精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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カテゴリ:考古学・歴史( 9 )

岡田靖雄著『日本精神科医療史』(医学書院)

(B5判、288ページ、2002年9月発行)

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歴史に学び,21世紀の精神科医療を展望する

 日本精神神経学会が創立100周年を迎えた2002年8月に,わが国の精神科医療史研究の第一人者である著者が大部分を書き下ろした力作。豊富な資料と,この上もなく深い歴史認識により,1)江戸時代以前,2)江戸時代,3)戦前,4)戦後を語る。わが国の精神科医療は21世紀,どのように変革されるべきか。

目次

第Ⅰ篇 江戸時代前
 第1章 奈良時代
 第2章 平安時代
 第3章 鎌倉・室町時代

第Ⅱ篇 江戸時代
 第1章 医説を中心に
 第2章 治療・処遇など

第Ⅲ篇 戦前
 第1章 文明開化
 第2章 精神病者監護法の前後
 第3章 精神科病院と精神病学との発達
 第4章 呉秀三と精神病院法
 第5章 敗戦まで

第Ⅳ篇 戦後
 第1章 精神衛生法の制定とその後
 第2章 現在史

付章 精神科医療史研究の意義と課題

日本精神科医療史年表

あとがき

事項索引

人名索引

岡田靖雄:1931年生まれ。1955年医学部を卒業して、翌年医師となる。東京都立松沢病院、東京大学医学部、荒川生協病院に勤務した。精神科医療史研究会世話人。
by open-to-love | 2011-01-30 20:45 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)
ノーマライゼーションと障害者の人権…鈴木勉

1◆反ナチズム・平和思想としてのノーマライゼーション

 知的障害がある人々に対する新たな福祉的対応の方向性を、ノーマライゼーションという造語で表現したのは、デンマークのバンクーミケルセンでした。
 バンクーミケルセンは、コペンハーゲン大学在学中に反ナチズムのレジスタンス運動に参加して捕えられ、強制収容所に投獄された体験をもっています。ナチス支配から解放された後、彼は復学して卒業し、デンマークの社会省の職員として採用され、知的障害者の福祉行政を担当することになります。当時、知的障害者は、なかには1500床以上というような巨大施設に終生収容され、本人や家族の了解なしに優生(断種)手術が実施されていましたが、彼はこのような処遇の実態に深く心を痛め、知的障害者の施設での生活は「ほんとうに悲惨で、ナチスの強制収容所とすこしも変わらないもの」と感じていました。
 その一方で、1951年から52年に設立された知的障害者の親の会は、わが子に対するこうした非人間的な処遇を改めるよう、強く政府に求めて活動していました。バンクーミケルセンは、親の会の活動に個人的に協力していたこともあり、社会大臣宛てに提出する要請書の起草を依頼されました。1953年に提出された要望書のタイトルに「ノーマライゼーション」(デンマーク語ではノーマリセーリング)を使用したのが、この言葉のはじまりです。
 なお、バンク−ミケルセンによればノーマライゼーションとは「イクォーライゼーション(equalization)であり、ヒューマニゼーション(humanization)です」とも述べ、要請書のタイトルを決めるとき、これらの用語もあげて検討したのですが、「親の会の願いを一番よく表すものとして、結局ノーマライゼーションという語に落ち着いたのです」と述べています。
(以上の引用は、花村春樹訳・著『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンクーミケルセン−その生涯と思想』ミネルヴァ書房、1994年)
 このようにノーマライゼーションとは、歴史的に見るならば、知的障害者の親の会から発せられた問いに対する、バンク−ミケルセンの協力の産物として成立した概念であり、それは第二次世界大戦中デンマークを占領したナチスへのレジスタンス運動の経験をふまえて、知的障害者に対する「隔離・収容・断種」政策と、かつてナチスがユダヤ系市民や障害者たちに対して行った「隔離・収容・絶滅」政策との思想的同根性を鋭く指摘するものとなっています。つまり、ノーマライゼーションという福祉の新しい原理は、ナチズムを支えた人間観への根本的批判を背景として、知的障害者がおかれていた反福祉的現実に対する平和ー福祉思想として登場したのです。

2◆ノーマライゼーションの国際的展開とその意義

3◆ノーマライゼーションに含まれる2つの要素
(1)「ノーマルなくらし」の実現
(2)「ノーマルな社会」づくり

4◆「能力のちがい」による差別的処遇からの解放のために

5◆「この子らを世の光に」ー糸賀一雄の重症心身障害児観

【シリーズ・障害者の自立と地域生活支援□1□】
ノーマライゼーションと日本の「脱施設」
障害者生活支援システム研究会編(執筆・鈴木勉、塩見洋介ほか)かもがわ出版、2003年7月
by open-to-love | 2008-06-02 19:25 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)
第2章 神々と悪魔 下

流れに逆らって

 魔女狩り・異端狩りという蛮行―20万人以上(主に女性)が、魔女狩りの時代に処刑された―の果てに、悪魔憑きなるものへの疑問が表立って呈されることになった。医療の立場からこの疑いを表明した古い文献の一つは、オランダのアルンヘム出身の軍医ヨハネス・ヴァイアーの『悪魔の詐術について』(1563年)である。高齢者、独居者、無学者に発症した病がいともたやすく魔女術と誤認されるとヴァイアーは警鐘を鳴らす。彼の考えによれば、なるほど悪魔は人間の行動に影響を及ぼすかもしれないが、その力は神に手綱を握られているので、苦しめることのできるのは、黒胆汁質者など、想像力が乱れがちな人々だけである。魔女が告白する大罪は自らが空想したものであり、その想像は幻覚剤や夢の産物である。同じく、その罪状ー突然死、不能、穀物の不作をはじめとする災忌―は純然たる自然事である。魔女とされた人々は、同情と治療の対象であり、恐怖と懲罰の対象であってはならない。
 『魔女術の暴露』(1548年)の著者であるケント州出身のレジナルド・スコットは、ヴァイアーを踏襲して、魔女は存在するのかという同様の疑問を投げかけた―主としてこの懐疑論に異議を唱えるために、正統スコットランド長老教会派であったジェームズ王は『悪魔学』(1597年)を著わしたのである。この時代あたりから英国国教会の指導者たちは、悪魔憑きの実例と考えられてきたものを疑問視するようになったが、この騒ぎがカトリックとピューリタンに利用されることを懼れていたため、悪魔憑きとされていたものは代わりに詐欺か、その種の信徒による、狂信と無知から来る支離滅裂な空想として貶められるようになった。同様の理由で英国国教会は悪魔祓いの活用をやめる。
 医師たちも疑いを表明したー超自然の力が狂気を引き起こす可能性そのものを全般的に疑ったのではなく、個々の事例を裏付ける証拠を疑った。1603年、エドワード・ジョーダンは、他の3名のロンドンの医師とともに証言台に立ったが、その被告エリザベス・ジャクソンは14歳のメアリー・グラヴァーに魔女術をほどこした罪を問われていた。メアリー・グラヴァーが苦しみはじめていた「発作は…恐ろしいものであったので、まわりの誰もが彼女は死ぬと思った」。彼女は言葉を失い、一時的に失明し、左半身は無感覚となり麻痺状態になった。古典的な症状といえる。だがそれは呪縛なのか、病気なのか。
 当初グラヴァーに治療をほどこした王立医師会の医師たちは、彼女の無反応に接すると、誰もが予測できるように、そこには何か「自然の力を超えた」ものがあると考えた。しかしこれは病気だと異議を唱えたジョーダンが、その所見を主張した著作の雄弁な題名は以下のごとくである。『〈子宮の窒息〉と称する疾患に関する小論―悪魔憑きもしくは超自然の力なるものに疑義を呈すため近来起こった出来事に拠って著す。人体の示す奇妙なる諸種の行為と感情は、通念では悪魔の咎に帰せられているが、実際は本然の因を有し、本疾患を伴うことを論じる』(1603年)。ジョーダンはグラヴァーの症状を「子宮の窒息」、または単に「子宮」と称している。要するに「ヒステリー」である。消化阻害や窒息感といった症状は、子宮の病理を指し示すものであった。ガレノスの教えに忠実な彼の主張によれば、子宮の不整によって生じた「毒素」が全身をめぐり、四肢、腹部、さらには脳にも障害を引き起こし、発作や痙攣性舞踏などの原因となるのであり、しばしば行われる悪魔憑きという誤解は、「子宮の窒息」として正しく説明されなければならない。ジョーダンの第一の関心は、自然現象としての説明を提出することにあった。
 ジョーダンのような医師の介入により、ひとりの女性が悪魔の弟子と決めつけられることをまぬかれて、そのために彼女の命は救われたといえるだろう。引き換えにこの女性は、贋の彼女として「詐欺」の罪を問われたかもしれない。以後何世紀ものあいだ、「ヒステリー症」の女性は、刑罰を受けることはなかったものの、これまで「魔女」が被ったのと同じくらいひどい烙印を捺されることになった。女性嫌悪の内実は残り、外側の診断のみが変わったのである。フロイトは友人ヴィルヘルム・フリースに宛てた露骨な手紙の中で、自分は昔日の魔女狩りにたずさわった人々のことがよく理解できると記している。

