精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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カテゴリ:精神分析( 3 )

ヴィクトール・フランクル

ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl,1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリアの精神科医、心理学者。著作多数。

来歴
 1905年ウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。
 ウィーン大学医学部精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を兼任。「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。精神科医として有名であるが脳外科医としての腕前も一級であった。
 第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られた。この体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。よく誤解されるがフランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点ですでにその理論はほぼ完成しており、はからずも収容所体験を経て理論の正当性を実証することができたと言えよう。
 極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。
著作
* 『夜と霧』 霜山徳爾訳、池田香代子新訳 
* 『死と愛』 霜山徳爾訳 各みすず書房
* 『時代精神の病理学』 以下5冊共「フランクル・セレクション」みすず書房
* 『精神医学的人間像』宮本忠雄,小田晋訳
* 『識られざる神』佐野利勝,木村敏訳
* 『神経症Ⅰ』宮本忠雄,小田晋訳
* 『神経症Ⅱ』霜山徳爾訳
* 『フランクル回想録―20世紀を生きて』 山田邦男訳  以下8冊は春秋社
* 『それでも人生にイエスと言う』山田邦男,松田美佳訳
* 『宿命を超えて、自己を越えて』山田邦男,松田美佳訳
* 『「生きる意味」を求めて』諸富祥彦監訳
* 『制約されざる人間』山田邦男監訳
* 『意味への意思』山田邦男監訳
* 『意味による癒し ロゴセラピー』山田邦男監訳
* 『苦悩する人間』山田邦男,松田美佳訳
* 『生きがい喪失の悩み』 エンデルレ書店,1982年、絶版、巻末に詳細な書誌

研究・関連書
* 『人生があなたを待っている  夜と霧を越えて』全2巻
ハドン・クリングバーグ・ジュニア みすず書房、2006年  逝去時までの評伝
* 諸富祥彦『どんな時も、人生には意味がある フランクル心理学のメッセージ』PHP文庫,2006年
* 諸富祥彦『人生に意味はあるか』講談社現代新書 2005年
* 諸富祥彦『生きがい発見の心理学』新潮社 2004年
* 諸富祥彦『生きていくことの意味』PHP新書 2000年
* 諸富祥彦『どんな時も、人生に“YES”と言う』大和出版 1999年
* 諸富祥彦『フランクル心理学入門 どんな時も人生には意味がある』コスモスライブラリー 1997年
* 山田邦男『生きる意味への問い―V・E・フランクルをめぐって』 佼成出版社 1999年4月
* 山田邦男編『フランクルを学ぶ人のために』 世界思想社,2002年
* 斉藤啓一『フランクルに学ぶ』日本教文社, 2000年
* 宮地正卓『運命・自由・愛―フランクルの生きる意味随想 街角の哲学』 中央法規出版 2002年
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

※フランクル『夜と霧』は名著です。ブログの「管理人所蔵書籍」にも収録しています。(黒田)
by open-to-love | 2009-03-24 22:37 | 精神分析 | Trackback | Comments(0)
カール・グスタフ・ユング

 カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875年7月26日 - 1961年6月6日)は、スイスの精神科医・心理学者。深層心理について研究し、分析心理学の理論を創始した。

 スイス、ボーデン湖畔のケスヴィルでプロテスタント牧師の家に生まれる。少年期は己の内面に深い注意が向けられ、善と悪、神と人間についての思索に没頭し,学生時代はゲーテ、カントやニーチェの著作に感銘を受けた。内的な基盤を持たない形式的な信仰というものに疑問を感じ、牧師という職を継ぐことを特には望まず、かわって生理学的な知識欲を満たしてくれる医学や、歴史学的な知識欲を満たしてくれる考古学に興味を抱き、友人と活発に議論を交わし、やがて人間の心理と科学の接点としての心理学に道を定めた。精神疾患の人々の治療にあたるとともに疾患の研究もすすめ、特に当時不治の病とされた分裂病(統合失調症)の解明と治療に一定の光明をもたらした。ヒステリー患者の治療と無意識の解明に力を注いでいたフロイトと一時親しく意見を交わした。1948年に共同研究者や後継者たちとともに、スイス・チューリッヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎と伝統を確立した。またアスコナで開催されたエラノス会議において、主導的役割を演じることで、深層心理学・神話学・宗教学・哲学など多様な分野の専門家・思想家の学際的交流と研究の場を拓いた。

