精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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カテゴリ:滝沢武久( 86 )

滝沢武久著『家族という視点 精神障害者と医療・福祉の間から』
(2010年10月、松籟社)
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〈ともにあること〉からはじまる〈ともにあること〉への問い

「治る」とはどのようなことなのか
精神障害者は現代日本の「難民」となっていないだろうか
家族として、ソーシャルワーカーとして探り続けた
こころ病む人とともにある、私たちのありかた
by open-to-love | 2010-10-23 22:23 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その75

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

一三 家族(会)は圧力団体たりうるか
 我が国での精神保健向上運動をめざす上で、同様の目的をもって組織化している、とりわけ専門職種、専門家団体の展開する運動との関係についてふれておかなければなりません。
 一様ではありませんが全国の家族会および県連合会、全家連が組織化され始めた昭和三五年から昭和四五年のおよそ一〇年は、個々の病人の看護や病気の知識を吸収していく段階でした。そして昭和四五年から昭和五五年の一〇年は、精神医学会の各種の論議の中、専門家関係者団体などから離反、もしくは行政、医療への不満、そして弱いとはいえ結構批判的言動も出なかったとは言えません。先述したように、模索の時期、雌伏の時期でもあったのです。昭和五五年以降すでに一〇年以上になりますが、現段階より関係者団体や専門職種が拒まなければ、家族会の活動との相互補足的関係をめざすことを強調しておきたいと思います。それは家族会という当事者団体、かつ非専門家集団も、永年の多岐にわたる活動の中で多くの知識や体験を集積してきたわけで、ときには専門家の技法や運動と結果的に類似化、酷似化した形となり、その結果も同様に得られることもあります。地域作業所活動などが精神障害者の地域リハビリテーションとして有効であることは、欧米でもすでに実証ずみです。
 最後に家族会「圧力団体」論について触れておかなければなりません。
 しばしば病院家族会にしても地域家族会にしても、圧力団体化するから設立に反対という関係者がいますが、よしんば単に圧力団体に過ぎぬとしても、現行の精神医療、社会復帰、福祉等の諸制度を変えうる力をもつならばそれはそれで大いに意味があります。他の心身障害者福祉、老人福祉の諸団体にしても、また精神医療関係職種団体にしても、技術や身分の向上あるいは現行制度を変える必要があって団体を組織し活動しているとするなら、それ自体圧力団体化するわけです。現行より一歩でも物事を改善していく諸活動に専門家、非専門家の違いはありません。その意味で、「存在」そのものが直接間接、有形無形の圧力をもつと言っても要はその活動の内容しだいであると思います。それぞれの運動が適当に客観化され、協議され、他団体との連携がなされるなら、圧力団体論議はおのずと問題でなくなると言えます。
 本年六月、精神保健法の見直しがあり、公衆衛生審議会で、あるいは各政党から全家連の意見をきかれました。私たちは精神保健法の中にあった保護義務者条項の撤廃を強く主張しました。多くの関係団体も家族会がこれほど明確に撤廃を主張するとは予想しなかったようですが、その理由はそれほど全国レベルの判断として全国の家族は物心両面で追いつめられていると考えたからです。
 その結果、多くの関係者も何らかの家族支援策が必要だが、かといって保護義務者の代替案もないため当面名称を「保護者」とすることにし、他方で「社会復帰促進センター」として厚生大臣の特別に指名する法人として国の委託事業をすることになりました。五年後に法の見直しをする時、保護義務について再度検討することになっています。このように会の存在、意見を直接、間接アピールすることで圧力団体といわれますが、海外ではロビー活動と称しています。

あとがき
 昔「人生五〇年」と言われていましたが、自分自身その五〇歳になろうとするとき、この本の出版の話が持ち上がりました。今の時代で「五〇歳」はまだ若いといわれますが、奇しくも、私の人生をふりかえると約一二、三年間隔で大きな転機が四回ありました。すなわち、私の始めの一二年は何も知らないごく普通の少年でした。次の一二年は一一歳上の兄の精神病院入院を契機に、心理的、精神的にもまさに疾風怒濤のときであり、中学、高校、大学生活の思春期でした。第三期は、職業としてソーシャルワーカーとなり、精神障害者の兄弟として保健所、リハビリテーションセンター、精神衛生相談センターの社会福祉職員として働き、また人並みの結婚、家庭生活の一二年間であり、第四期は全国精神障害者家族会連合会の仕事に従事した現在までの一三年間です。今期はちょうど国際障害者年活動一〇年余と重なり、四〇歳代のほとんどを両方の仕事に費やしました。
 しかし五〇歳になって、はたして自分に何が残ったかと省みるとやはり〓〓たる思いです。それは三年前に兄が心不全で急死したことです。あの心理的、経済的、精神的極貧のときをくぐり抜けてきたある種の緊張感が変質してきているからです。私にとってばねになったその目標の存在が消えてしまったからです。もし私が運命論者だったらもう少し大仰に感じたかもしませんが、今後は、例えば趣味を味わいつつ生活するとか、再度新しい人生に心を新たにして燃やして生きていきたいものです。しかしそうも言っていられません。
 全国で三五万人が入院しており、通院者、退院者などを合わせると一六〇万余人の精神障害者がいると言われます。実に多くの精神障害者の親、兄弟、親類縁者が、明治以来ひっそりと息を潜めているのです。先年の故山村新治郎氏宅事件の不幸を見るまでもなく、家庭内でのこころ病む精神障害者と家族の状態について何をどうしたらよいか、精神医療やリハビリテーションのため何をしたらよいか、多く悩みつつ世間体に大きくとらわれながら生活をしているのです。
 ほとんどの市民は精神医療のことも社会復帰のことも何も知らされてこなかったのです。我が国の医療全体がそうなのですが、とにかく「依らしむべし、知らしむべからず」でした。今、がん患者にもエイズ患者にも、病名を告知することが論議されています。私は約四〇年近くの精神障害者家族として、またソーシャルワーカーとして民間病院、保健所、社会復帰施設で働いた個人的体験をあえて明らかにすることで、精神医療や社会福祉、リハビリテーションのあり方について、精神障害者とその家族とともに今後も考え続けたいし、これからも少しの勇気と意欲をもって生き続けたいと念願しています。
  平成五年九月