啓蒙的見解
 スコットやジョーダンが示したような見解に耳を傾ける教養人が次第に増えてきた。ヨーロッパ大陸での三十年戦争(1618−48年)とイギリスの「大内乱」(1642−51年)は、宗教と政治の過激派を社会の秩序と人身の安全をともに脅かすとして断罪する強烈な反動を引き起こした。
 非難の砲火を浴びたのは、再洗礼派教徒、原始メソジスト教徒、無立法主義者(聖霊が自らに宿っていること、「純粋なる者にはすべてが純粋である」ことを信じる人々)。教会と国家の秩序をあわせて攻撃したそのほか我流の聖人たちである。その無法な教えは、聖書学、神学、悪魔学だけでなく、医学の立場からも糾弾された。この増長した預言者どもは頭がおかしいのであり、彼らに「降りている」のは霊感ではなく空言であるのだ。
 医師とその支持者は、宗教上の過激派と完全な狂人は近しいという指摘を行った。両者ともに、うわ言、痙攣発作、すすり泣きとむせび泣き、そのほか類似の症状を示すではないか。「狂信」は精神病理のひとつの徴候として解釈された。「熱狂」が癲癇に重ねられもした。体液説を信じる医師は黒胆汁過多をあげつらった。一方、新しい機会論哲学によれば、宗教によって恍惚と痙攣が発生するのは、炎症を起こした神経繊維か、血管閉塞か、失調した内蔵から頭部へと上昇して判断力をくもらせる有毒の気体のためなのであった。このような立場をとるトマス・ウィリス―17世紀の王党派の国教徒で「神経学(ニューロロジー)」という用語の考案者ーは悪魔の存在をばっさり切って捨てた。いわゆる憑依は、すべて神経と脳の欠損に帰着するのである。とりわけ1650年以降になると、教養人士は魔女術から脱していた。それは悪魔の策略ではなく、個人の病気か集団ヒステリーなのである。同じように18世紀において治安判事は、メソジスト派の集会で絶叫し気絶する改心者は精神病院に送りこむのが適切であると見なしたーそれとは反対にジョン・ウェスリーその人は、魔女術と悪魔憑きはともに存在するという考えを保持していた。
 イングランドでは、1630年代になっても、サー・トマス・ブラウンはどの優秀な医師が、魔女は実在するという証言を法廷で行っている。ヨーロッパの他の地域では、悪魔学にかかわる論議が長いあいだ行われていた。1700年前後にドイツ語圏ではこの問題を解明する試みが数多くなされたが、その中心にいたのがプロイセンのハレの医学教授として名高かったフリードリヒ・ホフマンである。1693年にイェーナでは、エルンスト・ハインリヒ・ヴェーデル博士が、「亡霊は、人間が想像で思い描いた虚構であり、自然の法則に反する」と述べた。その一方でホフマンは、悪魔は動物精気を通じて魔女に働きかけると論じ、その弟子もまた悪魔の影響は心身双方へ及ぶと明言した。
 オランダ共和国、フランス、イギリスでは、ホフマンの時代までに名医ならばすべて、信仰がもたらす憂鬱を完全に自然科学によって説明していた。熱烈なニュートン主義者であったニコラス・ロビンソン博士は、クエーカー教徒をはじめとする非国教徒の幻視に関して、それが単なる狂気であり、「熱を帯びた脳の発する強烈な刺激」のため引き起こされたと論じた。リチャード・ミード博士の『メディカ・サクラ』(1749年)は、悪魔のしわざとそれまで考えられてきた憑依やその他の病に合理的な説明を与えた。そのような考えは「俗信であり…女子供の怯えである」。
 その次の世代では、イングランド中部の開業医で啓蒙思想を鼓吹していたエラズマス・ダーウィンが、狂気を悪魔のしわざと考える民間信仰がいまだ根強いことに脅威を感じていた。彼は『ズーノミア』(1794年)をはじめとする著書で、地獄の業火と地獄堕ちを説くウェスリー派を非難した。「こけおどしを好むメソジスト派の宣教師が、このような恐怖を説きおおせて、愚かな聴衆の上であぐらをかいている。この種の狂気にさいなまれた哀れな患者はしばしば自殺する」。自らは信仰をもたなかったダーウィンは、「良心の咎め」から宗教的狂気に陥り、絶望と死へいたった悲惨な患者の病歴を引用している。

  昔この界隈の牧師だった某氏は、苦行のために自らの身を痛めつけ
 はじめた。…彼には妻と幼い子供がいたけれども、私はこの症状は治
 らないと思った。宗教が関わっていなければ、家族の中でのふれあい
 と責任感が精神異常の発症を押しとどめたかもしれなかった。彼は狂
 人収容施設へ連れてゆかれたが効果はなく、帰宅後も自らを打ち傷つ
 けることをやめず、こうした苦行と長期の断食の末に衰弱死した。…
 いかなる蛮行、殺人、虐殺も、こうした精神異常を世界にもたらした
 ことはなかった。

 かくして宗教的狂気が―いわば人間の行いに介入する超自然の力の存在を信じることいっさいが―精神病理の問題になったのである。

狂気の世俗化

 プロテスタントと対抗宗教改革の神学、ルネサンスの魔術、再生した反異端改革運動、これらによって進んだ学知的な悪魔研究が、超自然を信じる古来の民間信仰と結びついて生じたのが魔女狩りだった。17世紀半ば以降は、体制側はこのような教説を棄てていた。科学以前の非合理と思われただけでなく、社会秩序に保障を与えるものではなかったからである。魔女の訴追はやみ、庇護がはじまった―とはいえそれは「古きに代わる新たなる魔女」として、乞食、犯罪者、浮浪者などを新たな犠牲とすることであった。ジョン・ロックは『キリスト教の合理性』(1694年)で、宗教であっても理性に合致しなければならないと主張した。
 このように宗教的狂気を病理現象として考えた啓蒙主義を奉じる自由思想家たちは、その結果、信仰全般を病理と考えるにいたった。要するにこれがずっと後の時代のフロイトの立場でもある。神はひとつの幻影、信仰は「願望充足」であり、信じることは、確かなように見えても、神経症的欲求を満たす投影にすぎないために、抑圧された性欲の昇華や死の願望といった観点から説明されるべきである。宗教を精神病理へと還元するフロイトは、キリスト教信仰を病める脳髄の厭わしい分泌物と断じたヴォルテールやディドロのような、フィロゾーフのなかでも痛烈な一派を髣髴させる。
 今日、教会は、幻視、憑依、悪魔祓いの実在を、原理としては依然受け容れたままである一方、妄信と詐術には深い疑いを抱いている。そこでローマ・カトリックや英国国教会の信徒が悪魔に襲われたと述べるならば、困惑に陥ることになる。司祭はそうした教えは単なる喩えなのだと信者を説得しようとするかもしれない。それでもこの信者が言い張るならば、心理療法を受けることを勧められるだろう。
 以上に示したように、宗教の枠組みで狂気を捉える解釈への反対意見は、その多くが医学の概念と用語を通して表明された。それと平行して、精神異常者を扱う役割は、聖職者に代わり医師が担うようになった。そこでわれわれは、異常な言動に関するさまざまな医学理論に目を転じることにしよう。

Roy Porter, Madness: A Brief History(Oxford University Press,2002)
ロイ・ポーター、田中裕介、鈴木瑞実、内藤あかね訳『一冊でわかる 狂気』(岩波書店、2006年)
by open-to-love | 2008-04-27 21:56 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)

戦争のない時代があった

『戦争とジェンダー―戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』
若桑 みどり(大月書店、2005年)

