精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


by open-to-love
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリ:優生思想( 11 )

相模原「やまゆり園」事件を考える対話の集い-共に生きる社会をめざして―

関係者、地域のみなさまへ 
このたび、「相模原『やまゆり園』事件を考える対話の集い」を開催したいと思います。

 「相模原『やまゆり園』事件」は、平成28年7月26日にひき起こされ、重度の知的障がい者19名が犠牲となりました。容疑者は、同年2月に出した衆議院議長あての手紙のなかで「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、および社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる社会です」「障害者は、不幸をつくることしかできません」と書いています。報道によると、事件後も「障がい者なんていなくなればいいと思った」と繰り返し述べています。

 この事件によって、障がいを持つ方や家族の方々の多くが、強い憤りとわが身を切られるような痛みと衝撃を感じています。障がいをもつ方々の福祉の向上を求めて取りくんできた方々の多くが、これまで築きあげてきた「共に生きる社会」のもろさを思い知り、差別の問題の根深さを思い知らされています。
 しかし私たちは、こうした衝撃や差別問題の根深さにいつまでも打ちひしがれているわけにはいきません。この事件を早々と忘れさってしまうのではなく、この事件から何を学び、これからに向けて何をしていくべきかを考え続けることが必要だと思います。
  
「障がい者はいなくなればいい」という容疑者の言動は決して許されるものではありません。あわせて、容疑者や事件の特異性だけに目を奪われるのではなく、それを生み出してしまった社会の現状に目を向け、二度とこうした事件をひき起こさない社会を築きあげていくことこそが求められています。平成28年4月からはじまった「障害者差別解消法」をもとに差別の無い社会をつくっていくこと、そして「共に生きる社会」の真の実現に向けてみんなで考えあい行動していくことが必要だと思います。
 また、この問題は、障がい者問題にかぎったことではありません。少数者(マイノリティ)や社会的弱者といわれる方々への差別やいじめの問題とも根っこはつながっていると思います。だからこそ、社会全体の課題として考えあうことが必要(ひつよう)だと思います。

 こうした思いで、「相模原『やまゆり園』事件を考える対話の集い」を別紙(裏面)「開催案内」のとおりに実施したいと考えます。ご賛同いただき、ご参加いただければ幸いです。

  平成28(2016)年12月
「相模原『やまゆり園』事件を考える対話の集いinもりおか」実行委員会
世話人代表 加藤義男(もりおか障がい者問題勉強会Ko-Koの会)

a0103650_22562576.jpg


相模原「やまゆり園」事件を考える対話の集い ~共に生きる社会をめざして~

【開催のねらい】
この事件で犠牲となった方々への追悼と、この事件をとおしての思いを話しあう。そして、この事件から何をくみとるのか、そして二度とこういった事件をひき起こさない社会にするにはどうしたらよいかを考えあう。

【日時】
 平成29(2017)年 2月11日(土)13時30分~15時30分 (開場13時)

【会場】
 ふれあいランド岩手「第1、第2、第3研修室」(盛岡市三本柳8-1-3)

【内容】
 (1)黙祷と歌「19の軌跡」(19人の犠牲者をしのんでつくられた歌)
 (2)開催にあたってのあいさつ
 (3)話しあい(指定発言、自由な話しあい)
 (4)「関係者からのメッセージ」紹介
 (5)「アピール」

【主催】
 「相模原『やまゆり園』事件を考える対話の集いinもりおか」実行委員会
 ○実行委員会構成団体(順不同)
   岩手県重症心身障害児(者)を守る会盛岡圏域分会
   盛岡ハートネット
   もりおか障がい者問題勉強会「Ko-Koの会」
   白馬塾
   もりおかCS懇(もりおかコミュニティソーシャルワーク懇話会)

【参加申し込みなど】
○趣旨にご賛同の方であれば、どなたでも参加歓迎
○参加人数把握のため、できるだけ事前の参加申し込みをお願いします。定員100名
 (会場に余裕のある場合は、当日参加も受け付けます)
○参加費は無料です
○事前申し込みはメール(ykatou65@ybb.ne.jp)かFAX(019-662-8481)で、「相模原事件の集い参加申し込み」として、お名前と連絡先をお知らせください。1月25日締め切り
○問い合わせは、実行委員会・加藤(ykatou65@ybb.ne.jp)へ