滝沢武久プロフィール:
昭和17年 群馬県前橋市に生まれる。
昭和28年 父の死。
昭和30年 11歳年上の長兄初めて精神病院入院(神経衰弱)。
昭和35年 商業高校中退して上京。カバン製造工となり定時制高校卒業。
昭和36年 日本社会事業大学在学中,都立(定時制)高校事務吏員を兼ねる。
昭和40年 大学卒業後,全国社会福祉協議会内老人クラブ連合会に勤務。
昭和41年 退職後夏から秋にかけ4か月間日本縦断単独自転車旅行。
昭和42年 4か月の民間精神病院実習勤務後,神奈川県三崎保健所3年,相模原保健所3年,小田原保健所3か月,川崎市社会復帰医療センター2年,川崎市中原保健所2年,川崎市精神衛生相談センター2年合計12年半,精神障害者の医療,地域ケアの現場に勤務。
昭和54年9,10月 渡欧,イギリス,ベルギー,西ドイツにて精神障害者地域ケア16mm映画撮影旅行,帰国後全家連にボランティアとして入る。
昭和55年5月 全家連事務局長となり平成3年6月より常務理事。
現在,国際障害者年日本推進協議会(のち組織がえで日本障害者協議会)政策委員長,全国社会福祉協議会心身障害児者団体連絡協議会予算対策委員長。

『こころの病いと家族のこころ』
平成五年十月十日初版発行
平成六年三月二十五日初版第二刷発行
著者  滝沢武久(たきざわたけひさ)
発行者 中央法規出版株式会社
by open-to-love | 2009-12-29 11:53 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その74

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

一二 全国の家族(会)の現状と今後の展望
 いろいろと家族の問題点などを示しましたが、近年、全国各地で新しい状況が展開されつつあります。それは家族がもつ健康な能力としての社会的体験を生かし、活躍する例が増えていることです。また元来、精神障害者はどこも身体の不自由な面があるわけでなく、また知的能力も遜色があるわけでなく、そもそも身体的疾患を中心にした今の精神医療、看護の体系、病院構造、入院生活ルール、治療内容そのものが問題なのです。一時的・一過的精神症状は、現在では薬物による効果が著しいのですが(そのように、専門家でも宣伝している)、やがてなんらかの人間関係面での役割分担、身体ならしなどが大事なのに、そのリハビリテーションの機会が少ないことにも問題があります。国際障害者年の理念と合致する西欧先進諸国の精神医療のみならず、その職業的・社会的実生活体験そのものを含んだ就労社会復帰や地域社会への参加が、本人にとっても人間らしさを保って生きていく条件なのです。地域作業のような社会人大学では、狭義の専門職、医師、看護職、ソーシャルワーカー、作業療法士、臨床心理士などから得る専門知識や体験だけでは、精神障害者の社会生活体験の訓練指導は不十分なのです。こうした場合では、特に表立っての技術をもたぬ年輩のお母さん方の家事、台所などの切り盛りも、退院後の精神障害者の自立生活準備に十分役立ちます。今後ますますこの傾向は強まることと考えられます。
 家族会に集う家族が願う共通の意識の中に、家族個人としてできることは最大にやって、個人では解決しないことは制度や施策として国、県、市、町、村それぞれで対応してほしいという事柄があります。いわゆる陳情や請願行動も家族会活動の重要な役割を占めています。
 そうしたとき、家族個人はその家庭内の実情の一部を相互にアンケート調査などで客観化し、その困難部分の実態を明らかにしつつ、それを根拠に要望すると説得力があります。政治や行政は、しばしばその声の大きいところに素早く反応する傾向があります。今まで精神障害者問題にその当事者である家族や、本人そのものの声はあまり大きくありませんでした。時に起こる事件や事故というつらいニュース報道などに家族の心は萎縮しがちであったのですが、それは一人ひとりの家族が孤立していたからなのです。
 家族会に集まることにより悩んだり苦しんでいるのは自分だけではないことを知り、手をつなぎ合うことにより勇気をもつ、そうすれば声を大にして陳情、請願活動にがんばれるのです。昭和六三年の精神保健法施行を機に、全国一斉陳情、請願活動を全国四七都道府県で実施するようになりましたが、中には県内の全市町村議会に行うところなども出てきています。ようやく国連の障害者の十年の理念である「社会参加と平等」を精神障害者家族が、せめて身体障害者、精神薄弱者福祉と同等程度にと主張し始めたのです。最近、地域や病院におけるデイケアや地域作業を足がかりに、社会生活を続ける精神障害者本人たちの動きが注目され始めました。精神障害回復者クラブとか患者会、ソーシャルクラブと呼ばれていますが、こうした活動と家族会活動は両方とも目的は同じなのですから、可能な限り、こうした本人たちの活動と協同し支援していく必要があります。我が子と家庭内でしっくりいかない場合でも、よその患者本人とは打ち解けて理性的に付き合える、こんな体験ができることも大切です。合同例会や合同レクリエーションなどを通じて、共通な目的のために共に行動することはしばしば相乗効果を生みますし、相互理解への一歩を進めることになるのです。
 かつて家族会の活動の中で、一部の専門家の意見を信ずる人たち(グループ)と、他の家族とその活動の違いでばらばらになったことがあります。その原因は、一時期精神科医の間で起きた論争に、家族会役員が巻き込まれたものでありました。精神医療の知識や社会運動の体験のあまり多くない家族が、一定の情報を確信し、しかも一部の専門家に追随的に行動したのです。別な面で我々家族は患者を良くしたい一心であればあるほど、何かにすがりたい、信じたい心情をもっていますので、良いと思う一つの方法以外を信じたくないだけでなく、他の方法を認めにくくなるのです。
 現在の精神医学で精神分裂病も〓うつ病もその原因が分かっていません。これは多くの精神科医が認めるところです。そして治療技術も向精神薬という精神弛緩を中心とする対症的療法が行われていますが、それ以外は比較的著効がある共通の治療はあまりありません。ですから、ときに信条、信仰、思想、政治的背景の論理が入り込むこともあるのです。私たちは自分の、そして他の家族が抱える患者に、良い治療や影響を与えてくれる医療関係者と、節度をもったチームの一員として付き合っていくことも非常に大事なことです。
 家族はこうした活動体験を通して、どちらかと言えば精神障害者を身内にもった負い目に打ちひしがれ、自分個人や家庭内に内向していた姿勢から、積極的に知識、情報を集め、医療、福祉関係者とともに、いま心病む精神障害者に何が必要かを考え、そして必要な行動を取っていき、やがて社会を動かしていくようになると信じています。
 全国の家族大会のテーマに「家族が変われば社会が変わる」とありましたが、内側では「家族が変わることにより患者も変わる」のです。パール・バックの「母よ嘆くなかれ」にありますように、考えつつの行動のあり方がこれからの家族の将来を示しています。
by open-to-love | 2009-12-29 11:52 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その73