序論 理論的前提―家父長制社会とジェンダー

第1章 ひとはなぜ戦うか―若者を死に赴かせる「男らしさ」の文化的な構築

第2章 戦争のない時代があった

1 マリヤ・ギンブタス-女性考古学者の成果
 1921年リトアニアに生まれ、ドイツのチュービンゲン大学とアメリカのハーヴァード大学で学び、現在あらゆる要職を掌握するアメリカ考古学会の権威マリヤ・ギンブタス。彼女は女性の考古学者として、画期的な知見をわれわれにもたらした。彼女によれば、紀元前7000年から5000年という遠い昔、南はエーゲ海、北はチェコ、ウクライナ西部にわたる広い地域に「古ヨーロッパ」文明が花開いていた。「古ヨーロッパ」というのは、地理的には、やや海寄りの南東ヨーロッパとバルカン半島あたりの小アジアの古層をギンブタスが名付けたもので、学問的にはヨーロッパ先史考古学の対象になる。これは新石器から金石器時代への過度期にあたる。その文化は色鮮やかな彩色土器や、数多くの彫像によって知られる。
 古ヨーロッパ人は、農耕を行い、交易を行い、豊かな都市文明もつくっていた。しかし、その文化、彼女が「古ヨーロッパ文化」と呼ぶ文化は、紀元前4000年にヨーロッパ中東部に侵入した半農半牧を営むインド=ヨーロッパ語族の先祖によって壊滅させられる。しかし、その跡形は紀元前2000年紀のクレタ島のミノア文明に生き延びた。20世紀の初頭に発見されたクレタ島の古代文明は、大きな衝撃を考え、エジプトやギリシャを中心に地中海世界を考えてきた歴史家を混乱させた。1980年まで半世紀にわたって発掘しつづけた考古学者ニコラス・プラトンは、「広大な宮殿、大邸宅、農場、整然と区画された都市地区、道路網、聖域、埋葬所」をもつ「高度な文明と独自の文化芸術」に驚愕した。(Nicolas Platon, Kreta, Munchen,1968.15.)
 クレタには、紀元前6000年あたりにアナトリアから入植した小集団が女神をたずさえてきたらしい。女神とともに彼らは農業をもってきた。続く4000年のあいだにさまざまな産業圏と交易し、紀元前2000年頃、中期ミノアまたは古王宮時代には高度でしかも快適な都市文化が絶頂期にあった。考古学者は壁画その他の遺品から宗教的な娯楽として闘牛があり、男女の若者がチームをつくってその牛の背中でとんぼがえりをうっていたと述べている。この社会が男女平等であったことは、牛を相手にしたこの祭儀で男女がペアで冒険をやったということに象徴されている(マリヤ・ギンブタス、鶴岡真弓訳『古ヨーロッパの神々』言叢社、1998年)。それを読んで私は、昔からあった疑問、つまりギリシャ本土の美術と、クレタの芸術があまりにも異質であることへの説明をはじめて聞いたと思った。クレタの美術は非幾何学的、有機的で、明るい生命力にあふれ、女神像が支配し、その女神は乳房を出した美人で、水泳する女性はビキニの水着をまとい、同じ姿で、女ながら牛飛びをして躍動するのである。
 ギンブタスの研究の成果は、この文化には、長い時代にわたって、また広い地域にわたって、潤いや雨、水、そして食物によって世界の生命をはぐくむ母なる女神の形象が存在していたという考古学的証拠を十分に示したことである。彼女が示す女神像は女神が生命誕生に関わり宇宙的な力を支配する女王であることを示す宇宙生成論的な表象であった。これらの女神像は、子をみごもり出産する人間の女のイメージとして捉えられ、さらにそこから牡鹿、犬、ヒキガエル、蜂、蝶、樹木といったいろいろな生物に化身できると信じられていた。「生命を絶やさないで保持し続けるという目的こそが古ヨーロッパの神話像におけるライトモチーフであった」。
 4000年紀にこの地方に侵入した「インド=ヨーロッパ語族」や、ステップの遊牧ー牧畜民の場合とは異なり、古ヨーロッパの世界では、男性と女性が分裂することはなかった。「この2つの原理はからみ合っていた。人間の若者としてあるいは牡の動物として表された男性的な神格は、創造的で活動的な女性の力を肯定し、強調した」。なぜなら、この文化のなかでは、男性を示す男根のシンボルや仮面をつけた牛男なども出土するのであり、「それらは男性に備わっている刺激の原理、その影響なくしては何ものも成長、繁栄できない原理を表していたからである」。「いわば両方の神格は一方に従属するのではなく、相互に補足しあって威力を倍加したのである」。「古ヨーロッパの神界は、母権制社会を反映している。そこでは女性の役割は男性の役割に従うものではなく、人間の本質、つまり女性的なものと男性的なものとに潜んでいるすべての根源的な要素が、生命や世界を創造する力となった」。
 しかしながら、この古ヨーロッパ文明はクルガン族(インド=ヨーロッパ語族はその一部である)と呼ばれる民族によって滅ぼされ、そこから父系的な文化制度が支配するようになった。同様な見方をする考古学者は数多い。ソルボンヌ大学の先史原史研究センターの所長であったアンドレ・ルロワ=グーランは、旧石器時代の信仰体系は、女性的表現と象徴が中心的役割を果していた宗教を示していると結論している。
 「先史時代の芸術のすべては生命の自然的、超自然的組成に関する観念の表象」であり、「この時代の人間は、動物と人間の世界が二つの要素(男性と女性)に分かれていることを知っており、これらの二つの要素の結合が生きているすべてのものの有機的秩序を支配していることを知っていた」(若桑『象徴としての女性像ージェンダー史から見た家父長制社会の女性表象』筑摩書房、2000年、第1章「女神の没落」参照)。発掘された洞窟の中心位置に女性像が置かれており、男性象徴はその周辺にあった。いや洞窟そのものが女性の大いなる胎内であったのである。
 グーランよりやや遅れてイギリス人の考古学者ジェイムス・メラートは、それまで多くの学者があまり振り向くことのなかったアナトリア、それも先史時代に焦点を絞って、ハジュラルとカタル・ヒュイクの遺跡で数千年にわたって持続した女神崇拝文化を発見した。(James Mellart, Catal Huyuk: A Neolithic Town in Anatolia, New York, 1967)ここは近東で最大の遺跡で、6500から5700ほどの人口をもつ町と、数百の神殿があった。そこには古い壁画や、初期の布、初期の土器、粘度や石の浮き彫り、丸彫りの女神像などがあった。ここで発掘された新石器文化は、旧石器文化ともっと後の青銅器時代との「失われた輪」の発見だった。しかも、ここでは女性小像と女性的象徴が中心で、女神の神殿と礼拝像がいたるところに見出された。ここで非常に重要なことは考古学的な探究の科学的技法ー炭素の測定による年代決定法や、年輪年代学など―によって、動物の飼育、野生植物の栽培による農業革命は今から1万年も前に起こり、そこには完全に農業化した豊かな社会があったことが実証されたことである。
 文化はここからメソポタミア、コーカサス南方、カスピ海南方、南ヨーロッパに拡大していった。クレタやキプロスへは海路でわたったとされる。われわれが歴史を習った時代には、都市文明の揺籃はメソポタミアだということだったが、進歩した考古学はそれはもっと古いアナトリアにあったことを知らせた。そればかりではなく、そこでは神が女だった。つまり、男性支配と農業革命は合致しないのである。このことはフェミニストでない学者にはぞっとしないことであろう。しかし、すぐあとで紹介する女性研究者リーアン・アイスラーは、「両性のあいだの―あらゆる人びとの間の平等が新石器時代の農業革命時代の普遍的な規範だったという証拠はたっぷりある」といっている。
 実際には女神小像は、中東、中近東にとどまらず、インドのハラッパーやモヘンジョ=ダロにもある。メラートの結論もまた、祭儀や儀礼においては「母=神」が重要であったということである。新石器時代の農業経済は数千年たってわれわれの時代につながる文明の基礎となったのだが、そのような物質的社会的に偉大な躍進があったところは、普遍的に「女神崇拝」があった。発展する農業社会では母系が普通であり、信仰の中心は母神信仰だった。
 では、なぜこれらの女神たちが世界観の中心になっていたという理論が、考古学者たちによって重視されなかったか。アイスラーはそれが現代の男性中心社会の価値観にあわないからだといっている。だから、この考古学的な発見が主として第二次世界大戦以後になったのだ。また旧来考古学が、決定的に男性の世界だということもその理由になるであろう。物証によらず神話研究によって先史および古代世界の女性支配を書いた『母権制ー古代世界の女性支配』の著者バッハオーフェンは、アカデミックな世界では変人扱いだった。
(J・J・バッハオーフェン、吉原達也他訳『母権制ー古代世界の女性支配 その宗教と法に関する研究 上下』白水社、1992年。この研究によれば、もともとギリシャ各地で崇拝されていたのは女神(大地母神)であり、男性神は重要ではなかった。そこに遊牧民が入り込み、支配階級の神ゼウスを主神とするオリュンポスの神々への信仰がとって代わった。そのためゼウスは各地の地母神格の女神と交わることになった。バッハオーフェンの考え方の大枠は、「アプロディテ的娼婦制」の時代から「デメテル的母権制」の時代、そして「アポロン的父権制」の時代と、社会が「発展」したというものであるが、その説は文献研究であって考古学的根拠をもたなかった)
 文化的、心理学的な象徴の研究者ノイマンは有名な『グレート・マザー』で、「心理的な母系制時代のはじまりは先史のもやのなかに失われているが、その終焉は歴史時代の夜明けに姿をあらわしている」と述べている(エーリッヒ・ノイマン、福島章他訳『グレート・マザーー無意識の女性像の現象学』ナツメ社、1982年)。「それ以後は全く別のシンボリズムや価値観から成り立つ父系制の世界にとって代わられた。それはすなわち男性原理が支配するインド=ヨーロッパ語族の世界である」。
 古ヨーロッパの世界は男権的な近代ヨーロッパの系譜には直結していない。最初期のヨーロッパ文明は父系的要素によって荒々しく破壊されてしまい、二度と元通りにはならなかった。しかし、それはヨーロッパの創造物のなかに残り、はかり知れない豊かさをもたらしてきた。西洋文明をギリシャから説くのが普通であるが、しかし、人類の文化を深層から知るには、そのはるか前、さらに6000年遡らなければならないのだ。ギンブタスは人類の遠いふるさとを求めて、あたかも神と自然によって作られたかにみえた男性支配のはるか前に存在した古ヨーロッパにひそむ母権文化を浮き彫りにした。そして、その母権文化が、後続するファロセントリズム(男根中心主義)やファロクラシー(男根統治)によって次々に蹂躙され、改変されていったことを指摘したのである。
 
2 母系制の時代に戦争はなかった

3 男性支配の開始

4 家父長家族の誕生

5 家父長制と女性支配

6 国家の形成

7 家族国家と軍事化

第3章 「男らしさ」と戦争システム

第4章 国家、それが戦争を起こす

第5章 女性差別と戦争

終章 翌朝へ向かって

おわりに
by open-to-love | 2008-04-26 16:44 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)
縄文人と現代人

 この章では縄文人の身体を復原し、現代の日本人や世界の他の食料採集民と比較してその特徴をさぐる。顔つきは、背丈は、胴と手足のバランスは? また健康状態や寿命、人口はどのくらいだったのだろうか。

○縄文人の体つき

○縄文人の健康診断

 □よく噛んだ縄文人

 □しゃがんで休んだ縄文人

 □栄養と病気
 脳腫瘍やひどい頭痛、てんかん、精神病をなおすために、頭蓋骨に孔を空ける手術法があって、「穿顱術(せんろじゅつ)」(穿頭術)とよばれている。世界の先史例・民族例に知られており、縄文人骨においても、そうだといわれた実例がある。しかし最近では、人類学研究者は、これを確実なものとみなさなくなってきている。

 □寿命

○縄文人の死に方

(『体系 日本の歴史Ⅰ 日本人の誕生』佐原真著、1987年、小学館)
by open-to-love | 2008-04-26 14:05 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)
第2章 神々と悪魔 上

 神々、その者を滅ぼさんと欲すれば、まず狂わせたまう。
                      エウリピデス

はじめに

 狂気は人類と同じくらい古くからあるといえよう。考古学者が発掘した、少なくとも紀元前5000年まで年代を遡ることのできる頭蓋骨には、穿孔のほどこされているものがあったー石器で丸い小穴がくりぬかれていたのである。頭に穴を開けて取り憑いている悪魔を逃がしてやろうと思われた人間がいたのだ。
 狂気は、古代の宗教神話と英雄譚では、宿命あるいは神罰として描き出されるのが普通である。申命記(28章65節)には次のような記述がある。「エホバ汝をして心慄(おのの)き目昏(くら)み精神乱れしめたまわん」。旧約聖書には、悪魔に憑かれた多くの人々の物語があり、神がネブカドネザル王を獣めいた狂気に陥れて罰した経緯が記されている。ホメロスは、狂えるアイアスが羊たちを敵兵と思い込んで虐殺する場面を語ったが、これは風車に向かって槍を構えて突進するドン・キホーテを描いたセルバンテスの先蹤をなす。暴力、悲嘆、嗜血、食人は一般的に精神異常と結びつけられた。ヘロドトスの語るペルシャの狂王カンビュセスは宗教をあざけるー神々を侮辱するのはまさに狂人でしかなかった。
 気分、発言、行動の波が激しいと、たいてい超自然の力に原因が求められた。ヒンドゥー教ではグラヒ(「取り憑く女の霊」)という特殊な悪霊が癲癇(てんかん)発作を引き起こすとされ、インドでは犬霊が患者に取り憑いているとされた(イヌ科の特徴と狂気がよく結びつけられてきたことは、狂人が月夜に墓場や草原をさまようという狼男伝説ー「狼化妄想」または「狼狂」ーの広範囲にわたる普及から、また抑鬱状態が「黒犬」といわれる用例から明らかである)。
 バビロニア人とメソポタミア人は、降霊、邪術、邪気、破戒によって、ある種の錯乱状態が生じると考えた。憑依されるのは審判であり天罰でもあった。紀元前650年頃のアッシリアの文献には、明かに癲癇症状であるものが、悪魔のしわざとされている。

  その人が座っているときに取り憑かれて、左眼が脇へ寄り、唇がすぼんで
 口からよだれが垂れ、左側の手・足・胴が屠された羊のようにぴくぴく動く
 のであれば、それはミトゥである。取り憑かれても心が確かならば、悪霊は
 追い出される。取り憑かれたときに心がしっかりしていないならば、悪霊は
 追い出されることはない。

