない、ということです。
 なぜ、精神障害者がこのように「分断された主体」として現れるのかについては、歴史をひもとく必要がありましょう。精神障害者の歴史を一言で言えば、100年前は座敷牢、一昔前は精神病院に一生入りっぱなしでしたが、最近は地域に暮らし通院する時代となりました。制度的にも社会的にも排除されていたのが、最近ようやく地域社会の一員として受け入れられつつあります。つまり、多くの人にとってまだよく分からない存在ですから、実態に即さず断片的かつ画一的なイメージでとらえられてしまう。
 加えて、制度的な観点からすると、精神障害者は現在、精神保健福祉法(入院手続き法)と障害者自立支援法(退院後の福祉サービス体系を定めた法)に、二重に規定される存在です。単純化すれば、事例4に精神保健福祉法(入院手続き法)、事例5に障害者自立支援法が対応します。それぞれの法律は、あんまりリンクしていません。テクスト上での主体の分断は、そもそもが法的な主体の分断をも伴っているという側面も指摘しておきます。
 まだそんな状況ですから、精神障害者は相反する両面として、つまり、「事件を起こす無名の存在」あるいは「社会に温かく迎えいれられるべき一人の人間」として表出される。それに、現実の精神障害者は戸惑うわけです。
 さらに、広義の世論の事例4と5のようなあらわれが、狭義の世論をも規定している。例えば、大阪池田小事件の際における「触法精神障害者を隔離せよ」という世論、一方で、精神障害者がアート作品展を開いたりした際の記事を規定する「精神障害者への理解を深めよう」という世論。精神障害者からすれば、一面において排除され、また一面において善意の眼差しで温かく迎えられるというダブルバインド状態に、いったい自分はどっちもなのにどっちなんだ? と困ってしまいますが、いずれもが新聞に併存し、統一的な思考が欠如している現状があります。
 では、新聞として、分断された主体の統一へ向け、何ができるか? 新聞は、暗黙裏の広義の世論に規定されっぱなしのメディアじゃありません。狭義の世論喚起のみならず、広義の世論だって、変えていけるメディアです。

7.統一された主体へ

 そのために、どうすればいいか? 私は、事例4と5の間に広がるはるかな隔絶を埋める記事が、つまり、「統一された主体」としての精神障害者像を提示する記事が必要であると思います。要するに、新聞記者は精神障害者に対する両極端の画一的イメージに依らず、人としての精神障害者を書けばいいんじゃないでしょうか。具体例として、2007年の連載「自立支援の名の下にⅡ」(全5回)の第1回目を紹介します=事例6。
 この連載は、障害者自立支援法施行から1年を機に、法の理念と現実の乖離を浮き彫りにすべく書かれたものですが、その時の作者(記者)の意図はともかく、テクストとして読むと、ここには「主体の統一」があります。発病時の困難と受診に至るまで(事例4・精神保健福祉法の領域)と、退院後の社会復帰への取り組み(事例5・障害者自立支援法の領域)とが一連の流れとして描かれています。
 私としては、こうした記事が増えていくことが、つまり、広義の世論に規定された記事の枠をちょっとでも飛び越えて一人の精神障害者の全体像を描くことが、本当の意味で精神障害者の主体統一、つまり、断片的な理解から全体的な理解へ、そして、共生社会へとつながっていくのではないかと考えています。精神障害者と共生する社会を築くためには、精神障害者がどんな存在かを理解してもらわなければならない。断片的にではなく、統一的に理解してもらわなければならない。そのためには、新聞は「広義の世論」に規定された「分断された主体」としての精神障害者像を表現するばかりではなく、人としての個別具体的な精神障害者を表現する必要がある。その上で、新聞の「精神障害者と共生する社会を築こう」という狭義の世論喚起は、初めて実効性を伴うと思います。
 なお、事例6の限界は、匿名表記であり、全体的なトーンとして非常に暗い、ということです。私は、彼を、このようにしか書き得ませんでした。