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

一一 社会復帰実践を担う家族(会)
 昭和五〇年代の心身障害児者福祉界はまさに在宅福祉の夜明け時代でした。昭和四〇年代の施設収容の後、逆に地域に取り残された(?)形になった重度、重複障害児者、とりわけ全身性障害を伴う脳性麻痺者などは自らの生存権を主張し、家族の庇護下から、ときには家族との対立関係を超えて脱け出していきました。その歩みは生々しいものです。一方、統合教育問題に発展していった精神薄弱児問題は、多数の養護学校卒業生の対応を含め、急速に地域在宅福祉を志向していきました。これら心身障害児者に対しては、政策的にも年金、手当などの所得保障の面や、地域の在宅訓練会、福祉作業所、施設の社会化や通勤寮の設置、授産施設などが成果を挙げ、他方、福祉工場、多数雇用工場なども在宅、地域福祉を側面から支える役割を果たしました。
 その結果でしょうか、在宅訓練や福祉作業所以外にも、当事者の切実なニーズにこたえるという形で小規模地域作業所が、親の会や養護学校教師や市民ボランティアにより続々と誕生し始めたのです。これに触発を受けた形で精神障害者の地域作業所が地域家族会の延長線上で誕生するに至りました。精神障害は病気だから当然医療がかかわります。専門家としての医師、看護婦らを中心にして主に病院を場として入院治療を行ってきましたが、結果的には長期入(在)院の弊害が表れ出したこともある一方、昭和四〇年代に起きた法改正に伴う地域精神衛生運動などが地域家族会を生み出しました。
 作業所は昭和四三年福岡で、昭和四六年滋賀、京都府下に開設され、昭和四〇年代には全体でその数七か所となりました。その後代表的なものとして、昭和五三年小平市にあさやけ第二作業所が、昭和五四年川崎市にあやめ作業所(私自身直接かかわりましたが)がそれぞれ誕生しています。前者は養護学校教師に、後者は地域家族会によるものです。地域家族会の定例会も最初は病気の治療、再発再入院防止、各種福祉制度の学習などから始まり、デイケアとの交流、退院在宅障害者を受け入れての家族会開催、合同レクリエーションなどを経て、ついには地域作業所開設へと踏み出していけたのです。昭和四〇年代には地方自治体の民生(福祉)部局により補助金制度が導入され、やがて昭和五〇年代になって衛生(医療)部局でも準用、ないしは独自に制度化されるようになりました。今度はそれが一つの刺激剤となって精神障害者地域作業所の開設ラッシュとなり、平成五年度現在では、全国約七〇〇か所に及び、そのうち設立や運営に家族会(役員)が関係するものが約六※、※七割を占めています。その結果、国は家族会関係地域作業所に対し、昭和五九年度から補助金制度導入へと踏み切りました。初年度四八か所(一か所七〇万円)、二年度九六か所(一か所七〇万円)、平成元年度一四二か所(一か所八〇万円)、平成五年度二九四か所(一か所九〇万円)となっています。
by open-to-love | 2009-12-29 11:52 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その72