 初期古代ギリシャ人の精神生活は、神話と叙事詩から推測することができる。そこでは後世の医術と哲学のような描き方で理性と意志といった心の動きが表されているわけではないし、また英雄の心理も、たとえばシェイクスピアやフロイトの著作に見られるものはもちろん、ソフォクレスのオイディプスのそれに比すべくもない。ホメロスの語る人間は、何百年か後のソクラテスの対話に登場する、内省癖と自意識をもった存在ではなかったー実際『イリアス』に「人間」や「自分自身」にあたる語は見当たらないのである。生活と行動、正常と異常は、外部の超自然の力に左右されると見なされており、人間は、憤怒、苦悩、執念を抱えて精神錯乱へとまさに追いつめられる存在として描かれている。『イリアス』の主要人物たちを人形として操る、彼らの制御の及ばない恐るべき力ー神々、悪霊、復讐の女神ーが天罰を下し、復讐を企み、破滅をもたらす。そして彼らの運命を左右する神意は、ときに夢、神託、予言を通じて明かになる。内なる良心と実際の選択との板挟みになる精神生活にはいまだ重きが置かれてはおらず、われわれが耳を傾けることになるのは、英雄の行動であり、その逡巡ではないのだ。
 しかしアテナイの黄金時代には、より近代的な精神の光景が現出していた。紀元前4世紀と5世紀に顕著になった精神観が、西洋を支配する精神と狂気の捉え方の原型になったのであり、フロイトは幼年期の精神ー性的葛藤をソフォクレスの演劇にちなんで「エディプス・コンプレックス」と名づけた際にその認識をひそかに抱いていた。ギリシャ演劇では、精神の古来の形態と新奇な形態という双方の要素が融合している。
 アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの演劇は、人間の根源にかかわる葛藤を劇に仕立てあげたー主人公は、神々の慰みものとして苦しめられたり、愛情と名誉に、義務と欲望に、個人、肉親、国家にそれぞれ引き裂かれる宿命に押しつぶされたりする。その避けがたい結果が、ときとして狂気である。正気を失った彼らは、わが子を手にかけるメディアのように、憤怒のためにわれを忘れる。しかしながらホメロスの語る英雄とは異なり、ギリシャ悲劇の主人公は、内省癖、責任感、罪悪感を持ち合わせた意識的主体である。彼らが内なる葛藤を露呈するのは、痛めつけられた精神が分裂を引き起こしたときであり、それはしばしばコロスが声によって表す矛盾に満ちた思考と響き合う。悲劇作品に現れる破壊の力とは、単に外的な運命、尊大な神々、悪意ある怨霊といったものの力だけではもはやない。破滅は自らが自らに与える懲罰でもあるのだー主人公は野心やら慢心やらで身を滅ぼし、恥辱、悲哀、罪悪感にさいなまれる。彼らは自暴自棄に陥り、おのれの狂気をおのれに差し向ける(これがギリシャ神話の女神の名にちなんだ因果応報=ネメシスである)。精神の内乱が人間の存立に深く喰い入ったのである。
 演劇は解決への道を示してもいるー劇場が「療法」の役割を果たしたといってよいかもしれない。侵犯はむろん死をもって罰せられるだけであっただろう。しかし、オイディプスに関していえば、苦悩は高次の英知への段階として表されている。盲目は明察へと導かれるのであり、演劇の公開上演それ自体が、万人にカタルシス(浄化)を提供していた。同様の過程を表現したシェイクスピアでは、リア王が自己疎外の状態から狂気を経て自己認識へといたる。
 ギリシャ医術もまた、憑依に超自然の力を認める古代特有の信仰の前に立ちふさがった。すでに記したとおり、癲癇発作の原因を神々に帰するのが当時の通念であり、その「聖なる病」の犠牲者は体と魂にのしかかる悪霊に押しひしがれているとされていた。その錯乱状態は、医神アスクレピオスを奉った神殿で捧げられる祈祷、呪禁、生贄で鎮められるのであった。
 『聖なる病について』という論考がそれに異議の声を上げた。いわゆる「ギリシャ医学の父」ヒポクラテス(紀元前460頃ー357年)派のその著者は、錯乱状態に超自然の要素をいっさい認めない。癲癇はただ単に脳の病なのである。

  「聖なる病」は、他の病と同じく神聖なものではなく、別の病苦と変わらず
 自然界に病因があると私は思っている。たしかにそれが他の病気とは似ていな
 いところから、無知と驚愕で人々はその性質と原因を神聖と誤るのである。

 このヒポクラテス派の著者は、明白な発作の症状を引き起こすと思われていたもろもろの神々を、あざけりの愉しみを味わいつつ列挙した。患者が山羊のように振る舞ったり、歯ぎしりしたりするならば、あるいは体の右側が痙攣するならば、神々の母ヘラのためである。もし病人が物を蹴とばしたり口から泡を吹いたりするならば、アレスに責任がある。このような列挙が続く。もし奇妙な症状のみをもって神聖と言うならば、それに該当する病気は数かぎりなくある。ヒポクラテス派の医学は癲癇の例を引き、狂気を普通の病として位置づけることで、それを神々の座から引き下ろした。それによって進展した学説については次章で述べる。

キリスト教と狂気

 コンスタンティヌス帝が紀元313年にローマ帝国でキリスト教を公認し、その結果、教会が勝利を収め蛮族侵略者が改宗したため、精神異常を超自然として捉える思考が、長いあいだ公式に認められることになる。キリスト教は、ギリシャ哲学とは異なり、理性を本質とは考えなかった。重要とされたのは、罪、神意、愛であり、信者の信仰心(不合理ゆえにわれ信ず)であった。さらにキリスト教が説教した罪と贖いについての黙示録の物語では、人類よりも圧倒的多数を誇るのが、他界にある霊的存在ー神とその天使および聖人、死者の霊魂、魔王とその戦隊ーであり、加えて幽霊、樹霊、小鬼といった存在が、農民の民間伝承に偏在し、教会の超自然信仰によって是認されてきた。(旧来の共同体における俗信では、いくつかの病を超自然の力によるものと見なす傾向が強かったために、呪術による治療が求められた。たとえば、人間の頭蓋骨の粉末が癲癇の治療に広く推奨された。)
 キリスト教神学では、聖霊と悪魔が、ひとりの人間の魂の占有権をめぐって争った。そのような「魂の葛藤」の徴しとして、絶望、苦悶をはじめとする精神の乱調を表す症候が挙げられよう。教会がまた狂乱を聖なるものとして遇していたとわかるのが、キリスト磷刑と十字架降架の情緒的表現や聖人・神秘家の恍惚たる啓示においてである。罪なき嬰児、預言者、苦行者、幻視者も「よろしき狂気」に憑かれた存在とされた。しかし精神錯乱は、より一般的には悪魔がたくらみ、魔女や異端者が広める魔性のものとして捉えられた。オックスフォードの牧師ロバート・バートンが『憂鬱の解剖』(1621年)で述べたのは、悪魔こそが絶望と自殺をそそのかすのであり、その犠牲者になりやすいのは衰弱して抵抗力を失っている病人であるということだった。バートンの同時代人の英国国教会牧師リチャード・ネイピアは「精神不安定」の人々の治療を専門にしていた医者でもあり、受診者の多くが宗教上の悩みを抱えていて、カルヴァン派清教徒信仰が突きつける地獄落ちを恐れ、悪魔の誘惑に震え、魔女術を怖がっているとの認識をもっていた。
 不浄なる霊魂は霊的手段による処置を受ける必要があった。カトリック教徒のあいだでは、それはミサの礼式、悪魔祓い、聖堂(たとえば聖ディンフナという、目ざましい癒しの力を発揮したオランダのゲールにある聖堂)への巡礼だった。精神異常者は修道院でも治療された。ネイピアのような新教徒が好んだのは、祈祷、聖書朗誦、面談である。
 15世紀後半からヨーロッパ全土で猖獗をきわめ、1650年前後に絶頂を迎えた魔女狩りもまた、尋常でない言動を、悪魔と契約を交わした魔女が指示を下した厄難の兆候と見なした。宗教改革と対抗宗教改革が火を放った異端訊問と焚刑という大火が燃え上がるなかで、邪教と妄想はいっしょくたにされた。狂人は取り憑かれていると判断されたのであり、宗教上の敵は正気を失っていると考えられたのである。