☆ハートネットのみなさま、ぜひ、ご参加くださいね。(事務局・黒田)



by open-to-love | 2017-01-23 23:18 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)
福祉法制度改正とソーシャルアクションー優生保護法改正のプロセス分析…下
(滝沢武久)

Ⅳ 法改正後のインタビュー(社会部会長)

 「今回の優生保護法についての論議の発端は、平成3年に「障害者プラン」を我が党が作成するときに論議が出たのがきっかけです。「従来からこんな大きな差別の法律の優生保護法があるようでは矛盾をしておかしい、とても障害者プランそのものが作成しにくい」ということだったのですが、その時はすぐに改正できないので次に改正しようということでした。新しい障害者プランの基本的哲学は、「人間は障害のあるなしにかかわらず天の下に平等」であるということを唱いたかったのです。と我々作成委員会のメンバーの考え方だったのです。障害者プランの基本的な理念は、まさに障害というものは「単なる能力の差ではないのか、知恵遅れにしても、足が早いとかそういうものと同じではないのか。一部の能力の差、いわば個性の違い・差なのではないのか。それによって人間の価値が変わってくるのはおかしい。人間は個性の差や能力の差というものを乗り越えて共に生きていく社会。お互いが活かしあって行くような社会を大事にしたい。だからそういう差があっても一緒に暮らしていける社会を作りたいというのが障害者プランの基本的理念です。その理念に基づいて、障害のある人とない人が一緒に暮らしていけるような共生の社会、自由に動き回れる社会、色々な仕事に行って食べていける社会を」ということでした。
 優生保護法にあるような「不良な子孫云々」とか「遺伝性疾患や障害は抹殺してよい」というような法律のある社会では、そんな背景で出てきた障害があったら生きてはいけない、というのはまさにおかしい。人間への観方としてとんでもない・障害を持っている子どもはこの世に存在してはいけないという酷い考えになってしまう。存在の根源から絶つというのだから差別とかより酷い! 人間否定だからこの法律は許せない! 確かに人間社会はいろんな差別があるが存在否定の法律は直ちに改正すべきだという意見は尤もでしたが、実はその法律の改正が何回か失敗しているという事実があったのです。
 この法律は大変な背景や問題を含んでいたのです。そこに触れると根本から覆ってしまうそういう大変な問題がありました。そうです「妊娠中絶」のところです。宗教界や女性団体が論議しはじめたら纏まらない。女性問題と宗教上からの意見や妊娠中絶の理由として経済的問題とかが入って、収拾がつかなくなってしまう、と判断したのです。
 些か個人的にもある経験をしたのですが、私の県会議員選挙の時に、丁度、妻が上の子を身籠っていたのですが、しかし妻が疲れ果てて倒れた時に医者に診てもらったら「あぶないですね」「かなりの確率で障害を併発するかもしれない」「中絶しますか」と勧められたのです。私たちも深刻に考えたのですが、考えた挙げ句、結局やはり中絶は止めよう、ということにして生んでもらいました。個人的ですが、そんな経験で、医師の言うことも必ずしも絶対ではないし、私たちは子どもを見るたびにつくづく思うのです。「生んでよかった」と。だから、中絶云々は今回は論議せずに、むしろ全く触れずに、「いわゆる障害者の存在を許さない、人間そのものを否定するところ」のみを綺麗にカットする。結果としてはその名前も、関係のある部分も全くクリアカットしてその部分だけで法改正する。一言で言えば、障害者プランを作るとき、与党の中で協議して確認してきたことを、今回は障害者団体や障害者福祉団体ともその確認が出来ていたので一連の作業の中で問題提起してきたことのみを優生保護法の一部改正に持っていって良いと考えたのです。なにせ、中絶の問題に触れると果てしない論争になってしまうので、だれでもが共通している障害者問題のみを修正する事にしたのです。
 ご承知でしょうが、改正までにやはりいろいろな動きがあって途中駄目かなと思うときもありましたが何とか改正できたのは野党の人も、これだけでも削除しなければと、協力してくれたからです。政府提出の閣法で出来ないかは早くから困難だと思っていました。多少批判があるかもしれないけれどやむを得ないと思ったのです。その決心は党の政務調査会での論議のとき決断しました。ともかく議論が多いものは政府が纏め切れないので議員立法に馴染むのです。政治判断でしょう。法律の名前が論議されたけど法文の中身で「母体の保護」という表現があったので最後にその表現を活かして「母体保護法」ということで決着したのです。障害者の多くの人たちは納得してくれましたが他の人からはなお注文がついたので「付帯決議」をつけて今後の努力を約束しました。」