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

一〇 家族(会)組織の全体的推移と問題点
 昭和六三年に実施した全家連組織調査によると、病院家族会が昭和四四年までは数の上で主流を占めていましたが、昭和四八年からは小規模ながら地域家族会が急速に増加します。発足についての協力スタッフは病院家族会は当然病院スタッフに支えられていることが多い(八〇%)のですが、地域家族会は病院スタッフの協力は三%程度であり、保健所スタッフ五〇%、市町村役場スタッフが二五%を占めます。昭和六三年三月現在、病院家族会二七二会員数(二万五八〇〇世帯)、地域家族会七六八会員数(二万六五〇〇世帯)であり、病院家族会の半数以上が一〇〇人以上の会員を擁しているのに対し、地域家族会の約七割が五〇人未満の会員です。また、財政面をみると、病院家族会では年会費三〇〇〇円以上が四割を超えますが、地域家族会では年一〇〇〇円台が多く、そのため後者は自治体市町村、社協などから援助を受けています。
 活動面をみると、家族会員にスタッフなどだけでの定例会を中心としたものから、要求団体、社会復帰の実施主体などに広がっています。とりわけ対外的活動では、行政、議会への陳情請願(五八%)、家族や患者に対する相談や学習(四三%)であり、近年地域作業所の運営(二六%)が増えています。また、病院、行政の事業などへの参加、市民への啓蒙などがありますが、概して地域家族会のほうが行動的です。全体的に昭和四〇年代は相談活動に重点がかかり、昭和五〇年代は要請、要望活動が重点となり、また直接の社会復帰活動としての地域作業所の運営が昭和五五年以降急速に増加しています。近年の家族会の要望活動の中で声の高いのは、精神障害者福祉法などの制定をして「社会福祉施策を充実させること」が圧倒的に多く、「偏見の除去」や「医療費公費負担」などが続き、「病気の原因や治療法研究」にも期待をしています。また、より具体的な社会復帰事業としては「公立の作業所を設置する」「福祉工場の設置」「精神障害者を雇用している事業所に助成制度を」「職親制度を充実する」「地域作業所を強力に助成する」「職場適応訓練制度の実施」等を望んでいることが分かります。
 病院や地域の定例会のときにのみ集まる(呼びかけに呼応する)のが単位家族会の実態であり、実際集まる家族にも大半は我が子(同胞)に対する病院(職員)、保健所、市町村(職員)等に治療や世話を負っていることへの返礼(義理)の意を含めて参加している感じがあります。もちろん積極的で熱心な発言や姿勢を示す家族もいますし、老齢の両親が我が子を案じ、その回復に一縷の望みをもち、わらをもつかむ思いで出席していることも多くあります。
 こうした会の呼びかけそのものが病院や保健所関係機関職員の働きかけなくしては成り立ちません。家族会員が病院の外来などで勧誘したりするなどの機会は全くないし、ましてちらしや手紙で呼びかけようとしてもその多くは住所氏名など知る機会がなく、かつ患者家族が自ら名乗り出ることはほとんどありません。そんな中で現存の会運営だけに終始し、事務および郵便料等費用負担まで、ほとんど関係者に依存している傾向があります。ただ家族会活動をし続ける家族会員には「すでに長期化し、明らかに快方に向かわないまでもそこそこに回復、やがて退院し社会で他人の最少限の世話程度で暮らしてくれたら」とか、「自分の子どもはともかく、家族会の活動が生きがいである」という感じの役員が増えつつあり、そういう人はとりわけ地域作業所運営や回復者クラブ応援に熱心な役員です。全国的に見ると、単位家族会が常時事務所をもったり、専従の職員(家族員)を置いて活動しているところが少なく、独自に家族会を組織化できないのも問題ですが、それとともに、家族会がすでに二十数年余りたった今も、いまだに新しい家族会の発足時は行政(保健所とか市町村役場)や病院の手を、いわば産婆役として必要とする点も問題です。
 その理由は、率先して精神障害者家族が名乗って単位家族会を組織化するためには、家族会をつくろうと考える一人の家族がまず他の多くの家族たちと出会う機会が必要ですが、現行の医療法、公務員法および精神保健法にも秘守義務があって、いわゆる入院者、退院者、通院医療費公費負担申請者などの名前や住所などが家族には知らされにくいからです。したがって他の家族を外来などの待合室で誘うとか、ビラやポスターで誘う例から発足することも極めて困難です。やはり多くは病院や保健所、町村役場のスタッフなどが他病院、他地区の家族会活動を見て自分たちの病院や地域にも家族会の必要を感じ、あるいは家族に要請されたりして、所属する病院や保健所や機関内で資料を使って最初は家族懇談会とか家族教室の形式をとって家族会づくりをするパターンです。現在の偏見の多い社会、秘密保持義務のある病院や保健所、そして主張の弱い家族(高年で心身ともに疲労の極に達している両親)、これらの三点は相互に絡まり合って家族会をできにくくしているのです。
 それを組織上の問題で言えば、比較的若年の、初期病状患者の家族が入会してこないことです。これは社会およびその家族自身の認識(偏見?)の所産でもありますが、精神病(障害)かどうか、まずその受容ができないうちは、自分の家の子は違う(患者自身も長期慢性化した他の患者を見て、自分はあの患者とは違う)と考え、自分の家の子はそのうち良くなるに違いない、治るのなら家族会に恥をさらして入る必要がないと考えがちです。ときどき一時的に好転した患者の親で家族会にわざわざ「おかげさまで良くなりましたので、もう私たちは家族会に出席する必要がなくなりました」と挨拶にくる人がいます。この初期患者の比較的若い親の時期こそ、家族会での学習などが一番再発、長期療養化防止に役立ちうるはずなのですが……。
 例えば、精神薄弱の発症はその大半が乳幼児期あるいは学齢期に判明します。したがってその親は若く、中・壮年期であり、養護学校児童の親が「手をつなぐ親の会」(全日本精神薄弱者育成会)に入るのはこのころからです。一方精神障害(病)の発症の時期は、本人の思春期、青年期であり、その親は当初精神医療にわらにもすがる思いで依存しますが、そのときすでに大半が初老期(五〇歳代)であり、やがて度重なる再発の後には老年期(六〇歳代)を迎えることとなります。やはり最初は医療を信じていつまでもそれに頼りたい心情なのです。そしてひたすら他の親戚や地域社会(職場等)に隠して問題の解決に当たろうとします(多くの場合周囲からは見え見えで隠しおおせないにもかかわらず、自分では隠しているつもりになっているだけなのですが……)。親はしばしば退職後に諦観ではなくも、ようやく腹を据えてこの病気(障害)に立ち向かおうとすることが多いのです。そうして役員になる人が出てきますが、その結果として、家族会役員は治りきらなかった患者の高齢の親がなることが多いのです。それを皮肉なことに家族会活動を一生懸命にしていてもあまり良くならないと、現象面だけを見て評価する人もいます。
 家族会の組織化上、こうした諸点が大きな矛盾をはらんでいるのです。精神保健相談などに訪れる親は、各種機関に出向く決心をするとき、「清水の舞台から飛び降りる」心境なのです。まして家族会入会(参加)なども「恥ずかしくてたまらない」と、初めは思いつつ、やがて「いや自分だけがつらいのではない」と思う例がしばしばなのです。
 近年は地域作業所が、またそれとともに、市・県連合会役員が未組織地区の単位家族会組織化に多少加われるようになりました。全国レベルでも、ブロックごとに研修会などを開催し間接的に組織化のための物(財政)心(技術と情報)両面で応援、交流できるようになりました。
by open-to-love | 2009-12-29 11:50 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その71