「私は大きな恐怖と震えに捉えられた」

 信仰者の側でも狂気と喪心を、罪過、悪魔の憑依、堕落した魂の表れとして受け取った。狂人の自伝的著作(例としては7章で扱うマージャリー・ケンプとジョン・パーシバルを参照)では、宗教的なものが高い割合を占める。
 1631年にエクセラーの裕福な英国国教徒の法律家の家庭に生まれたジョージ・トロスは、後年、青年時代を悪徳の市として回顧したー「きわめつけの不信心者」になった彼は情欲に火を点じるあらゆる「呪うべき肉欲のおもむくまま」にしたがっていた。
 自伝中の彼の記述によれば、「とりとめのない空想、財宝を得て現世で贅沢に暮らしたいという願望」に身がうずいていたトロスは、「煩悩にまみれた現世」を堪能するために海外に足を伸ばした。そして、「肉の悦び、眼の悦び、身を飾る奢り」のために、「大きな罪と甘い陥穽」へと身を沈め、「純然たる姦淫行為」を除く「もっとも厭わしい汚濁」に耽った。大病にかかっても彼は、死や地獄落ちが待っているとか、慈悲深い神がかろうじて助命してくれたとかなどとは思いもしなかった。
 故国に舞い戻った彼は、あらゆる戒律に背いた札つきの罪人であり、放蕩に身も心も奪われて情は干からびていた。そこに危機が訪れる。大酒を痛飲したあと眼を覚ました彼は、「何か襲いかかるような物音」を聞き、ベッドの下の方に「影」を目にした。「私は大きな恐怖と震えに捉えられた」とトロスは回想している。その声は詰問した。「おまえは誰だ」。これは神にちがいないと確信した彼は、「私はまごうことなき大罪人です」と罪を悔いつつ答えて、ひざまずくと祈りを捧げた。声はなおも続いた。「もっと身を慎むがよい、もっと身を慎むがよい」。彼は靴下を脱ぎ、剥き出しの膝をすりつけて祈った。声は続いた。彼は半ズボンと胴着を脱いだ。まだ充分に身を低くしていないと告げられた彼は、床に穴を見つけるとその中に這いつくばり、埃にまみれながら祈った。
 その声が次いで髪を剃り落せと命じると、このとき彼は、次は喉を突けと命じられるのだと思った。そのとき霊からの啓示が下った。この声の主は神ではなく悪魔なのだ。自分が「大罪を犯した」と知った彼は最後に大喝を耳にする。「人でなしめ。お前は聖霊に対して罪を犯したのだ」。彼は絶望に陥りー聖霊に背いた罪は赦しがたいとされていたー神を呪って死のうと考えると、頭には叫喚がわんわんと響き、「良心の呵責」が生じた。
 さらなる幻聴と幻視に悩まされたトロスは、「喪心状態」に陥った。さいわい彼の友人が、「このような症状を扱うのにきわめえて熟達しているという評判」があったサマセット州グラストンベリーの医師を知っていた。友人たちはトロスを馬にくくりつけ、力ずくでそこへ運びこんだ。「地獄の領域」へ引きずりおろされるにちがいないと思った彼は、ありたけの力で抵抗した。いくつもの声が嘲弄した。「なんと、この男は地獄のもっっと深いところに堕ちるのだなあ。怖い、怖い」。悪魔がすっかり取り憑いていたとトロスは後に回想している。
 グラストンベリー狂人収容所が地獄であると思いこんだ彼には、足枷が悪魔の拷問に、同じ患者が「死刑執行人」に見えた。しかし結局、神への「報復と反抗」を長く追い求めていた彼がそれでも平静を得たのは、医師の妻のおかげであり、この「非常に敬虔な女性」は、彼の「冒瀆」が沈静の気配を見せるまでいっしょに祈りを捧げてくれたのであった。ついに「わが罪を痛哭した」彼は、エクセターに戻れるほど回復したと認められたのである。
 だが何たることか。犬は自らの吐瀉物へ向かうという格言そのままに、彼は昔の習慣に戻ってしまった。しかし、今度の悪魔との戦いは他人も見ていた。彼はすぐに牧師に、自分の「罪の重荷」を降ろしてくれるように導きを頼んだ。ふたたびグラストンベリーへ運ばれた彼は、聖霊に対してまたしても罪を犯してしまったと考えて「神に怒りをぶつけた」が、医師が「(私を)安定した精神状態に引き戻してくれた」。
 そのときでさえ改心が完遂しなかったのは、その信仰が形式的なものにすぎなかったからである。堕落した彼はみたびグラストンベリーへ戻るよう勧められた。ようやくこのときには永久に、「神は、繰り返し怒りをぶつけていた私に、穏やかな平和と落ち着いた理性を取りもどしてくださったのだ」。生まれ変わったトロスは、オックスフォードで学ぶために旅立った。神の加護を得た彼は、聖職に召されて敬虔な非国教会派の牧師になる。
 トロスはその後、自伝ーバニヤンの『あふるる恩寵』に比肩する回心の物語ーを著わして宗教者の狂気観を明示した。理性が神と歩みを共にするものであるならば、精神錯乱は、魂が悪魔に侵されているときの精神状態であり、神への冒瀆なのである。狂気が魂の試練と堕罪の過程の難所であるのは、罪人を窮地に陥れて回復への糸口を与えるからである。

Roy Porter, Madness: A Brief History(Oxford University Press,2002)
ロイ・ポーター、田中裕介、鈴木瑞実、内藤あかね訳『一冊でわかる 狂気』(岩波書店、2006年)
by open-to-love | 2008-04-21 20:19 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)

人権の歴史ー女性問題

人権の歴史ー女性問題

古代
 すでに家父長制を成立させていた中国の国家の仕組みと法を取り入れた、日本の律令制国家の成立は、当然、家父長思想の取り入れとその実施を女性にもたらすものであり、男性優位の意識を人々に植え付けるものでもあった。
 しかし男性が戸主とされるなど、国家とかかわる場では肩を並べることができなかった古代女性も、経済的に対等であることを基礎として、村の生活での政治的・社会的な対等は保障されていた。当時の豪族層では、夫と妻からなる家長(いえぎみ)と家室(いえとじ)が共同で経営を行っていたことは、9世紀初めに成立した仏教説話集『日本霊異記』にみられる。また夫と妻が自分のわずかな財産を持ち寄ってつくる当時の一般農民層の家族は、所有・経営権をつかさどる家長に統率された、自立できる経済的単位には程遠い不安定なものであり、複合大家族であったと考えるのが一般的であろう。
 一方、9世紀後半から、仏教的女性差別観はまず貴族社会で受容され、その後尼寺の衰退や女人結界が問題になる。そして女性罪業観は一層広範に社会をおおっていった。
 他方、遊女(あそび)たちは、性を売る女性ではあったが、芸能民ともいうべき質の高い芸を身につけていた。また妻に貞操観念の強制はみられない。
 さらに『蜻蛉(かげろう)日記』(1020年頃)からは、当時の貴族女性が夫(男性)にとって役立つ(出産できる)か否かで評価されているのがわかる。しかし筆者の道綱の妻が夫に対し自己主張する姿も見逃せない。そして家に取り込まれた女性は男性に従属はしたが、受領の妻のように任国(にんごく)で家政全般を管理分担する役割を担い、夫とともに家を盛り立てていくことを受け持った女性たちもいた。いずれにせよ、家父長制家族は萌芽的段階にあったといえる。

中世
 11世紀後半には古代的共同社会がくずれ、家は新しい社会的単位となった。多くの従者や下人を統括する権限を持った家長が女性や子供も従わせる、家父長制家族としての家である。そしてわが国に今日でも影響を及ぼしている家の成立を、ここにみることとなる。
 家父長制の成立は、仏教的女性差別観に現実的基盤を与え、12世紀前半に成立した『今昔物語集』では、女性を単に仏道修行上の悲器(ひき)としてだけでなく、人間的に劣悪な存在として語っている。そして女性の存在価値は、家父長の後継者を産む母性機能に限定されるようになっていった。とはいうものの、家父長に従うようになっても、家のなかのことは家父長の妻が取りしきり、強い権限を持っていた。いわゆる主婦権の成立である。また主婦権を持つ妻は、いろりの中央に座ることができた。つまり同じく家父長制家族といっても、明治期のそれとは大幅に異なっていた。
 さらに新しく台頭してきた商品経済活動(振売=ふりうり)を担ったのは女性であり、将軍家、公家の家政においても、経済力を背景に女性(妻)たちの積極的な対応がみられる。また女性にも一応の相続権、財産権があり、後家は家父長権を受け継ぎ、子へ伝える仲立ちをしている。しかし庶民クラスでは、女性は主人(雇主)の家父長権と夫の家父長権の二重支配のなかにあった。
 他方、鎌倉期にはおおらかな性関係の認容という面も残されていた。処女性などの観念は弱く、婚姻例などにみられるように、支配者層の女性(妻)へも貞操観は強要されていない。しかし、しだいに遊女たちは定住し始め、それとともに賤視される存在となっていった。
 また庶民層では、堕胎や間引きも行われており、そうしなければ自らが生きていけない状況があったといえる。

近世
 江戸期には、幕府を頂点として武士・農民それぞれの身分のものが、幕府に役(やく)を負担することを義務付けられていた。役を負担する単位が家でり、その家を代表するものが家長であったが、武士の家では軍役(ぐんやく)を勤められる男性のみがその地位を認められ、農民においても男性が村の一人前の成員である「本百姓」として位置付けられた。そして家長として認められない女性たちには「女大学」の道徳律が理想のあり方として求められた。
 しかし下層の人々(日々の暮らしに追われる水呑百姓や都市の借家住まいの人々)においては、女性が専業で手工業・商業に従事したり、他家に雇われて賃金を得たりしており、一人の労働者としての姿が見出される。「女大学」はこういった女性たちを、家父長制下の女性=貞淑といった規範に閉じ込める役割も果している。
 また女性が一人前には扱えない性とみなされていたとはいえ、上中層町家の女性たちは幼児期から読み・書きを習い相当の教育を受け、武家や公家の娘の結婚には一期分(いちごぶん)ではあるものの化粧料(土地)が与えられ、裕福な町家では動産(金銀、衣類)が分与され、家族と旅に出ることもあった。
 天保の改革(1841=天保12年頃)による男女間の身分秩序固守のための強圧政策は効果があがらず、秩序が動揺するなか、農村では場合によっては女性(母親)の相続人が出現し、幕末には政治活動に従事する女性もみられるようになり、多様な女性の姿が浮びあがってくる。
 他方、町共同体の掟により排除されつつあった遊女は、江戸幕府により遊廓に隔離され(公娼)、法的にも制度化された(公娼制)。それは茶屋女・飯盛女付旅籠屋(めしもりおんなつきはたごや)・辻売女といった私娼を取り込み、肥大化し、諸芸を兼ね備えた遊びから、売春を主体とする性格のものへと質的変化を余儀なくされていったといえる。

近代
 明治維新(1868年)による外国文化との接触から、暮らしは少しづつ変化していったが、戸籍法(1871年)の制定は「家」を単位として国民を把握しようとしたものであり、また妾の存在が公認されていた。
 明治民法は「戸主権」「男性長子相続」などの規定により、女性を無能力者扱いにし、一夫一婦制を建前としながら、実質的には一夫多妻制を容認していた。こうした「家」制度のもたらす悲劇は、広く文学の題材となり数多くの作品が生み出されてもいる。
 1872(明治5)年の「芸娼妓(げいしょうぎ)解放令」にもかかわらず、貸座敷制度(「本人真意にもとづく」のであれば許可する)として公認された近代の公娼制度は、国家による性管理の側面を持っていた。そして、そこには娘を娼妓に売らざるを得ないほど貧しい農民や労働者がいた。日本基督教夫人矯風会など、キリスト者を中心とする多くの人々によって廃娼運動は粘り強く闘われたが、ついに廃娼は実現せず、戦時下には大量の従軍慰安婦まで生み出すこととなった。
 一方、教育の面では、1872(明治5)年の学制発布により「男女の別なく小学に従事」することが説かれたが、実際には小守りなどの理由による女子の不就学が多くみられた。そのため1879(明治12)年の「教育令」では、女子のために裁縫科を設け、義務教育の振興を促そうとした。また自由民権思想の蔓延を恐れた政府は、翌1880(明治32)年の「高等女学校令」により、良妻賢母主義に基づく女子中等教育が制度的に確立し、中間層の主婦専業層が増加していったが、主婦の家事・育児に関する労働は、夫または家父長の管理の枠内であり、家父長的家族秩序は強化された。
 さらに女子高等教育については、女子大必要論も出されてはいたが、1918(大正7)年の臨時教育会議において、女子の高等教育は時期尚早であるとされ、高等女学校に専攻科・高等科を設置するにとどまった。
 他方、女性には参政権が認められていなかった。婦人参政権の必要が主張されるなか、全関西婦人連合会(全婦)は、1927(昭和2)年から1932(昭和7)年にかけて西日本で大規模な婦選請願書名運動を組織し、関東の婦選団体と共同戦線を張り、婦選運動の最高揚期を現出した。全婦の活動は中間層の女性たち、とりわけ地方の女性たちが社会に眼差しを向け、社会改良、女子教育の向上や婦選運動に参加していく水路となった。
 さらに女性に新しい職業がもたらされ、それらは社会的労働として評価されるものであった。明治後期(1890〜1910年頃)には女事務員・女店員も出現し、大正から昭和初期には女性の職業分野拡大による社会的経験の拡大、雑誌など大衆文化の盛行とともに「新しい女」現象を生んだ。しかし、女子工場労働者のほとんどは貧農の娘たちで、前借金を背負いながら過酷な労働・生活を送っていた。
 15年戦争期(1931〜1945年)には、男性の仕事を女性が代替しなければならず、仕事につく女性もいたが、総動員体制のなかで女性たちは、銃後の務め・護りを要求された。
 1940(昭和15)年、婦選獲得同盟は解散となり、1942(昭和17)年には婦人団体を統合した大日本婦人会が結成され、女性たちを戦争協力に駆り立てた。早婚、多子出産が期待され、子の養成が課題となり、母性は国家的母性として賛美の対象となった。