 精神科医であったユングは、当時の精神医学ではほとんど治癒できなかった各種の精神疾患に対する療法の確立を目指し、ピエール・ジャネやウィリアム・ジェームズらの理論を元にした心理理論を模索していた。フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したユングはフロイトに接近し、一時期は蜜月状態となるが、徐々に方向性の違いから距離を置くようになる。
 ユングがそのキャリアの前半において発表した「連想実験」は、フロイトの「自由連想」法を応用して、言葉の錯誤と応答時間のズレ等を計測し、無意識のコンプレックスの存在を客観的な形にしたということで、科学的な価値を持ち、フロイトもそのために初めは喜んでユングを迎え入れた。両者の初めての邂逅において交わされた対談は10時間を超し、以後両者は互いに親しく手紙で近況や抱負、意見を伝えあった。しかし、数年の交流のうちに、両者の志向性の違いが次第に浮き彫りになってきた。フロイトは無神論を支持したが、ユングは神の存在に関する判断には保留を設けた。またユングはフロイトとアドラーの心理学を比較、・吟味し、両者の心理学は双方の心性の反映であるとし、外的な対象を必要とする「性」を掲げるフロイトは「外向的」、自身に関心が集中する「権力」に言及するアドラーは「内向的」であるといった考察をし、別の視点からの判断を考慮に入れた。ユングは歴史や宗教にも関心を向けるようになり、やがてフロイトが「リビドー」を全て「性」に還元することに異議を唱え、はるかに広大な意味をもつものとして「リビドー」を再定義し、ついに決別することとなった。ユングは後に、フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであるが、自分の言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝庫」のようなものである、と例えている。
 ユングの患者であった精神疾患者らの語るイメージに不思議と共通点があること、また、それらは、世界各地の神話・伝承とも一致する点が多いことを見出したユングは、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(集合的無意識)が存在すると考え、この共通するイメージを想起させる力動を「元型」と名付けた。また、晩年、共時性(シンクロニシティー)の概念を提起した。

ユング心理学の特徴
 ユング心理学(分析心理学)では個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、さらに普遍的無意識の分析へと段階を移し、能動的想像法も取り入れられる。能動的想像法とは、自発的な心的構えを準備して待ち、イメージが表れるのを促すものであり、思考よりもイメージ化を得意とする芸術家等に勧められた。ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している唯一の現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる。
 夢の分析はフロイトが既に重視していたことであった。しかしユング心理学の夢解釈がフロイトの精神分析と異なる点は、無意識を一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピストが対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることによって、クライアントの心の中で巻き起こっていることを治癒的に生かそうとする点にある。
 ユングはフロイトとの決別以後、しばらく方針を探しあぐねていたが、それでも治療を続け、徐々に、クライアントが無意識の流れに沿って語るに任せること自体が、治療的な意味をもつのだと見いだすに至った。また、彼が以前から抱いていた、古代への学問的好奇心に端を発した神学的な知識も、応用された。ただ、彼は人生の方向を決めるのは自分ではなく、クライアントであるとし、クライアントの無意識的諸力の創造性を信頼した。

 ユングは、東洋哲学からも影響を受けている。特に、任地の中国で東洋哲学の影響を受けたキリスト教宣教師リヒャルト・ヴィルヘルムに出会い、その影響を深めた。 実際、ヴィルヘルムとの共著には、中国仏教に関して次のような記述もみられる。

「私の患者には、一人の中国人もいなかったのですが、彼らの心的発展を研究して得たものは、何千年来東洋の最もすぐれた精神の持ち主たちが苦労して切り開いた教えと実によく対応していました。」