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

九 法改正運動における家族(会)の存在
 振り返ってみれば、昭和四〇年の法改正の主流は明らかに日本精神神経学会や日本精神病院協会などの一部有志の精神科医グループであり、全国に三々五々散らばっていた家族会は、改悪反対運動のいわば旗印として、全国規模の当事者団体であるということで便宜的かつかなり意図的に組織されたふしがあります。もちろん生まれるべくして発足し、主体的な判断をして行動したのでしょうが、周囲の状況や役員のメンバー構成や活動内容から永続的に行政や政治家を動かすに足る組織力をもつ団体ではないと言われました。それはその後の本会の歩んだ道がある程度示しています。
 昭和四〇年代、精神病院告発、大学医局講座制解体などの嵐や、精神医学・反精神医学論争が盛んになるころ、一時期、部分的に病院告発、精神医療批判に同調した動きを見せたこともありましたが、それは長続きしませんでした。むしろ役員同士に批判などが出てきて家族会の足並みが乱れ、家族会の力が鈍化してしまったのです。そのころ我が国の各種福祉領域、とりわけ精神薄弱者や身体障害者の福祉が国の高度経済成長の結果を受け、各種の施設や制度が整備されていったにもかかわらず、です。全家連にとってこの約十数年は雌伏の時代であったと言えます。
 さて、昭和六二年の法改正にどうかかわったか、その評価は別として、事実関係について記しておきましょう。昭和五六年当時、「保安処分」問題で日弁連に招かれた全家連は、精神医療、社会復帰施策の段階的積み重ねをする道が効果的という従来の経過を踏まえ、基本的に「精神医療の改善による問題解決」を一貫して主張しました。そしてそれは弁護士会の主張でもありました。昭和五八年の国の精神衛生実態調査問題で、全家連が、社会復帰施策企画のためには精神衛生実態調査も必要=基本的には賛成と態度表明した段階で、一部弁護士グループと意見および運動の〓〓を来しました。それに続く昭和五九年の宇都宮精神病院リンチ殺人事件をめぐり、弁護士グループはより明快に患者の人権擁護の主張を主軸に告発などに方向づけし、家族会は与党国会議員の集まりである精神障害者社会復帰促進議員懇話会への協力依頼による具体的な社会復帰対策を急がせる方向へ歩みました。そして弁護士グループが国連人権小委員会へ問題提起をした結果、ICJ(国際法律家委員会)、DPI(障害者インターナショナル)の調査団来日となりました。調査団と会った家族会は、日本の政治、行政の仕組みにおける精神医療と社会復帰施策の現実的、具体的改革に的を絞り、それを強くアピールしました。他方、そのころすでにいくつかの行動で政府、与党寄りと見られていた全家連の請願活動は、与党や精社懇議員の立場から見れば、請願の手続きそのものはむしろ野党的方法であり、奇異に写ると評されつつ、従来からのスローガンである精神障害者福祉法制定のための五〇万人署名を集めて国会請願を実施しました。こうした間、国際的世論という外圧に弱い(?)政府は昭和六〇年八月精神衛生法改正を示唆し、国連の場でも小林秀資精神衛生課長が改正を明言しました。はたして何が政府部内で法改正を決意させた動機となったのか依然として不明です。
 そんな訳で、宇都宮精神病院事件の後はガイドライン部会、次いで法改正のための精神保健基本問題懇話会、公衆衛生審議会精神衛生部会などを経て、精神衛生関係二四団体からの意見聴取に際しては、全家連は先の「生活実態調査」から絞り出した社会復帰問題一本に意見をまとめて強調しました。その結果昭和六一年秋までに厚生省内では改正法案作り作業が進められました。改正法文案は当初審議会中間答申などかなりの改革案を盛り込んでありましたが、各省庁間や各種法制度の調整もあって、予算非関連法案としてまとめられ、与党内に設けられた精神衛生法問題小委員会に付されました。小委員会に呼ばれた関係団体は、日本精神病院協会、自治体病院協議会、日本精神科看護技術協会、日本精神神経学会、そして全家連などであり、それぞれの意見を述べました。しかし国会提出された改正法案は、折悪しく大型間接税論議の犠牲となって三月の国会では危うく廃案になりかかり、ようやく夏の国会へ継続審議となりました。全家連としては二二年ぶりの人権と社会復帰を中心とした法改正であり、多少不満足ではあっても是が非でも通さなければと考え、本間長吾理事長を先頭に足繁く精社懇議員(その多くが与党社会部会議員)へ陳情を繰り返しました。他方、野党の社会労働委員会所属議員へは選出地元県連役員が地元私宅や東京の議員宿舎へ電話陳情するなどしました。
 昭和六二年夏、一時日本精神病院協会が罰則規定がやたらに多いなどの理由で成立反対の意向を示したという噂を聞き、与党議員がひるむように見えたこともありましたが、全家連としてはむしろいっそうの波状的陳情を強めました。九月の衆参両社会労働委員会および本会議の舞台裏と壇上ではぎりぎりまで成否が予断できず、時には国会内控室で関係議員に陳情するなどしました。こうして九月一五日の裁決日の傍聴席には、自治労精神医療評議会、日本PSW協会、東大赤レンガ、一部弁護士、医労協、日本精神神経学会、日本精神病院協会、そして本会役員という精神医療史に類例を見ない、従来の運動や諸活動からみれば呉越同舟のようなそれぞれの立場の者が列席する中で精神保健法が誕生したのです。その当時の読売新聞の記事には「政府提出法案は、それまでの隔離主義、入院中心型から社会参加型への転換である。当初は与野党が法案審議に足並みをそろえ、スムースに運びそうな情勢だったが、私立病院の団体が新設の罰則の削除などを急に求めたりしたため、与党内で慎重論が強まった。そんな中で一転して自民党が法案審議に踏み切った背景には、これ以上審議を遅らすと今国会の法案成立が難しくなり、国際的にも大きな非難を浴びることは必至という状況判断があった。そして何よりも約一〇万人が加盟する全国精神障害者家族会連合会を中心とする法律改正派の人たちの強い要請があった」と書かれていました。
by open-to-love | 2009-12-29 10:55 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その70