現代
 敗戦直後、なによりも早く占領軍向けの性的慰安施設が設置された事実は衝撃的である。さらに翌年には赤線(集娼地域)が生まれ、それは1958(昭和33)年売春防止法前面施行まで続く。新憲法は「家」制度や妻の無能力規定を廃止し、婦人参政権を実現し、女子に高等教育機関を開放した。しかし夫婦が法的平等に基づいて築く家庭とはいえ、「夫は仕事、妻は家庭」という性別役割分業を基礎にした社会構造は続いている。
 政治・経済体制が整った1955(昭和30)年には、主婦の生き方をめぐって主婦論争が起こされ、母親大会から「母親運動」という言葉も生まれた。さらに高度経済成長期である1960(昭和35)年代に入ると、家庭電化製品の普及、大規模団地の出現、家族形態の多様化などが起こり、「家」の実態や意識はくずれ始めた。経済発展は女性(母親)の再就職を促し、家庭と仕事を両立させる課題をもたらしたが、政府や経済界は女性の家庭での役割を強調した。
 1970(昭和45)年代に入ると、アメリカの女性解放運動がウーマン・リブとして日本にも紹介された。
 戦後の女性たちの活動が、母親や女性労働者として、小児マヒから子供を守る運動、平和運動、保育所づくり、労働条件の改善、さらには若年定年制・結婚退職への異議といったものであったのに対し、ウーマン・リブは「女」の解放をめざすものであった。
 1972(昭和47)年には、優生保護法が経済的理由による中絶を認めないことへの動きを阻止し、経口避妊薬の解禁を要求した。しかしウーマン・リブは、運動として短命に終った。
 このような流れのなかで女性たちは、1974(昭和49)年に文相に家庭科の男女共修を要望し、翌年の国際婦人年をきっかけとして、性別役割分担を克服できるような両性の関係を求める動きを一段と活発にした。1986(昭和61)年には男女雇用機会均等法が施行され、1994(平成6)年には高校家庭科男女共修が開始された。男性たちの意識も変化しつつあり、法体制の不備な点の改正や検討も行われている。またそれとともに、女性学・女性史の学習が地域のなかや学問研究の場で盛んになってきている。
 制度的な男女間の不平等はしだいに解消され、目に見える形での女性差別は減少してきたものの、出産・育児・老人介護などは、慣習のなかで女性が責任を負わせられがちなこと、子供の教育機会がその子供の能力や個性によってではなく、性別によって制限されがちなことなど、現状に矛盾を感じながらもこれらを受容する、現実の営みがある。女性の人権の向上には両性相互の意識の変化が重要であろう。

(財団法人世界人権問題研究センター(代表・上田正昭)編『人権歴史年表』2004年、山川出版社)

執筆者一覧(2004年9月現在)
編集責任 秋定嘉和
執筆者
 異域・民族問題 菅沢庸子 仲尾宏 水野直樹
 同和問題 山本尚友
 障害者問題 村上則夫 田中和男
 社会福祉関係 田中和男
 女性問題 小林善帆
 世界の人権 竹本正幸
by open-to-love | 2007-10-27 09:51 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)

人権の歴史ー障害者問題

人権の歴史ー障害者問題

古代
 北海道西南部の縄文時代後期と考えられる遺跡、入江貝塚から四肢の萎縮が著しい、おそらくは10年以上寝たきりの状態であったとみられる人骨が出土した。狩猟採集を生活の基盤としていた頃は、すべての人々が非常に厳しい環境のなかでの生活をしており、そのために共同体の内部で相互の協力、役割分担が自然に行われていたのであろう。そのようななかで障害者や病人が必ずしもそのなかから排除されていたわけではなかったことがうかがわれる。
 しかしその後、弥生時代を経て、中国を手本として、天皇を中心とした中央集権的な国家、律令国家が成立した頃にはいささか障害者や病気をとりまく環境は変化していた。『古事記』や律令国家によって編まれた正史『日本書紀』にみえる神話のなかでイザナギ・イザナミは、2人の間に最初に生まれた子供が3歳になっても足の立たない蛭のような子「蛭児」だったので、葦の船に乗せて海に流し捨てたという。ここからは障害児を遺棄することの行われていた可能性も否定できないであろう。また、病気のなかでも後には業病として恐れられる癩病があるが、これも渡来した人物で作庭の名人に白い斑点があったため、白癩と疑われ島に遺棄されそうになる事件があった。ここで彼は白い斑点のある馬には乗らないのかと反論し事なきを得るのであるが、ここでも病気の者の遺棄をうかがわせる。
 後に律令が制定されてからは、そのなかで厳密に障害については等級が定められ、それに応じた救済が規定されている。しかし、平安時代には京都の都市化に伴いさまざまな新しい問題が出てくる。人口の増加と衛生の不良から疫病が流行し、それに合わせて穢れを激しく忌避するようになってゆく。
 また、この頃から障害・病気の理由を仏教の因果応報思想によって説明されることがなされ始め、その後の障害者観に大きな影響を与えていくことになる。

中世
 それまでは国家によってまがりなりにも一定の保護を受けることのできた障害者や病気の者にとって、中世は厳しい時代であった。自力で生活する事の困難な癩病者や障害者たちは、貧困によって共同体から排除を受けた他の「非人」と呼ばれる人々とともに、都市周縁や街道沿いに成立した「非人宿」に収容され、「宿の長吏」による管理・支配の下で、物乞いをせねばならなかった。『今昔物語』には白癩にかかり「非人宿」に行かざるを得なくなった僧侶の説話が載っている。その僧侶は、病気にかかって以後は「親と契りし乳母も、穢れなむとて寄らしめず」という有様なので、京都の清水坂にあった非人宿に行くのであるが、そこでも「さる片輪者のなかにもにくまれて」死亡するのである。癩病者や障害者にとって、中世という時代はこのようなものであった。
 このようななかで盛んに障害者・癩病者などの救済に当ったのが律宗の叡尊・忍性をはじめとする僧たちであった。叡尊・忍性はさまざまな慈善事業につとめ、生涯にわたって各地の非人宿で生活する人々に食物・衣服を与え、戒律を授ける行いを続けた。しかし、施行の場では非人を菩薩の化身として崇めながらも、一方で非人を囲い込むような彼らの行為には一定の歴史的な限界があった。その他に、障害者・癩病者に積極的にかかわった僧に時宗の一遍もいる。一遍は「浄不浄」を差別せず念仏による布教を勧めたので、遊行する彼の後には多くの非人が付き従った。しかし、このような仏教者がいる一方で、従来の仏教の教えによって病気や障害を信仰の不足、前世の業として否定した仏教者も少なからずいたことは看過できないであろう。
 このほかに、中世の目立った動きとしては盲人の組織化があげられる。古代にも史料にはみえていた盲人であるが、中世になり平家物語を語るようになると、しばしば公家などの日記などに登場するようになる。彼らは盲人による組織をつくり、公家の久我家を本所として活動をし始め、その他の障害者に比べて盲人が史料に現れることが非常に多くなる。

近世
 中世の末期から近世にかけての障害者たちに対する大きな動きに、戦国期からしだいに日本に定着し始めたキリスト教の影響がある。布教を目的に日本を訪れた宣教師たちは、その活動のなかで積極的な慈善事業を行った。従来の仏教に救いを見出すことのできない障害者や癩病者たちは、新しい宗教に希望を見出した。その後、政権を掌握した江戸幕府はキリスト教を禁止し、宣教師や信者を国外へ追放するなどの弾圧をしていった。
 そして幕府も、法会の際などに障害者たちに施しを与えたり、疫病が流行した際に薬を配布するなどの行為はしたが、決して十分なものではなかった。そのようななかで、とくに大きく取り上げなければならない幕府の政策は、1722(享保7)年に町医の小川笙船(しょうせん)の建議によって設立された小石川養生所であろう。これは看病人のいない極貧の病人を対象とした医療施設で、すべて無料で診察・治療が行われた。この養生所の設立によって、江戸では個人の奉仕によらない公的機関による恒常的な医療が保障されたのである。
 このような近世の病人を取り巻く状況に比べ、一部の盲人を除けば障害者の置かれた環境は未だ厳しいものであった。近世の盲人は当道座という強固な組織をつくり、その管理の下で芸能や医療・金融などの活動を行った。そのなかでは検校をはじめとする上下関係があり、昇進するには多額の金銭の上納が必要であった。そのため、上層の盲人のなかには非常に裕福になったものもいた。しかし、それ以外の障害者は見せ物とされたり、あるいは路上で物乞いをすることによってかろうじて生きていくことができたような状態であった。このような障害者は、因果応報の証拠として「親の因果が子に祟り」といった言葉で、しばしば芝居や読本のなかに引き合いに出されていくのである。