終章 まとめにかえて

 1.かつて、政治学の分野では幾つもの「政策決定過程の分析」が出ているが社会福祉分野でソーシャルアクションが話題になることは久しく無い。社会福祉対象が抱える生活上の諸問題は個人あるいはその分野の集団の人が、生きていく適切な要望に係わらず専門家が施策整備面で支援することが少ない。ともすればいわゆる技術者意識が旺盛な彼らは敷かれたレールの上で役割を果たすが新たなシステムを開発することは少ない。当事者団体の社会運動によってなされることが多い。それに関わり続けるソーシャルワーカーこそが必要である。

 2.優生保護法、らい予防法が改正された。かつて結核予防法も朝日訴訟という裁判闘争によって大きく変化したと言われている。時代の変化もあろうがその裏には当事者の汗と血の結晶があることを忘れてはならない。こうした法制度の改革を外側から低い評価をしているだけでは専門家は当事者から見捨てられるであろう。逆に専門家こそ一番の収奪者(専門家が一番の敵だ!との声)になるかもしれないという意見がある。
 社会福祉や医療にかかわる人々はこうした活動に一番協力を求められるのかもしれない。協力を求められる前にむしろ関わらなければならないと思う。

 3.らい予防法は多くの医療費から生活保障に切り替わったように財政負担に変更が少なく、今回もまた大きな予算措置が伴わないから法改正が出来たという意見がある。そうかもしれないが、それでも当事者にとって大きな法改正であったと評価するので今回その記録を立証すべく研究課題とした。本来、病気や障害者に最も必要な施策を察知し、如何に政策課題としていくかが問題であるがなかなか現実は困難である。今後も当事者の積極的な活動に暫く待つ必要が当分続きそうである。それが日本式社会福祉の形成であるのだろうか。この点は何とか改善しなければならない。

参考資料1
※「日本研究」第16集平成9年9月 創立十周年記念特集号
※森岡正博◎優生保護法改正をめぐる生命倫理(p213)
○1995年、全国精神障害者家族会連合会から提出された。「優生保護法の見直しを求める要望書」が自民党社会部会に提出された。その内容はまず、優生保護法では「障害者を不良な子孫と位置づけ悪性の遺伝子を淘汰するため障害者や障害者の家族を有する者に対して不妊手術や中絶をする」という優生思想に基づく規定が残されている。94年のカイロ会議でもこの件に関して問題提起があり「せめて最低限の手直しを緊急に行わなければ、国際的にも禍根を残すことになりかねない」云々。
○こうやってみると、今回の優生保護法改正は、この全国精神障害者家族会連合会からの要望を全面的に受け入れる形でなされたことがよく分かる。新法律の名前を「母性保護法」とすること(自民党は最後までその方向で動いていた)や、優生手術のかわりに「不妊手術」とすることなどの提案まで含めて、彼らの主張にそった改正案であった
○「カイロ会議で起きた海外からの外圧」とまず一部の障害者団体からの要求を受け入れるという形で推移したのである。

参考資料2
※「時の法令」1996年12月15日
「優生保護法」から「母体保護法」へ【優生思想に基づく規定の削除等】
優生保護法の一部を改正する法律(平8.6.26交付 平8.9.26施行 法律第105号)
○今回の優生保護法の改正は全国精神障害者家族会連合会等の障害者団体から強く要望されていたものである。
○また、引き続き精神障害者に対する差別や偏見を助長するような、各種資格制度等における精神障害者の欠格条項の見直し等にもとり組んでいかねばならない。
by open-to-love | 2008-11-02 23:32 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)
※来たる11月6、7日の岩家連秋季当事者支援研修会で講演する滝沢武久さんの論文を紹介します。全家連の歴史と、その中における滝沢さんのスタンスがよく分かるかと思われます。(黒)