 また、日本のユング心理学はその心理臨床において箱庭療法を積極的に取り入れたことでも知られている。
 ユング心理学は芸術的・宗教的色彩の濃い題材に切り込んでいったため、分析的・科学的でないと評価される事も多いニューエイジ運動に影響を与えたが、これらの運動のなかには、ユングの考案した概念や用語を流用しているものの、ユングの理論とは異なる自己解釈を展開している事例もよく見られる。ユングは宗教に心理学的な考察を加えたが、あくまで個人の内的な経験という側面における価値を認めるというものだった。彼は宗教組織のドグマや集団化には強い懸念を表明している。ドグマは個人の内的体験から注意を背けてしまうきらいがあり、また集団化はル・ボンの群衆心理に照らし合わせてみても、むしろ個々の道徳的水準を低下させるものだとした。一方で彼は宗教を考察の対象から外すことにも疑問を呈した。彼は諸々の宗教の中に、無意識の象徴的表現をしばしば見いだした。

ナチズムや反ユダヤ主義の勃興に対する姿勢
 ナチスが政権を取った1933年、ドイツ精神療法学会が改編されることになりヒトラーに反対したユダヤ人のエルンスト・クレッチマーがその会長を辞任。新たに設立された国際精神療法学会の会長にユングが就任した。これをもって、ユングはナチスに加担してクレッチマーを追い落としたと一部に言われた。 後にユングは精神療法という学問分野を守りたかったので非ユダヤ人である自分が会長職を引き受けたと述べている。 彼は実際、ナチスからの影響を逃れるために国際精神療法学会の本部をスイスのチューリッヒに移し、ドイツ国内で身分を剥奪されたユダヤ人医師を国際学会で受け入れ、学会誌にユダヤ人学者の論文が掲載されるように図ってもいる。
 けれども、ナチスが国際精神療法学会に干渉してナチスへの忠誠を誓うマニフェストが学会誌に掲載されたために会長のユングは激しく非難された。ユングはこの非難に対しては即座に反論したものの、今日に至るまでユングとナチズムとを関係づけ、非難する意見は存在する。
 しかし、ユングはユダヤ系の師フロイトにも支援の意図について打診しており、長年にわたってユングの秘書を務めたユダヤ人アニエラ・ヤッフェによれば、「ナチスへの対応には甘いところがあった」が、ユングはナチスの反ユダヤ人政策には明確に反対しており、ユダヤ人のドイツ脱出支援活動にも関与していたそうである。
 また、ユングが戦前において、人々の群衆心理への傾倒、及びそれに伴う暴力性の発現に対して警鐘を鳴らしていた記録や、ヒトラーに関連した事象がもたらす危険性について警告していた記録も残っている。

ユングと超心理学
 ユングはその学位論文『いわゆるオカルト的現象の心理と病理』において、従妹ヘレーネ・プライスヴェルクを「霊媒」として開かれた「交霊会」を扱ったこと(ただしこの論文では神秘的要因ではなく精神の病理的状態に帰されている)、また錬金術や占星術、易などに深くコミットしたことにより、オカルト主義的な傾向を見て取られ、また新異教主義的な人々からその預言者とみなされる傾向がある。これにはおそらく母方のプライスヴェルク家が霊能者の家系として著名だった出自も影響していると思われる。また「集合的無意識」や「元型」などの一般の生物学の知見とは相容れない概念を提起することによって、20世紀の科学から離脱して19世紀の自然哲学に逆戻りしてしまったという批判がある。またフロイトもユングとまだ訣別する前に、「オカルティズム」を拒絶するよう強く求めた。
 一方で、ユング自身は、夢に見られる元型に関して、遺伝に関連づけて言及していたくだりがある(『分析心理学』)。無意識に蓄えられている遺伝情報は莫大であり、人の心性がそれを基礎にしているからには、その生み出すものも、その起源をはるか過去に遡ることができるとする解釈も可能であり、遺伝情報内の大量の経験データの中には、人に平均して訪れる体験の体系も含まれていると考えた場合、元型の普遍性も説明できるであろう。また、そうした無意識内容を生み出す傾向、というユングの説明の付与は、人間が普遍的な基盤に立脚しながらも、決して固定された構造ではなく(これが生物学的な本能にしばられた動物と違う点である)、変化の可能性を秘めていることを示唆している。無意識と意識の調停作業はユングの言う「個体化」に結実する。
 ただし19世紀末から20世紀初頭の状況は、一方では精神医学を極めて機能主義的に捉えることのみが科学的であり「心の治癒」といったものを語ることは出来ないという流れがあった一方で、アカデミズム以外でオカルティズムの大流行があったのみならず、ウィリアム・ジェームズのような学者も心霊主義の実験に乗り出すなど、心の問題に関するアプローチは現在以上に定まらないところもあった。こうした問題に関してユングに批判的であったフロイトも、そもそも性理論を打ち立てるのはオカルトの「黒い奔流」に対する「堅固な城塞」を築かねばならないからだという動機を口にしており、こうした問題に必ずしも安定した姿勢で臨んだばかりいたわけではなかった。またユング自身はきわめて厳格に学問的な方法論を意識して研究を進めていたという主張もあり、こうした点について決定的な評価を下すことはまだ難しいといえる。