近代
 明治に入ると、恤救(じゅつきゅう)規則が制定されて、障害者や病者をめぐる様相は一変する。これには、「人民相互の情誼」による窮民・病人の救済が要請されてはいる。しかし町・村というこれまでの地域共同体は解体に向かい、障害者や病者に対する共同体の保護は機能しなくなっていた。また「身分」として盲人に保障された按摩などの職業、普化(ふげ)宗の虚無僧の尺八演奏の特権は奪い取られ、江戸の町人の運営した町会所による窮民・病人救済も江戸町民の自主的な運営を外されて、東京府養育院として行政機関に編成替えされた。勿論、こうした障害者や病者の共同体・身分からの解放は、人間としての解放を意味したわけではない。国民を心身の健康の面で「正常と異常」に分けたなかの、「異常な」いわば「二級国民」として、悪くすると「非国民」としてランク付けされて、別な場所に囲い込まれ監視と排除を受けるようになったことを意味した。
 国民皆学をスローガンとする学制は、1872(明治5)年に制定された。障害者や病人に対しても一応の扉は開かれていた。授業料の払えない貧民に対しては簡易科を設けたり、授業料の減免を行って、とりあえず文明国の証である就学率の上昇がめざされた。障害者に対しても中等の「廃人教育」の制度化をかかげていた。しかし、ここでまずめざされたのは、一般の普通教育とは別のコースの設置であった。すでに前年に工学頭山尾庸三が「盲学校・聾学校設立の建議」を行っており、東京では中村正直らの楽善会によって調盲院(1875年)、京都では盲唖院(1878年)が設立された。
 病気を治す医療については、早々と西洋医学が正統なものとされる「医制」が制定された。新しい医療や服薬を妨害するマジナイ・お祓いは禁止された。漢方や鍼灸はグレーゾーンに位置付けられた。帝国大学や各県に設置された医学校で医師が時には速成的に養成された。選ばれた優秀なものはドイツ医学を学びに留学して、帝国大学教授や軍医となり、他の多くのものは地方の開業医となり、同業組合である医師会を結成して、地方名士としての名望を保つとともに、実費診療運動や健康保険の制度化に対しては、業界の利益を守るための団体行動を行った。
 病気の治療は公衆衛生の点からも注目された。すでに江戸時代後期から種痘館などが幕府の手で設置されたが、開国以降の外国交際の緊密化による伝染病の侵入に対して、検疫などの防疫施設だけではなく、種々の予防接種が施行された。種痘規則(1874年)・天然痘予防仮規則(1875年)、コレラ病予防規則(1877年)などがある。西洋医学における細菌学の発展に影響されて、病気の原因を細菌とする思想が一般化した。福沢諭吉ら啓蒙思想家を会員とする大日本私立衛生学会の付属機関として「伝染病研究所」が開設され、所長の北里柴三郎の下に志賀潔や野口英世が研究を行った。のちの文部省移管問題では、北里らが対立し北里研究所を設置することになる。
 細菌学の流行は社会問題の見方にも影響を与え、犯罪の発生や貧民の堕落についてもパチルス、ミヤズマなどの害毒で説明するものも現れた。細菌学の流行が与えたのはこれだけではない。病原たる細菌を封じ込める隔離の考えを広めさせた。同時期に広まった生物学の学説である遺伝学と重なって、精神病者やハンセン病(らい病)の患者に対する隔離の思想を正当化することにもなったと思われる。
 精神病者に対しては、座敷牢などの私宅監置が江戸時代においても行われていた。維新以後も、警視庁が私宅監置については警察の許可を得るように命じている(1878年)。私的監視を強めながらも、それに一定の歯止めをかけようとするものであった。公的施設として京都南禅寺に癩狂院(1875年)、東京府養育院に癩狂室(1879年)が認可される。1884(明治17)年には、大名であった相馬家での当主に対する私宅監置が、側近による相馬家乗っ取り計画だとする相馬事件が世間を騒がした。政府は改めて、看護義務者による精神病者の「監置」と、行政官庁による監督を定めた精神病者監護法を制定した(1900年)。こうした動きに対して、東京府養育院癩狂室を継承した巣鴨病院院長を兼ねる東京帝大教授・呉秀三は精神病者の処遇改善のための慈善音楽会などを行う精神病者慈善救治会を組織して、政府要人や知識人に精神病者の人権を訴えた。大正期には精神病院の設置と入院についての精神病院法が制定される(1919年)などしたが、隔離主義は終ったわけではなく、呉たちは私宅監置の非人道性を訴え続けた。
 天刑病として差別されたらい病=ハンセン病は、19世紀には伝染性の弱い伝染病だということは証明されていた。にもかかわらず、前述の細菌学と遺伝学の流行を背景として、不当な処遇が繰り返されていた。明治初期から宗教者たち、ハンナ=リデルが熊本に回春病院(1890年)、カトリック神父テストウィドが静岡に神山復生病院(1889年)などを設立したが、これらの宗教者たちもハンセン病者は罪人であるという偏見から自由ではなかった。政府もようやく1900(明治33)年に患者の調査を行い3万人という数を把握するとともに、公立療養所の設立によって、患者を隔離しようとした(らい予防に関する法律、1907年)。この考えは優生学の思想と混ざって、民族の浄化をはかるためのハンセン病(患者)の絶滅施策に転回した。東京全生病院では、光田健輔を責任者として患者に対する断種術が施された(1915年)。勿論、ハンセン病が遺伝病とするのは根拠のない言説であった。政府はらい予防法に関する法律を改正して、療養所長の懲戒検束権を強化した。政府首脳がハンセン病者の断種を是認したかはともあれ、「らい根絶20カ年計画」が立てられたり、内務省部内でハンセン病者や精神病者の去勢が構想されたことを示唆する事実も報告されている。

現代
 精神病者に対する私宅監置にしても精神病院での公の監視にしても、ハンセン病者に対する隔離や根絶にしても、患者とみなされた個人の生活や権利を社会生活から切り離してしまうことにおいては同じ質の処遇といえた。そして、この近代前期の歴史は、戦後の新憲法の下においても、基本的には変化しなかった。らい予防法を廃止する法律が制定されたのは、ようやく1996(平成8)年のことであったし、予防法廃止後も隔離施設は残さざるを得なかった。しかし、最近ではようやく新しい試みが芽生えてきた。ノーマライゼーションの思想もその一つである。リハビリテーションは病気や障害を人間にとって必要である機能の欠如ととらえ、失った機能を取り戻すことを主眼に置くのに対して、ノーマライゼーションは病気や障害の状態を普通だ(ノーマル)と受け入れて、それを社会の生活にも拡げていくことを意味するといってもよいであろう。障害者や病者にふさわしい町や建物の構造、人間関係でのつきあい方が要請されることになろう。健常者ではないものに基準を合わせていく以上、健常者を基準とした現代の文明に対する何らかの規制が必要となるに違いない。障害者の自己決定権を最大限に認めた上での社会への参加と支援を併せ持つ制度と思想が求められている。

(財団法人世界人権問題研究センター(代表・上田正昭)編『人権歴史年表』2004年、山川出版社)

執筆者一覧(2004年9月現在)
編集責任 秋定嘉和
執筆者
 異域・民族問題 菅沢庸子 仲尾宏 水野直樹
 同和問題 山本尚友
 障害者問題 村上則夫 田中和男
 社会福祉関係 田中和男
 女性問題 小林善帆
 世界の人権 竹本正幸
by open-to-love | 2007-10-26 22:44 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)

精神障害者の20世紀

<特集>精神障害者の現在・過去・未来

 今年は精神病者監護法が制定されて100年、また精神衛生法が制定されて50年を迎える節目の年である。
 わが国の精神障害者施策の歴史は浅く、身体障害者や知的障害者と比べ遅れている。それは、精神に障害のある人たちが、障害者ではなく病者として扱われ、長い間医療の対象とされてきたためである。
 今回の特集では、精神障害者施策の変遷、現在の状況、そしてわが国の近未来像としたい外国の状況を紹介し、21世紀の飛躍に向けた課題を整理する。

精神障害者は20世紀をどう生きたか

秋元波留夫(財団法人日本精神衛生会会長、共同作業所全国連絡会顧問)

精神病者監護法のもとで
 今から80数年前の1918年、日本の精神医学と精神医療の創始者としてよく知られている当時の東京帝国大学教授呉秀三は、その著書「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」で、「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」という有名な言葉を残している。私はこの言葉ほど、切実に精神障害者の運命を表現した言葉はないと思う。この本は全国にわたって座敷牢の実情をつぶさに調査してその悲惨な状況を克明に記録したドキュメンタリーであるとともに、この非人道的な座敷牢を合法化し、その全国的広がりを許している「精神病者監護法」(1900年制定)と、これを黙認している明治政府を糾弾する告発の書でもあった。

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 精神障害者の「此邦ニ生レタルノ不幸」の源泉ともいうべき「精神病者監護法」は当時、野放しになっていた、座敷牢や民間の収容施設を取り締まる目的でつくられた、監禁を合法化する法律である。「監護」という奇妙な言葉は、「精神病者監禁法」を主張する政府案と、「保護法」とすべきだとする、法案の審議に専門家として参画した東京帝国大学法医学教授片山国嘉(呉秀三の渡欧中、精神病学講座を兼任した)の意見の妥協の産物であると言われている。
 この法律をつくるきっかけとなったのが「相馬事件(1884年、明治17年)」である。旧相馬藩主相馬誠胤(1852-1892年)が精神病にかかり、座敷牢に入れられたことに端を発して、旧藩主の忠臣と称する錦織剛清が、当時の旧家老志賀直道(志賀直哉の祖父にあたる人)と精神科医が結託して相馬家を乗っ取ろうとした陰謀だと主張し、藩主に精神病の診断を下した東京癲狂院(都立松沢病院の前身)の院長中井常次郎、当時の東京帝国大学精神病学教室教授榊俶が訴えられるという騒動に発展した。結局錦織の敗訴、誣告罪が課せられるという結果に終わったが、この事件で明らかになった、不法監禁の野放しを取り締まるためにつくられたのが精神病者監護法である。
 この法律は、精神病者を社会にとって危険であり、監禁の対象であると見なし、座敷牢を「私宅監置」と呼び、監置の責任を家族に負わせるために「監護義務者」制度をつくり、また、この法律の施行を内務省と警察の管理下に置き、警察は、監護義務者が監禁の責任を果たしているかどうかを監視するというものであった。わが国の精神障害に関する法律が監禁の合法化で始まったという歴史を忘れるべきではない。
 呉らの私宅監置廃絶の運動は議会を動かし、精神障害者の医療を国の責任で整備するための法律「精神病院法」が1919年に制定された。この法律は国および道府県に精神病院の設置を促進することを求めたものであり、私宅監置廃絶に絶対に不可欠な法律であり、この法律の制定と同時に、呉らの要求してやまなかった精神病者監護は廃止するのが当然であったにもかかわらず、そのまま生き残ることになった。その理由は、1914年に始まった第一次世界大戦に参戦し、帝国主義の道を走り出したわが国政府が軍備拡張に要する莫大な国費を捻出するために、精神病院設置運営の財源を出し惜しみする必要があったからである。その当然の結果として、「精神病院法」とは名ばかりで、精神病院の設置は一向に進まないばかりか、「精神病者監護法」のもとで私宅監置の悲劇はいっそう拡大していった。
 30年にも及んだ精神病院法と精神病者監護法の並立なる奇怪な状況に終止符が打たれ、私宅監置が廃止されたのは、太平洋戦争が終わった5年後の1950年、「精神衛生法」が制定されたときであった。呉が「私宅監置の実況」で私宅監置の廃止を訴えてから32年の歳月が過ぎていた。呉はついにこの日を見ることができなかった。
 今年はわが国の精神障害に関する最初の根拠法令である「精神病者監護法」が制定されて100周年である。「精神病者監護法」のもとでの精神障害者の生きざまをあらためて振り返り、そこから精神障害者がこの国に生まれたことを喜べる未来を迎えるための教訓を学び取ることが大切である。