8.結論と蛇足

 結論。文学理論と新聞は無縁ではない。文学理論と精神保健福祉は無縁ではない。新聞と精神保健福祉は無縁ではない。今後さらなるクロストークが期待されます。というわけで、「ジャーナリズム論」を専攻されているみなさん、頑張って下さい。
 蛇足。個々人の置かれた立場と仕事とは無縁ではない。私は新聞記者でありながらあちこちで精神保健福祉に関する講演をするなど個人的な活動も並行してやってます。これには異論ある方もいると思いますが、私の見解は、「自らを語れぬ者が、人のことを記事に書く資格はない」。加えて、新聞という間接的なメディアを介したコミュニケーションに加え、Face to Faceの直接的なコミュニケーションの場がなければ、なかなか理解は深まらない。よって、精神障害がある当事者、家族、保健師ら専門家、一般市民とのネットワーク「盛岡ハートネット」という活動をしています。
みなさんは今、学生という立場ですが、これから社会に出て、いろんな立場に置かれ、選択を迫られることもあることでしょう。そんな時、私の経験と選択が、善し悪しはともかく、なにがしか参考になれば幸いです。
by open-to-love | 2009-10-31 21:15 | 盛岡大講義 | Trackback | Comments(0)
テクストとしての新聞記事 世論とのかかわりから…㊤

 2009年6月25日 盛岡大講義「ジャーナリズム」
 第11回「ジャーナリズムと世論」 黒田大介

 話したいこと:私はその昔、盛岡大文学部英米文学科と岩手大人文社会科学部大学院で欧米文学と文学理論を学び、その後岩手日報の記者になりましたが、近現代史にも関心があり、精神障害者家族としての活動もしています。こんな私としては、文学理論的観点から、テクストとしての新聞記事について考察してみたいと思います。その方法論は、世論に規定されつつも世論を喚起していく媒体である新聞を素材に、そこに表徴された世論(社会・文化・言語的状況)を理解する上で有益と思われます。具体的には、新聞記事における精神障害者の「分断された主体」=精神障害者がまだまだ理解されていない現実の反映=という特徴を、2種のテクストの比較検討に加え、近現代の精神障害者処遇の歴史や法制度も併せて明らかにした上で、新聞における「統一された主体」の提示=理解と共生への一歩=に向けた取り組みなどについて、私なりの見解と実践を示したいと思います。

1.自己紹介

【バイオグラフィー】
1972年 8月 宮城県石巻市出身。石巻高卒、盛岡大卒、岩手大大学院修了
1998年 4月 岩手日報社入社、報道部教育担当記者に
1999年 4月 結婚、釜石支局に赴任
2001年 4月 編集局整理部に異動
2006年
 4月 報道部県警担当に異動
 5月 妻が統合失調症発症
 6月 編集局学芸部家庭欄担当に異動、主夫兼記者になる
2007年10月 精神障害者・家族・関係者・市民の集まり「盛岡ハートネット」結成
2008年
 4月 編集局学芸部文化欄担当(音楽と考古学)
 8月 盛岡市と共催で「自殺対策と多重債務対策の連携シンポジウム」開催
 9月 「こころのシンポジウム」(一関市千厩)にパネリスト参加
12月 「ふれあいin八幡平」で講演「記者として、家族として」
2009年
 2月 「地域生活支援セミナーinにのへ」で講演と対談
 3月 ヘルパー2級研修講師(盛岡市)
 5月 県央地区民生児童委員協議会研修会講師(紫波町)
 6月25日 盛岡大「ジャーナリズム」講義

【岩手日報連載記事】障害問題、女性問題を中心に
2006年8月 「自立支援の名の下に 小規模作業所の現場から」(全5回)
2007年5月 「自立支援の名の下にⅡ 障害当事者らの思い」(全5回)
2007年4月~08年3月 「共生社会へ 障害福祉 岩手の今」(全12回)
2008年1月 「自立目指して 本県出身DV被害者の軌跡」(全6回)

【記事以外の主な論考】①精神保健福祉関係(2006年以降)
「家族会ネットワークをつくろう-家族会活動の現状と課題」(岩家連家族会長会議講演)
「実効性ある連携への諸課題-建前と良心」(多重債務と自殺対策シンポ)
「記者として、家族として」(「ふれあいin八幡平」)
「精神障害者家族として、民生委員に期待すること」(県央地区民生児童委員協議会研修会)
などなど、講演のたびに小論を発表

【記者以外の主な活動】②近現代の社会運動・女性史関係(2001年以降)
『「布施辰治生誕70年記念人権擁護宣言大会」関連資料集』自費出版
『布施辰治植民地関係資料集第1集 朝鮮編』自費出版
『布施辰治植民地関係資料集第2集 朝鮮・台湾編』自費出版
『別冊東北学』第5号に「追悼 櫻井清助」寄稿
東北文化研究センター機関誌『まんだら』に「布施辰治韓国建国勲章受章に寄せて」寄稿
小西豊治著『「押しつけ」憲法論の幻』(講談社現代新書)に協力
『一条ふみ著「山河の溜息」』自費出版
『盛岡学』創刊号に「抵抗の人 一条ふみ」寄稿
『一条ふみ文集復刻vol.1「生き残り運動」』自費出版