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

八 昭和五〇年代の全家連運動
 昭和五三年の夏に、それまで三年間中断していた全国大会再開のため、時の理事長川村伊久氏は自分の所属する神奈川あすなろ会会長の旧知、有岡宣子氏や渡辺長四郎神奈川県連会長らに協力要請を続けるとともに、川崎市精神障害者家族連合会あやめ会にも働きかけました。県内保健所、精神衛生センターなどのソーシャルワーカーらも積極的にこれを支援し準備を重ね、横浜市従会館での第一六回全国大会は、開催直前には一部不穏な動きが出るのではないかと緊張しましたが、無事開会できました。
 終了後直ちに次回全国大会は全家連本部が独力で東京で開催することを内々に決めて、早速取り組んだのは、昭和四五年時に〓げた全国大会スローガンであった「精神障害者福祉法」案についての具体的内容検討です。あえて家族会役員および回復者そして身近なソーシャルワーカーのみの委員構成とし、五回ほどの討議を経て「精神障害者福祉に関する基本的見解」を上梓しました。その折、この委員であった乾三郎氏、青野敏夫氏(元理事長)らは、主として身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法文を基にアレンジし、精神障害者福祉法文(案)私案を作成しました。翌年第一七回全国大会は東京代々木の青少年オリンピックセンターを会場として開かれ、メインプログラムは国会議員による公開討論会でありましたが、テーマは「精神障害者福祉法」を五党がどう考えるかというものでした。そこで先述の「基本的見解」および「福祉法文」案を公開発表したわけです。当然のことながら、実際に参加した四党の国会議員は多少の考えの違いはあるにしても、基本的なことは大賛成であり、また来賓席には国政選挙立候補者も参加していました。この大会も盛会となり、本部役員は失いかけた自信を取り戻し、以後の全家連運動の方向や戦術を決める決定打となって成功裡に終わりました。
 翌年は本部事務局を中心に、国際障害者年に向けての精神衛生思想普及キャンペーン全国自動車キャラバンを組みました。先に公益助成金の助成で制作したイギリス、ベルギーなど先進西欧諸国の精神障害者に対する地域ケア社会復帰システムの一六ミリ映画フィルムを持ち、映画と講演会を開きながら二年間かけて約四〇県、北海道から九州、沖繩まで走り回りました。各都道府県庁所在地の繁華街で地元家族会有志と街頭演説やビラ配りを行い、県庁精神衛生主管課、国際障害者年担当課、精神衛生協会、精神病院協会等に地元役員と表敬の挨拶回りを続けました。こうして横浜、東京の全国大会に続き、各県連と全家連との提携事業、組織強化が推進されました。このキャラバンは、総理府の口添えで日本チェーンストア協会からの寄付金によって賄われたものでしたが、続けてトヨタ財団の助成を受け「精神障害者福祉ニードに関する研究」、更には社会福祉開発研究基金よりの助成で「精神障害者の社会福祉施策についての提言」をまとめ、それぞれ出版報告を重ね政策提言活動を実施しました。そして昭和五五年全家連が保健文化賞を、翌年理事長が国際障害者年総理大臣賞を受賞しました。
 その後昭和五八年政権与党の斎藤邦吉元厚生大臣を会長とする「精神障害者社会復帰促進議員懇話会」が結成されました。日本船舶振興会の助成で全国八ブロック家族指導者研修会が二年、その後映画と講演会を三年継続実施する間、昭和六一年車両競技公益資金財団からの助成で、昭和五八年厚生省が全国で実施した精神衛生実態調査を上回る家族一万余、回復者二四〇〇の当事者の「生活実態調査」を実施しました。また国の厚生科学研究費により、社会復帰、福祉に関する家族会活動のあり方を中心とする研究調査報告を出すとともに日本身体障害者雇用促進協会からの委託で、「精神障害者の雇用職業に関する研究」なども始めました。
 なお、この精神障害者社会復帰促進議員懇話会結成に至る経過では、昭和五五年の五党による国会議員の公開討論の後、出席者の与党代議士が幹事となって政権与党内に働きかけ、当初九名の参加者を得たものでした。自民党内の派閥の関係もあって数名の厚生大臣経験者のうちから長老格の斎藤氏が会長となりました。本来、家族会運動のような当事者団体の運動は、信仰、信条、思想を超え政治的には超党派であるべきだという声を何度も聞きましたし指摘も受けましたが、他の四党内での呼びかけがなかったことにより与党議員のみの構成になりました。一方野党議員の中には、予算を獲得するには与党でなければ残念ながら効果少なしと助言してくれた人もいました。事実こうした極めて政治的な判断がなされたとき、政治学者である京都大学の高坂正堯氏らを中心とするトヨタ財団研究の「高度産業国家における利害関係団体の福祉に関する研究調査」の調査対象となったのを参考にして、三菱財団の助成を受け「精神障害者の社会復帰・福祉施策形成基盤に関する研究調査」を実施しました。このような当事者活動の研究・調査の意味は、その結果を根拠にして運動、活動の基本にしてきていることにあります。
 全家連結成以来、地域家族会や県連合会では市区町村や県当局からの補助金や委託事業など財政的支援を少ないながらも徐々に獲得する中で、本部財政はずっと会員の会費と一部自転車振興会の助成で月刊「ぜんかれん」誌発行を続けてきましたが、先に挙げたいくつもの研究調査を中心にしてようやく昭和五九年、国の直接的助成に近い、厚生科学研究の委託を受けるようになりました。更に他の精神薄弱者、身体障害者の社会福祉全国団体がそうであったように、昭和六二年には国庫補助事業である小規模作業所運営助成金配分を、本会が受託実施するようになりました。
by open-to-love | 2009-12-29 10:54 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その69