著作
 ユングの著作は、『ユング全集』にほぼ全ての重要な論文(単行本を含む)が網羅されている。全二十巻の構成となっている。ドイツにおいて、『 Gesammelte Werke von C. G. Jung 』 (Walter Verlag) として出版されている(「GW」 と略する)。英語版は、ユングの監修の元に翻訳が行われている(『 The Collected Works of C. G. Jung 』)。

代表的な著作としては、以下のものがある。
* 『転換のシンボル』 Symbole der Wandlung, 1912, +1950, GW Bd.5.
* 『心理学的類型』 Psychologische Typen, 1921/1950, GW Bd.6.
* 『心理学と宗教』 Psychologie und Religion, 1940/1962 (GW Bd.11).
* 『アイオーン』 Aion, 1950, GW Bd.5-2.
* 『心理学と錬金術』 Psychologie und Alchemie, 1944/1952, GW Bd.12.
* 『ヨブへの答え』 Antworf auf Hiob, 1952/1967 (GW Bd.11).
* 『結合の神秘』 Mysterium Coniunctionis, 1955/1956 GW Bd.14.
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
by open-to-love | 2009-03-20 20:01 | 精神分析 | Trackback | Comments(0)

ジークムント・フロイト

ジークムント・フロイト

 ジークムント・フロイト(ドイツ:Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、オーストリアの精神分析学者。オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。
 非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残した。それらは、現在においても次々と新しい角度から研究されている。
 フロイトの提唱した数々の理論は、のちに彼の弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えた。
 弟子たちは、フロイトの考え方のどこかしらを批判した上でこれを受け継ぎ、様々な学派に分岐し、それぞれ独自の理論を展開していった。