15年戦争と精神障害者
 精神病院法が有名無実で、精神障害者が座敷牢に閉じ込められなければならなかったのは国が貧乏で精神病院をつくるお金がなかったからではなく、戦争に備えるための軍備にお金をつぎ込んだためであることはいま述べた通りだが、第一次世界大戦以後の帝国主義の歩みの必然の結果である、満州事変から太平洋戦争へと続く15年戦争は、一般市民にもまして精神障害者に大きな災厄を齎した。
 15年戦争によって蒙った精神障害者の災厄は、空襲による負傷や死亡などの直接の被害だけではない。戦争の長期化とともに食料の不足が深刻となり、1941年4月から食料の配給制が施行されたが、不十分な食料配給のあおりをまともに受けたのが精神病院に入院している人たちであった。この悲惨な事実をはっきりと物語っているのが精神病院の死亡統計である。ここでは当時の代表的な精神病院であった傷痍軍人武蔵療養所(現在の国立精神・神経センター武蔵病院)と東京府立松沢病院(現在の都立松沢病院)の状況を述べることにしよう。
 傷痍軍人武蔵療養所は精神障害軍人を治療する軍事保護院の施設だったため、身体的には丈夫な若い人たちが多かったにもかかわらず、1941年頃から死亡者が増加した。死亡者は1940年には1人であったが、1941年26人、1942年55人、1944年になると100人を超え、敗戦の年、1945年には160人、実に在院患者の4分の1、4人に1人が死亡した。死亡者の増加は戦後も続き、死亡者の数が平年並みとなったのは1950年以後である。食糧不足は戦後も数年続いたからである。
 東京府立松沢病院の状況はさらに深刻である。松沢病院は武蔵療養所と違って、一般市民の治療施設で高齢者も多数含まれていたこともあって、食糧不足の影響はいっそう大きかった。この病院の平時の死亡者は年間20人程度であるが、日中戦争の始まる前年の1936年にはすでに73人に増えており、1938年には121人、1940年には352人という多数の死亡者が出ている。太平洋戦争が激しくなるとその数はいっそう増え、1944年には422人、敗戦の年1945年には480人と激増し、在院者の約半数が死亡している。松沢病院で死亡者の数が普通の水準に戻ったのは1952、3年以後である。このような痛ましい死亡の原因は、松沢病院の記録が明らかにしているように、食料の不足による慢性栄養失調である。松沢病院や武蔵療養所は公的施設であり、闇の物資調達は不可能であり、政府の食料配給計画を忠実に守らなければならなかったのである。この二つの施設だけでなく、おそらく当時の全国の精神病院の患者は同じような状況に置かれていたにちがいない。精神病院に入院している精神障害の人たちの多くは、一般市民のような食料調達の自由をもたず、食料は病院から支給されるものだけに限られた。死亡はその結果であるから、病死というより、事故死であり、正しくは政府の不当な配給計画の実施による他殺というべきである。

精神衛生法から精神保健法・精神保健福祉法へ
 「精神衛生法」という近代国家なみの新しい名前を用いた法律が初めて制定され、精神病者監護法と精神病院法の二重支配の時代が終わったのは、敗戦から5年たった1950年のことである。しかし、精神衛生法は精神病院法(1919年制定)の隔離収容主義をそのまま受け継ぎ、精神病院、とくに私立精神病院を増やす施策を最優先したため、精神病院、精神病床は増加の一途をたどり、1960年代に始まる「脱施設化」(精神障害者の処遇を施設中心から地域中心に移す政策)の世界的動向から逸脱する結果を招いた。
 宇都宮の一私立病院で起きた患者の人権侵害事件(1983年)が契機となり、国の内外からの精神衛生法改正の厳しい要求に押されて、政府は法改正を余儀なくされ、1988年、精神衛生法は精神保健法に改められ、入院患者の権利を保障するための規定が設けられるなどの改正とともに、初めて授産施設、援護寮などの社会復帰に関する制度が設けられた。さらに1995年には、障害者基本法の成立を享けて、それまで皆無であった精神障害者の福祉施策を取り入れ、精神保健法が「精神保健及び精神障害者の福祉に関する法律」(精神保健福祉法)に改められた。
 わが国の精神障害者施策が精神衛生法の施設収容一辺倒から、精神保健法で社会復帰を取り入れ、さらには精神保健福祉法で福祉施策を加えるように変化した要因として、第1に、1960年代に始まる抗精神病薬の開発などによる精神障害の治療の進歩によって、精神病院に入院している人たちの退院と社会復帰の可能性が増大したこと、そして第2に、1980年代から民間の草の根運動によって地域で生活する精神障害者の働く場所(共同作業所など)、住まう場所(グループホーム、アパートなど)が全国に広がり、その活動の中から地域リハビリテーションの現状からみて、あまりにも立ち遅れている精神障害者の社会復帰と福祉に関する法制度の改正、整備を要求する運動が熾烈になったことを挙げることができるだろう。
 このようにして、現行の精神保健福祉法は、医療・精神保健に加えて社会復帰、福祉の施策を取り入れ、一応は時代の要請に応えた形となっている。しかし、その内実をみると、医療では精神病者監護法の監護義務者が保護者制度として温存されているとか、精神障害者の定義に社会復帰、福祉の対象としての障害者の視点が欠落しているなど改正を要する点が少なくないばかりでなく、社会復帰、福祉の施策にいたっては、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法に比べてあまりにも落差が大きく、法の下での不平等の見本のようなものである。一例を挙げれば、精神保健福祉法の下での授産施設の職員定数は身体障害者福祉法、知的障害者福祉法による授産施設の職員定数の半分である。
 精神保健福祉法は第1条目的で精神障害者の「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行う」ことを謳っているが、それは本当に実行されているのだろうか。その答えが否であることを、わが国精神医療の恥辱ともいうべき社会的入院の存在が歴然と証拠だてている。

21世紀に向けて
 現在、全国の精神病院には34万近くの在院者がいるが、その少なくとも4分の1、8万人以上の人たちが引き取り手がないとか、退院しても生活のめどがつかないなどの病状以外の理由で病院暮らしを余儀なくされている「社会的入院」と呼ばれている人たちである。入院の必要のない入院という不条理なことが、今わが国ではまかり通っているのである。その主な理由が、退院できる人たちを受け入れる地域の態勢が整っていないことにあることはあまりにも明らかである。民間の努力で法内、法外の共同作業所やグループホームが全国に1500か所近くつくられているが、それではとても足りないのである。
 総理府が1996年に発表した「障害者プラン。ノーマライゼーション7か年戦略」も、社会的入院の問題を取り上げ、その原因が地域の社会復帰資源の不足にあることを認めて、社会復帰施設の拡充、強化を約束し、極めて低いものであるけれども、数値目標まで掲げているが、7か年の半ばが過ぎた現在まで、まったく実現されておらず、精神保健福祉法による社会復帰施設の設置が進まないので、無認可小規模作業所が精神障害者の地域リハビリテーションの担い手の役割を果たしているのが実情であり、社会的入院の解消とは程遠いありさまである。
 21世紀に向けて今必要なことは、国が「障害者プラン。ノーマライゼーション7か年戦略」の約束を実行し、精神保健福祉法の目的である精神障害者の「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進」を謳い文句ではなく、現実のものとすることである。そのためには、精神障害者の地域リハビリテーションの実態を担い、社会的入院の解消と精神障害者の福祉に貢献している1000余を数える全国の無認可小規模共同作業所、あるいは無認可小規模グループホームが、これまでのように助成金の不足から運営に苦しむことがないような施策を講ずることが必要である。
 先般、社会福祉基礎構造改革の一環として社会福祉事業法が「社会福祉法」と改められ、これまで極めて困難であった社会福祉法人取得の条件が緩和され、無認可施設が法定施設となる道が広げられたことは、障害者福祉制度の一歩前進として評価されるが、重大な問題は、法定授産施設などの助成制度が従来の措置制度から利用者の支援制度に変わることであり、支援費の決め方がまだ検討中ということである。
 すでに国および地方自治体では、財政再建を旗印として社会福祉の予算の切り下げが強行されている。もしも措置制度から利用者の支援制度への転換が財政緊縮の意図のもとでの方便であるとすれば、社会福祉の切り捨て以外のなにものでもない。障害者プランの「数値目標」にしろ、精神保健福祉法の「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進」にしろ、それが実効を伴わないのは、それに必要な予算が伴わないからである。どんなに立派な政策でも、必要な予算がなければ絵に描いた餅にすぎない。
 現代の精神障害者は、今世紀初めの「私宅監置」の時代とはまた別の意味で、「此邦ニ生レタルノ不幸」を背負っていると言わなければならない。
 精神障害者にとって、20世紀は「此病ヲ受ケタルノ不幸」と「此邦ニ生レタルノ不幸」の二重の不幸を背負って生きた時代であったが、21世紀をすべての障害者が「この国に生まれたことをしあわせに思う」時代にすることこそが、これからの障害と福祉に携わる人たちに課せられた使命であろう。
(あきもとはるお 財団法人日本精神衛生会会長、共同作業所全国連絡会顧問)

(財)日本障害者リハビリテーション協会発行「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2000年7月号(第20巻 通巻228号)
by open-to-love | 2007-04-30 13:12 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)