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

七 全国家族会の成立
 先述したように昭和三〇年代には、病棟ごとに、あるいは月一回程度病院全体の患者家族を集めて、主として病気についての知識、入院生活の状況などを、やがて薬剤の大量普及後は自宅などでの服薬の重要性などについて、医師による講義を中心に主治医による患者の個別指導(説明)も交え、病棟家族懇談会や家族教室が開かれました。中にはこれらを病院家族会として定期的に開催したりしたところがいくつかありました。また当時は結核患者自治会の活動が擡頭したこともあって、入院患者自治会が職員側からの意識的な働きかけで組織されたところもありました。
 昭和三五年代以降の向精神薬の普及後は、精神医療界の一部に患者の退院後の治療継続協力者としての家族の役割の重要性を認識する声が高まり、病院家族会を開催、指導する医師が増えました。京都府の北部では地域の有志らによって地域家族会が誕生したのもこのころです。一方、向精神薬が精神医療界に革命的効果をもたらしたのも初期の間で、しばらくするとすべての患者に確実に効くわけではなく、鎮静、安定効果は良いけれど、その反面ホスピタリズム(施設病)への始まりでもありました。副作用などが顕著に出てきたりし始めた中での対応策としての家族への働きかけでもありました。
 昭和四〇年、すったもんだのあげく、精神衛生法はいちおうの改正となりました。市民からの措置申請、警察官通報、自傷他害のおそれの概念など患者の人権面では後退という意見もありましたが、他方、通院医療費公費負担、地域精神医療、精神衛生(保健)相談員などの面では進歩という意見があります。この法改正および多少の予算獲得に初期の全家連の役員が大蔵省陳情までやったことは、精神医療界で初めて圧力団体として存在しえたということで、極めて意味が大きいのです。昭和四〇年九月第一回の結成大会が新宿の安田生命講堂で五〇〇余名の参加者を得て開催されましたが、この「全家連」誕生はマスコミにも大きく報道され、世間に大きな反響を呼びました。いわゆる偏見の強い日本社会の中で、当事者である家族が勇気をふるって立ち上がったのです。
 結成大会にこぎつけるまでの、すでにあった烏山病院家族会、松沢病院家族会、湊川病院家族会、国立武蔵病院家族会、国立肥前療養所家族会、友部病院家族会、栃木県精神障害者援護会、京都府精神衛生推進懇談会などの全国組織結成や予算獲得運動への役員の努力はたいへんなものでした。会の性質そのものが医師、精神科ソーシャルワーカー、その他病院職員などの指導や要請により家族がいわば集められてしだいに「会」の形を整えていったもので、必ずしも家族自らが目標をもって活動や運動を始めたわけではなく、昭和四〇年一月の調査でも、家族会のある病院は、公立七、その他一六、そして地域家族会がいくつかといった程度であって、それを一気に全国団体としてまとめたのですからその旗振りをした役員たちの不安も大きかったことは想像に難くありません。
 その後、朝日ルポから始まる精神病院スキャンダル事件は、日本精神神経学会内論争や病院告発という形で、精神病院治療の見直しが提起され始めました。一方、このころ急速に保健所、市町村単位の地域家族会が法改正の影響を受けて小規模ではあるが増えていきました。保健所、市町村の保健婦やソーシャルワーカーのバックアップがあり、呼びかけられ、誘われ、働きかけを受けてしだいにグループが形成されていきました。そして着実に例会を重ねてきました。しかし、全国レベルの家族会である全家連の活動の中心は発足以来役職員の活動として、機関誌「ぜんかれん」の定期的刊行と全国大会の開催に終始し、本部レベルでは全国から寄せられる相談の対応に精いっぱいでした。激動する精神医療界の論争や家族会の主体的価値判断を求められる状況の中で、厳しい選択が迫られることとなりました。すなわち精神医療の荒廃はその医療構造と医学教育が問題であるとする見方から、当時大学医局内で無給医局員の診療拒否、東大インターン問題、精神科医師連合の国家試験ボイコットなどで、医局講座制度と学術発表など学会のあり方や体質が問われていましたが、それが波及し精神衛生各関係方面に大きな影響を及ぼすことになりました。そのあおりで、全家連も主催者として加盟している第二一回全国精神衛生大会が、精神科医全国共闘会議の公開質問状を受け開催不能となりました。その余波もあって、昭和四九年岡山大会での記念講演をした医師に傾倒した役員と、その反対の考えをもつ医師グループおよび一部役員との意見の違いが表面化、昭和五〇年京都で開かれた全国大会は紛糾し、プログラムは中断して終わり、その責任をとって当時の理事長が辞任するなどしました。全国から参加していた多くの家族は詳しい事情が分からずに壇上の混乱を見守るしかありませんでした。そのためその後約三年間、全国大会は開催できなかったのです。
by open-to-love | 2009-12-29 10:53 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その68