日本社会事業大学社会事業研究所年報 第35号抜刷 1999年12月1日発行

福祉法制度改正とソーシャルアクション-優生保護法改正のプロセス分析

滝沢武久

序章:優生保護法の影響を精神医療当事者・家族等はどんな風に感じてきたか

 我が国における精神障害者の医療・保健・福祉の各種の法制度の施行下でその当事者・家族達はどんな内容の影響を受けてきたかが問題である。しばしば専門家の位置からは見えない・感じない価値観が当事者・家族・市民にはあるもので、そうした立場の相違が案外過少評価されてきた傾向がある。近年における同和問題が典型的だが「足を踏まれた者でなければ痛みが分からない」という論理・体験は冷静に検討し尊重されなければならない。
 とりわけ、精神医療の分野で「遺伝・不治・危険」というイメージは多くの精神病者やその家族あるいは市民にとって「精神病(院)」と直面した後こそ大変重みのある問題であるが、専門家はこれらを「偏見・誤解」だと評しがちである。それでいて「診断を受けた患者・その家族の痛み」は無体験の専門家には理解しにくいと言える。かつて「ライ病(ハンセン病)」に対する「ライ予防法」の歴史を振り返ると記憶に蘇ってくるが、ライ者とその家族の痛みは「ライ文学に著わされている以上に心をえぐられる思いがする」との声は多くの共感を呼ぶ。「戸籍を抹消され、断種を強制され、殆ど生涯を(療養所という名前)の強制収容所に隔離収容された状態」は「ナチスドイツの処遇とどう違うのか」の問いに答えるのに苦労するという声がある。このように生きながらの肉体的・精神的苦痛を、しかも無言で永年、患者・家族に与え続けるその無形の影響は計り知れず、この問題は極めて「生命倫理」的な問題である。当時の状況からは、身体医学レベル、治療法・栄養状態・市民の生活レベル・公衆衛生知識、社会経済、国家財政等諸々の状況の理由があるが、現行精神障害者に対する医療も同じ状況だとはいえないだろうか? WHOの疾病・障害の概念規定や解釈等も影響してくるであろうが、国民の中での少数者である精神の病者・障害者とその家族に対する客観的に厳然たる「人間の権利否定」の事実がそこにある。「患者・家族等当事者や市民の受け方が問題だ」とだけでこの問題を切って捨てるわけにはいかないだけの「彼らの人生への大きな影響の痛み」を含んでいる事態なのである。まして近年も、未だに「鍵や鉄格子を装着して患者の行動制限を当り前の如くしている精神病棟」が存在し続け、「本人の意思に基づく任意入院でも閉鎖病棟処遇が行われているなど」人生の途上で精神病・症状を一度でも体験しそうな「ストレスフル」な現代社会であればあるほど当事者も市民もイメージとしても「内心の危惧」は理解できる。繰り返して言えば「絶対隔離収容のライ予防法は公衆衛生・政策医療の失敗」であったのである。からして「廃止」されたのである。現在、患者の一部から「国家賠償請求」が出されているがどう展開するか興味深いものがある。
 我が国の精神科医療は殆ど戦後の50年余の短い期間に形成されたのであるが、その内容は大いに歪んだ形になってしまった。日本の経済復興一辺倒の商業主義の中で弱肉強食の論理が貫かれ、実に見事なまでに、ある精神病院長自らが「日本収容所列島化」と評する現象を呈した。例えば、強制入院である「措置入院」の数の多さや「長期入院」がいわゆる地理的にも「西高東低」に分布し「疫学的」では決してなく、強制入院を経済的家族自己負担を軽減するという一見福祉的理由に、温情的な装いで歪めた「措置入院」を選択して、その背景に精神科医療を民間企業である私的精神病院のその院長に多くの権限を持たせ、精神病に対する「自傷他害」を原則とした、いわゆる社会防衛主義(思想)を根底にした、「精神の病は病識・病感を持たない」とばかり強制医療を、画一的に前提にして古い西欧モデルの病院精神医学に準拠した医療を中心に展開させるに任せたからである。と同時に、一部のマスコミは精神障害者によるとされる「傷害致死」事件を針小棒大に一斉に報道すると、その結果、世間の精神病に対する「危険視」や「社会復帰不能」イメージが強く、実に精神病院への入院期間は「20年で鼻垂れ小僧、30年で一人前」の如く「精神病院を終いの棲」にする社会的入院者で過半を占め、一部に繰り返しの短期入院者がいるという構図になったのである。