生涯
 1856年、オーストリア帝国・モラヴィアのフライベルク Freiberg(現チェコ・プシーボル w:Příbor)でアシュケナジーである毛織物商人ヤーコプ・フロイト(45歳)の息子として生まれる。
 母親はブロディ出身のアシュケナジーであるアマーリア・ナータンゾーン(1835–1930)で、ユダヤ法学者レブ・ナータン・ハレーヴィの子孫と伝えられている。同母妹にアンナ、ローザ、ミッチー、アドルフィーネ、パウラがおり、同母弟にアレクサンダーがいる。このほか、父の前妻にも2人の子がいる。モラヴィアの伝説の王w:Sigismundとユダヤの賢人王ソロモンにちなんで命名された。そのため、生まれた時の名はジギスムント・シュローモ・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)だが、21歳の時にSigmundと改めた。
 家族は1859年、フロイト自身が3歳のときにウィーンへ転居。1866年(10歳)にシュペルル・ギムナジウムに入学した。
 1873年(17歳)ウィーン大学に入学、2年間物理などを学び、医学部のエルンスト・ブリュッケの生理学研究所に入りカエルやヤツメウナギなど両生類・魚類の脊髄神経細胞を研究し、その論文は、ウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。
 またフロイトは、脳性麻痺や失語症を臨床研究し論文でも業績を残している。これらは彼がすでに、脳の構造と人間の行動、さらには心的活動に深い関心を抱いていたことを物語る。やがて彼は、脳の神経活動としての心理活動を解明するという壮大な目的を抱いたが、当時の脳科学の水準と照らし合わせると目的へは程遠いという現実にも気づいていた。
 しかしながら、フロイトは終生、脳と心の働きの連関を「科学的に」解き明かすことを研究の主旨とし、目標とした。したがって、目標達成の可否はさておき、そうした原点を無視して、フロイトの方向性を「科学ではない」などと早計に断じることはできない。
 1881年(25歳)ウィーン大学卒業。1882年(26歳)、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢う。彼は知的好奇心が旺盛であり、古典やイギリス哲学を愛し、シェークスピアを愛読した。のちの彼の著作に多く引用されるシェークスピアに関する知識は、この時代に培われたといってよい。
難しいことを平易に書きこなす美文家であり、また非常に筆まめで、友人や婚約者、後には弟子たちとも、親しく手紙を交わした。
 なかでも1887年(31歳)から1904年(48歳)の17年間の長きにわたって、親友である耳鼻科医ヴィルヘルム・フリース(Wilhelm Fliess)と交わされた文通は、そっくりそのままフロイトにとって自己の構造や精神分析学の基礎を見い出していったプロセスであり、ちょうど後世に精神分析を志す者たちが精神分析医になるために行う訓練分析にあたる自己省察を、フリースを相手に突き詰めていったものとしてたいへん価値がある。
 1885年(29歳)、パリへ留学し、ヒステリーの研究で有名だった神経学者ジャン=マルタン・シャルコー(Charcot,J.M.)のもとで催眠によるヒステリー症状の治療法を学んだ。このころの彼の治療観は、のちの精神分析による根治よりも、むしろ一時的に症状を取り除くことに向かっていた。この治療観が、のちの除反応(独:Abreaktion)という方法論につながっていく。
 1886年(30歳)、ウィーンへ帰り、シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を精神分析(独:Psychoanalyse)と名づけた。
 1895年(39歳)、フロイトは、ヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。今日で言う心的外傷やPTSDの概念に通じるものである[2]。 これに基づいて彼は、ヒステリー患者が無意識に封印した内容を、身体症状として表出するのではなく、回想し言語化して表出することができれば、症状は消失する(除反応独:Abreaktion)という治療法にたどりついた。これは当時隆盛になりつつあった物理学の「エネルギー保存の法則」をも参考にしている。この治療法はお話し療法と呼ばれた。今日の精神医学におけるナラティブセラピーの原型と考えることができる。

 自然科学者として、彼の目指す精神分析はあくまでも「科学」であった。彼の理論の背景には、ヘルムホルツに代表される機械論的な生理学、唯物論的な科学観があった。脳神経の働きと心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の存在はおろか、その働きについてもすべて実証的に説明できると彼は信じていた。しかし、彼は脳神経に考察を限っていたわけでもなかった。当時の脳細胞の研究は一段落ついており、かわって心理学や、当時の流行病であり謎でもあったヒステリーの解明が新たな挑戦課題となっていた。彼はその挑戦とともに、ヒステリーの解明の鍵であった「性」という領域に、乗り出していったのだった。彼はギムナジウム時代に受けた啓蒙的な教育からして、終生無神論者であり、宗教もしくは宗教的なものに対して峻厳な拒否を示しつづけ、そのため後年にユングをはじめ多くの弟子たちと袂を分かつことにもなった。
 やがて彼の関心は心的外傷から無意識そのものへと移り、精神分析は無意識に関する科学として方向付けられた。そして、自我・エス・超自我からなる構造論と神経症論が確立した。
 自身がアシュケナジーであったためか、弟子もそのほとんどがアシュケナジーであった。また当時、アシュケナジーは大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ。彼は臨床経験と自己分析を通じて洞察を深めていった。『夢判断』を含む多くの著作はこの期間に書かれていった。フロイトは日中の大部分を患者の治療と思索にあて、決まった時間に家族で食事をとり、夜は論文の編纂にいそしんだ。夏休みは家族とともに旅行を楽しんだという。
 アーリア人ゲルマン人で代々ルター派牧師の家系出身であり、かつ永世中立国スイスのドイツ語圏に属するチューリッヒ大学講師カール・グスタフ・ユングに特別の期待をかけ、ユングも初めはフロイトを深く敬愛した。
 フロイトの著作『夢判断』は、はじめ読者が限られていたものの、ユングがこれに目を通し、フロイトの主張を支持することを決意したという。
 1910年『国際精神分析学会』創立時、フロイトはユングを初代会長に就任させ、個人的にもしばらく蜜月状態ともいうべき時期が続いたが、無意識の範囲など学問的な見解の違いから両者はしだいに距離を置くようになり、1912年には訣別(フロイト56歳、ユング37歳)し、1914年にはユングは国際精神分析学会を脱退した。
 フロイトは第一時世界大戦後、多数の患者を診ることになった。
 1923年(67歳)、喫煙が原因とみられる白板症(ロイコプラキア)を発症、以後死に至るまで口蓋と顎の癌手術を33回も受ける。16年間に及ぶ闘病生活にもかかわらず、強靭な精神力から著述、学会、患者治療に超人的活動を続けた。
 1938年(82歳)、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツがアシュケナジーを学会から追放した時、ユングは自身が会長を務める『国際心理療法医学会』の会員としてドイツ帝国内のアシュケナジー医師を受入れ身分を保証すること、学会の機関紙にアシュケナジーの論文を自由に掲載することの2点を決定し、フロイトに打診した。だが、フロイトは「敵の恩義に与ることは出来ない」と言って援助を拒否、この為、アシュケナジーの医師たちは仕事を失い、強制収容所のガス室に送られ亡くなった。フロイト自身はロンドンに亡命したが、この亡命に関しては、弟子たちがしきりに勧めていたものの、フロイト本人は最後まで逃亡に反対していたという証言がある。
 1939年(83歳)、末期ガンに冒されたフロイトはモルヒネによる安楽死を選択し、ロンドンで生涯を終えた。最後の日々を過ごした家は、現在、フロイト博物館になっている。
 フロイト自身の子供たちのなかで、アンナ・フロイトが父の仕事を引き継ぎ、児童心理学の世界で活躍し、これが晩年のかれの慰めのひとつになった。