 このように、私は「盛岡大を卒業してから新聞記者頑張ってます!」という単純明快な人間ではなく、多様でいささか錯綜した関心領域に生きています。②近現代史関係はここで詳述する余裕がありませんから、興味ある方は図書館とかにあるので、読んでみて下さい。最近、私はもっぱら精神保健福祉関係者向けの講演を頼まれることが多いです。でも、本日は主に文学を専攻されている学生さん、将来はジャーナリストになりたいという思いを秘めた学生さんが多いことでしょうから、文学理論と新聞記事のかかわりに重点を置いてお話ししたいと思います。

2.文学理論について

 まず、文学理論とは何か? 文学理論は文学をよりよく理解するためにある、わけじゃありません。それは、まさに「文学とは何かを考える理論」です。換言すれば、本屋の文学コーナーに並んでいる本が文学である。あるいは、偉大な文学者が想像力を駆使して書いた作品が文学である、みたいな一般通念をアプリオリに前提とせず、人間が言語で思考しコミュニケーションする限りにおいて、あらゆる言語活動が文学たる可能性を孕んでいるという、ざっくばらんな前提の基に、文学をやわらかく考えていこうとする理論の総体です。
 20世紀初頭のソシュール『一般言語学講義』などを源流とする現代文学理論には、ロシア・フォルマリズム、マルクス主義、フェミニズム、構造主義、ポスト構造主義などいろいろありますが、一つ一つ紹介する時間はありません。だいたい私自身うろ覚えです。ここではシンプルに、文学理論の超基本的な概念、フランスの文学理論家ロラン・バルトの提起した「『作者の死』としてのテクスト」という考え方のみ紹介し、その考え方に即して議論を展開したいと思います。ちょうど盛岡大の風丸良彦先生の著書で引用されておりましたし、みなさん、馴染み深いことでしょう。こないだ、私はこの本の書評を本紙「郷土の本棚」コーナーに書きました。とってもいい本ですよ。なんたって、みすず書房です。私は古本屋に行くと、ついうっかり、みすず書房の本を買ってしまうという癖があります。
 ともあれ、バルト曰く「テクストのひとつひとつには、作者の意思とは別に、作者をとりまく社会的、文化的、言語的状況が不可避的に紛れ込んでいる。そう見る時に、作者は死ぬ。…また、読む側の現在の社会的、文化的、言語的状況によっても、その作品は幾通りもの読まれ方が可能になる。つまり、作者によって書かれた小説は、読者に読まれることによって新たに書き直される、その時に作者は死ぬのです」「作者とは、『物語』によって新たな制度を生み出すのではなく、制度を書き写す存在である」(風丸良彦著『村上春樹〈訳〉短編再読』みすず書房、2009年)

3.文学理論で新聞を読むと…

 この考え方を新聞に援用すると、どうなるか。そもそも新聞記事は、文学に比して、作者性が希薄な言語表現です。例えば、下記のような新聞記事を考えてみて下さい。盛岡さんさの翌日の岩手日報1面。大きな写真とともに、その模様をスケッチした記事。業界用語では「えとき」と言います。

 事例1:盛岡市の夏を彩るさんさ踊りは1日、開かれた。初めて出場した同市の会社員盛岡太郎さん(36)は「楽しかった。汗が気持ちいい」と充実の表情。家族で見物に訪れた同市の主婦岩手花子さん(43)は「毎年楽しみにしている」と喜んでいた。

 事例2:盛岡市の夏を彩るさんさ踊りは1日、開かれた。初出場の同市の会社員盛岡太郎さん(36)は「超つまらなかった」と吐き捨てるように語った。家族で見物に訪れた同市の主婦岩手花子さん(43)は「あほくさかった」と語った。

 事例1みたいな記事は、みなさん、読んだことがあろうかと思います。「いつ、どこで、だれが、何を…」という新聞記事のスタイルにおいては、例えジョイスが書こうと石川啄木が書こうと、そんなに大差ありません。一方、事例2のような新聞記事は、読んだことがありますか? まず、無いことでしょう。当たり前ですよね。新聞記者に「さんさ踊りに出場していかがでしたか?感想聞かせてください」と取材を受けて、本心はともあれ「超つまらなかった」という人は、まずいません。仮にそういう方がいても、記者はそのまま記事に書かない。別の人からコメントを取り直し、「面白かった」とか無難なことを言った人の方を記事に活かすでしょう。よしんば記者が「超つまらなかった」と記事を書いたところで、デスクに直される。うっかりデスクが直さずこういう記事が載ったら…おそらく、読者の抗議電話が殺到して、本社は大変なことになります。
 ただ、事例2のような新聞記事は存在しなくとも、そのような文学作品はあり得るのです。小説「さんさ踊り殺人事件」の冒頭です=事例3。