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

六 地域家族会成立の経過
 保健所や市町村を中心とする家族会の誕生は昭和四〇年の精神衛生法改正により、保健所が地域精神衛生活動の第一線と規定されてからですが、それ以前にもいくつか地域家族会が誕生していました。昭和三五年に京都府北部に我が国初の地域家族会が生まれました。背景としてはこのころ精神病院増床施策が展開中であり、まるで雨後の筍のように新精神病院開設や、他科医の転向がめざましく、また当時、向精神薬も出回り始めたとはいえ、まだインシュリンショック療法や電気ショック療法が多用されていました。多動や反抗的な患者ほど持続的にこの療法を受け、一般的に言って患者は治療を喜ばず、いわゆる医師との信頼関係というより管理治療(しかも指示的)が中心でした。精神病院の看護者も屈強な男性が採用され、無資格で病院職員としての地位も低く労働条件も悪く、その反動なのか、患者に威圧的態度で接しがちであることなど問題点の多い状況でした。それでいて、国民健康保険の本人家族は七割負担の時代で、それほど豊かでない家族には長引きつつある入院医療費は苛酷ともいえる負担でした。その対応策でもないのでしょうが、このころ地域の保健所を窓口に措置入院の経済措置拡大策が始まり、深い事情を知らない多数の家族たちには一見恩恵でした。
 その中に入院医療費公費負担を求め、リーダーシップを取る家族たちが出てきて家族会を結成していきました。栃木県でも友部病院家族会に触発され、昭和三七年に「やしお会」の芽生えが見られ、群馬県東村では国保医療費負担要求運動の形で地域家族会が誕生したと言われています。昭和四三年くらいになると、一時急速に使われた向精神薬の限界も見え始めるようになりました。改正された精神衛生法により設置された精神衛生センターや、在宅精神障害者の通院医療費公費負担制度、保健所の相談や訪問業務の結果が、従来の入院中心精神医療に飽き足らない医療関係者、保健所、センター関係者をして地域精神衛生活動の声を大きくならしめたのです。
 このように地域精神医療への期待が高まると、家族への働きかけも単に病院のみならず、保健所や市町村単位で通院公費負担申請患者家族や直接相談、訪問に関係した患者家族、措置入院患者家族と、いわば関係深い家族へ働きかけていく形で、地域家族会が生まれ出したのです。それとともに、従来の病院(入院)中心主義治療に飽き足らない家族が、地域家族会にポツポツかかわりだしました。それは病院家族会ではどうしても主治医、看護職員などに対し直接患者が病院に世話になっているため、治療内容や面会時間の少なさなどの不満表明も遠慮がちとなり、十分納得できぬ家族や、あるいは自分自身で何かもっと役立つことはないかと考える、より自立的、行動的な家族が、地域家族会で活動し始めたことによります。したがって、地域家族会の活動は、病棟懇談会など病院家族会活動プラス直接の社会復帰的働きかけや市町村などへの制度改善要求などが追加された活動となります。いわば自助(セルフケア)から当事者団体(セルフグループ)化するようになったと言えます。
by open-to-love | 2009-12-29 10:52 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)
滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その67

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

五 病院家族会成立の経過
 家族会などの当事者団体の成立は、自主的な集まりの組織であるべきだと、行政や医療にかかわる関係者は言いますが、それは建て前上のことです。現実的には、精神障害者やその家族たちが偏見の強い日本社会の下で、わざわざ名乗って家族会運動に参加する場合はごくごく稀れです。ほとんどの病院家族会の発足過程を見ても、まず家族の患者への働きかけが必要だと考える医師や看護婦、ソーシャルワーカーなどが担当の病棟もしくは病院全体の家族へ、病気の症状や対応の仕方、服薬の重要性などについて教育指導することから始まっています。家族の側でも肉親が治療を受けている、世話になっている医療スタッフからの働きかけであるし、早く治したい一心で、できるだけそれらの会合には出るようにします。だがそうした家族ばかりではなく、できるだけ隠したいと考える人、長い療養の結果もう治らないのではないかとあきらめかけた人はあまり出席しません。何回もの入退院などの中で、少しでも変化のある人、またはあきらめきれない家族が懇談会や家族会に出席することになります。
 そして病院家族会の会合には、例えば病棟別家族懇談会という形で、医師、看護者、ケースワーカー、事務員と当日呼びかけに応じた家族(数人から数十人まで)が集まります。医師が教師役となって病気の症状や服薬の大切さ、継続療養の意味などを述べるのが初歩的段階、次いで外出、外泊時など家庭での生活管理、患者本人との接し方、在宅療養の留意点などが指導されます。集まった家族の多くはまず、自分の子や兄弟姉妹の病状や問題点にどう対応するか、おずおずと質問します。その質問はしばしば非常に具体的で個別であるため、参加している他の家族は反射的に自分の患者(家族)問題と区別しようとします。「うちのより病状が軽い(重い)から参考にならない」と。すなわち客観的共通点から学ぶより個別的、主観的視座をとりがちとなります。しかしそうした家族も何回かの会合に出ると少し余裕もでき、他の家族の話も聞き、比較判断することもできるようになります。また会合に何回か出ているうち、いくつかの世話役が回ってきます。そうした体験を恐るおそる繰り返すうちに、役割分担をしだすのです。
 病院家族会員は、ほとんどがその病院に身内を入院させてもらい世話になっているわけですから、「待ち時間が長く、面接時間が少ない」「主治医になかなか会えない」「薬以外の治療はどうなっているか」「喉が乾いて水ばかり飲んでいるが薬の副作用ではないか」「どんな状態になったら退院できるか」「はたして本当に治るのか」「働けるようになるのか」「社会復帰の訓練はどんなことをしてくれるのか」などたくさんある病院の治療関連問題に関してはなかなか率直に質問できないことが多いのです。「先生たちもいろいろと努力してやってくれるのだから」「この病気は難しいのだから」との考えもさることながら、やはりこの人たちに世話になっているという気持ちが強いせいでしょう、あまりはっきりとした質問も出てきません。病院家族会の限界はこの辺にあります。昭和四〇年全家連発足時に結集した家族会は、国・公・私立の病院家族会が中心でした。
by open-to-love | 2009-12-29 10:51 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)