孫:ルシアン・フロイド(画家)
孫:クレメント・フロイド(著述家・ブロードキャスター・政治家)
曾孫:エマ・フロイド(ジャーナリスト)
曾孫:ベラ・フロイド(ファッションデザイナー)
曾孫:マシュー・フロイド(メディア王で、ルパート・マードックの娘と結婚。また甥のエドワード・バーネイズは広告産業の生みの親の一人である)

主な著作
 邦題は訳者によって異なる場合がある。( )内はドイツ語の原題。なお、英語訳のリストについてはFreud's Bibliographyを参照のこと。2009年現在『フロイト全集』全23巻が岩波書店で刊行中。
* 『ヒステリー研究』(Studien über Hysterie)ヨーゼフ・ブロイアーとの共著, 1895年
* 『フリースへの書簡集』1887-1904年(With Robert Fliess: "The Complete Letters of Sigmund Freud to Wilhelm Fliess",Belknap Press, 1986)
* 『夢判断』(Die Traumdeutung)1899年(出版1900年)
* 『日常の精神病理学』(Zur Psychopathologie des Alltagslebens),1901年
* 『性理論に関する三つのエッセイ』(Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie),1905年
* 『ジョークと無意識との関連』 (Der Witz und seine Beziehung zum Unbewußten),1905年
* 『トーテムとタブー』(Totem und Tabu),1913年
* 『ナルシシズム論』(Zur Einführung des Narzißmus),1914年
* 『快楽原則の彼岸 / 快原理の彼岸』(Jenseits des Lustprinzips),1920年
* 『自我とエス』(Das Ich und das Es),1923年
* 『錯覚の未来』(Die Zukunft einer Illusion),1927年
* 『文明への不満』(Das Unbehagen in der Kultur),1930年
* 『モーゼと一神教』(Der Mann Moses und die monotheistische Religion),1939年
* 『精神分析入門』(Abriß der Psychoanalyse),1940年
* 『系統発生的幻想 - 転移神経症概観』(1983年発見の手稿)
ハーヴァード大学による出版案内