 事例3:暑い夏だった。男は、盛岡の街を歩いていた。賑やかな太鼓の音が響いてきた。さんさ踊りだった。男は何の感興も示さず、裏通りを歩き、バーの扉を開けた。一番奥のカウンターに、赤いドレスの女が腰掛けていた。男は女を一瞥した。その憂いに満ちた瞳。男は離れた位置に座り、デュポンのライターでマルボロに火を付けた。女は…

 ちなみに、いうまでもなく「さんさ踊り殺人事件」という小説はありません。不肖私の創作です。が、もしあったとして、その冒頭にこんなハードボイルドな一文があっても、違和感なく読めます。これを読んで「男は何の感興も示さず」というくだりに対し「さんさ踊りにケチを付けた」と怒る読者はまずいません。すると、小説とは、新聞よりも自由なテクストである、といえましょう。もっとも、この小説自体の文学的価値はともあれ、ですが。
 新聞記事とは、こうした意味において、読者が共感可能な一定の領域=これを、私は広義の「世論」と呼びたいのですが=の枠内において、記者が表現し得るテクスト、と定義し得ます。換言すれば、どんなささやかな一文であっても、いやむしろ、日報であろうと産経であろうとアカハタであろうと聖教新聞であろうと、ささやかな一文にこそ、そこに世論が反映されているのが新聞記事というテクストの特性ではないでしょうか。バルトの言にならえば、新聞記事とは文学よりも「作者(記者)をとりまく社会的、文化的、言語的状況」が明瞭に「紛れ込んだテクスト」であり、その紛れ込み具合が明瞭に見てとれるテクストです。さらに記者とは「世論を書き写す存在である」とも言えましょう。こうした文脈で新聞というテクストの特性を定義すれば、それは「さんさ踊りがつまらない、とは書かないテクスト」となります。なぜ書かないか。それは、「広義の世論」に規定されているからです。
 余談ですが、こうした方法論をフェミニズム文学理論にパラフレーズすると、より分かりやすいかと思われます。フェミニズム文学批評の手法を援用して新聞記事に表徴された世の中の男性中心主義を読み解く文化批評が盛んです。文学離れが華やかりし昨今ですから、文学におけるファロセントリスムを摘出するより、身近な新聞記事を素材にその女性差別的な表現を問い直した方が、分かりやすく、実効性もありますよね。

4.狭義の世論と広義の世論

 さて、みなさん、そもそも世論とは何でしょうか? 世論という言葉は、けっこう使われます。例えば、新聞は世論を喚起する。世論に応えるため記者は頑張って取材する。共同通信の世論調査によると。世論を無視した政治家の行いを新聞が批判する…「世論」とは、こんな感じでよく使われる言葉です。が、私は、世論を2種に分けて考えてみたい。一つは上記のような、一般的に用いられるような意味合いにおける狭義の世論。もう一つは広義の世論、すなわち、記者の表現行為を暗黙裏に規定している世論。言語コミュニケーション用語を用いれば、狭義の世論はメッセージとしての世論。一方、広義の世論とは、コンテクストとしての世論とも言えます。
 「狭義の世論」と「広義の世論」は、相関関係にあります。新聞は、世論に規定されつつも(広義の世論)、世論を喚起する(狭義の世論)媒体です。
 狭義の世論のレベルで考えると、岩手日報と産経新聞とアカハタと聖教新聞が喚起する世論はずいぶん違いますよね。選挙の時期はなおさらです。でも、広義の世論に、各紙とも大差ありません。会社や記者が中立公正をを旨としようと右だろうと左だろうとスピリチュアルだろうと、例えばさんさ踊りのような、なんてことない記事を書く場合には、せいぜい「熱気に満ちた」「楽しんだ」などと形容詞の差があるだけです。「さんさ踊りがつまらない」と書かないし書けないのは、広義の世論の規定によります。記者と読者が暗黙裏に前提としている社会的・文化的な共通認識において、新聞は「さんさ踊りがつまらない」と書く必要性が認められないのです。
 なお、誤解なきよう。私はさんさ踊り含め、お祭りは好きです。バフチン、ラブレー、ドストエフスキーが好き、とくれば、当然お祭り好きであること、言うまでもありません。
(㊦に続く)
by open-to-love | 2009-06-25 20:27 | 盛岡大講義 | Trackback | Comments(0)