評価と業績
 フロイトは、マルクス、ニ-チェとならんで20世紀の文化と思想に大きな影響を与えた人物の一人である。しかし、彼の理論に対しては生前から批判も絶えず、彼の業績をどの程度評価するかは未だに議論の対象になっている。当時の常識とは180度異なる見解をとった意味で、コペルニクス、ダーウィンとも並び称される。イギリスの王立の科学協会から、ニュートン、ダーウィンに続いて三人目となる科学的評価も受けている。また、シュールレアリズム運動を率いた作家たちはその美術運動の理論的基礎をフロイトに求めるなど精神分析の登場は20世紀文化史における一大事件といってもよいだろう。
 正常か異常かを問わず人間の心理は共通同一の原理で動いており、人の行動には無意識的な要素が作用していると考えることは、自身の合理性を疑わない19世紀の知識人を驚かせた。フロイトは、催眠状態での暗示によって、被験者が実験者の促した行動をとり、かつなぜその行動をとるのかしばらくわからずにいた事実から、「無意識」の行動における影響について着想を得たのだった。
 フロイトは当時得体の知れない流行となっていたヒステリーの治療にあたり、患者が「おしゃべり」をすることで症状の軽減が見られることに着目し、こうして「自由連想法」が生まれた。
 フロイトの「力動論」はエネルギー保存の法則を元にしているとも言われる。患者の症状は無意識に抑圧された内容の形を変えた表れである、ととらえ、ヒステリー患者たちが身体的な症状部位に関する言葉、関連したエピソードを想起するに至ってから症状から回復することも確かめられた。
 また、戦争帰還兵達との臨床経験や娘の一人の死を通じ、独:Todestriebすなわちデストルドー(死の欲動)あるいは タナトス(死の本能)についても考えるようになった。(参照:生の本能・死の本能)
 フロイトがこだわった点、彼の精神分析理論の科学性については疑問の余地がある。カール・ポパーは実験やデータなどの反例による理論修復の機会を拒否する精神分析論の独善的な姿勢を批判している。フロイトの精神分析は、「無意識の仮説」によって解明されるべき問題行為が、推理的方法を用いる、一人の”客観的証人(分析者)”にとってのみ意味を持ち、”本人”にとって意味を持たないという、正義と才能の確実な保証の無い分析者による「独裁」が行われる危険性を産み出した。自身の理論への一方的とも言える還元という問題を、精神医学に上乗せした根源とは、無神論者でユダヤ人であること、そして金銭面と社会情勢の影響によって、更に彼の男性的な欲動によって、どうしても権力的なものを求めなければならなかった事によると思われる。
 しかし、フロイト自身がこの精神の病理という分野に大きなスポットライトを当てた業績は誰にも否定できないものがある。フロイトの時代の医学では精神病理の治療はほとんど進んでおらず、脳内のメカニズムを解明する可能性はほとんど存在しなかったのだ。一方でフロイトが、良質な科学者がそうであるように、現象を重んじ、しばしば理論を修正していっていたという意見がある。彼の判断の基礎には臨床的な経験があり、彼はそれ等を重んじたのである。そのこと自体は称賛に値する。
 しかし、現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえない。その理由としては、嗜好性の強い独特の性的一元論に代表される、およそ通常の現代人の感覚にそぐわない違和感のある内容という事があげられる。性的一元論は、そもそも彼自身の心の病理からくるとする意見もあるが、当時のヴィクトリア朝時代の抑圧性の非常に強い時代にあっては、まさに紳士を自認する人間たちが性的な領域を否認することに、フロイトは欺瞞を感じたのだった。性理論の形成に関しては、当時の抑圧の強い時代において、フロイトがその観点の強調に革命的意味を持たせていたことを念頭に置く必要がある。また、例えば心的外傷(トラウマ)といった考えは、現代においても通用する。
 だが、性理論への偏向自体はとりもなおさず、フロイト自身の政治的な立場から自身の主張を一つのものの見方に限ってしまうことになり、科学者としての彼の姿勢に非難があがる結果にもつながった。さらに、それ以後の精神分析や心理学の発展により、フロイトの主張とは異なる新たな見解や方法が生み出されてきた歴史的経緯もある。
 フロイトは自身も語るように一介の開業医ではあったが、精神病理に対する治療のアプローチとして心理的な側面を発見したのは一種の革命に近いものがあったといってよいだろう。科学といえば唯物論に偏りつつあった当時の風潮の中で、人間の心理に主眼を置いた視点の重要性は、見逃すべきではない。彼は「愛」について唱えていたのだという意見があり、それははからずも彼がその晩年において、人の一生を「仕事」と「愛」に集約していたエピソードからもうかがえる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
by open-to-love | 2009-03-20 19:46 | 精神分析 | Trackback | Comments(0)