「診断の概念は拡大する一方で、治療に対症療法しかないためのツケは大きく」そのため、次第に入院者が増える一方、弱体化する高齢化家族に大きな扶養、保護義務と「引き取り義務」という無理難題を押し付け、強制入院でありながら「医療保護」入院と称し、「医師の主体的判断ではなく家族の希望で入院!」と思わせ、「本人と家族の確執」を傍観し「家庭内葛藤・時には家庭内暴力・傷害致死等事件を内包させ」、それでいて退院の責任は「法制度を理由」として家族や本人に帰す。という対応を、政策的にも技術的にも行政・精神医療関係者はとったのである。入院こそベストとばかりに拡大した結果は「多勢の帰るべき家を持たない放浪者」の如く「今浦島太郎」を生み出したのである。現在の精神病院はそうした「社会的入院者」で過半が占められているのである。我が国は、先進西洋諸国が地域医療に展開したのにもかかわらず、昭和43年の「クラーク勧告」を無視しWHO顧問の問題指摘通りに「収容所列島化」したのである。その上、精神障害者家族が主張した「精神障害者福祉法」を「家族は医療を断念して治療を諦める」と批判し続け、リハビリテーション医療や職業・就労支援の「障害者雇用促進法」の適用は身体障害者に20年余遅らせ未だに雇用率の対応は無い。知的障害者にあった「通勤寮」のような住宅確保支援施策には「中間施設批判」で遅らせた専門家こそが「紺屋の白袴」だったのである。国際障害者年決議まで「WHOの障害概念」の変更に気づかず「古い欠陥固定」の「障害概念」に縛られ「家族が精神障害者福祉を」と言うと「症状が流動的であるので永遠に治療こそ必要」といったのは誰であろうか。やがて長期入院者の増大と「施設症者の現象」に気づいて「慌てて精神保健福祉法」に賛成をしたのが我が国の精神医療・福祉専門家であった。また「メディカルモデルとリーガルモデルの論争」と高尚に聞こえるが実質は両者の「パターナリズム」であった。精神病院には一律に「鍵と鉄格子」を装着し、病院というより各県庁所在地にある「刑務所」の様なイメージの「不安感を市民」に与え、必要以上に行動制限をしてきてその挙げ句、急に本人にADL(自立能力)やQOL(生活の充実)を求め、ひたすらネガティブな症状ばかりを診断し、さらに入院を延ばし、薬の量を増やす悪循環を再生してきたのである。従って「遺伝・危険・不治」のネガティブイメージは増幅される。マスコミによる事件報道は、何の権利や根拠に依るかは不明のまま、針小棒大に一瞬にして、「過去の治療歴や病名」が報道され、国民に「犯罪者予備軍」意識を想像させ、更に入院中のリハビリテーションシステムの遅れを招くという状態の繰り返しであった。
 平行して、優生保護法に科学的根拠のない「遺伝性疾患」「不良な子孫」等の用語をちりばめ、厚生省を中心に各省庁が所管する法律のなかで、各種の職業取得条件に制限条項「欠格条項」を付けつつ「精神障害者」を排除し続けてきたのである。確かに一見、当初の立法の精神の根拠は「病気や障害者を保護する」かの如く趣旨ではあるが実際はむしろ排除する効果しかないことが鮮明であるにもかかわらず、こうした二重・卅の理由づけのなかで「ますます遺伝・危険・不治」イメージは世論的には固定化してきたのである。こうした歴史的背景の中で、別な理由(後述)するが、「優生保護法の改正」は我が国精神医療関係者及び全国精神障害者家族会連合会にとっては、文字通りタブー状態になっていて、多くの関係者が長いこと改正を望んでいつつも実現不能(後述する種々の条件で)なテーマだったのである。なお、それ以外にも精神医療界では実現不可能な法制度と思われてきたのは、先述した職業資格取得制限条項(通称欠格条項問題)があるが、この件については全家連は1993年に研究会を設置し報告書として作成し、関係省庁に働きかけた結果、数度にわたる精神保健法の改正に徐々にではあるが改正されはじめている。と同時にようやく見直しの気運が見え始めた。

Ⅰ 当事者団体のソーシャルアクションの歴史

 昭和59年、衝撃的な新聞報道が精神医療関係者や当事者・家族を襲った。栃木県宇都宮病院内で入院患者が看護者の暴力で殺されるという、医療機関内ではありうべからざる事件があった。連日の新聞報道により国連の人権小委員会及び国際法律家協会(ICJ)・障害者インターナショナル(DPI)等の国際機関の調査団が相次いで来日し、改善勧告を出した。それまで「精神衛生法の改正や精神障害者福祉法」制度にはテコでも動かなかった厚生省は突如として国連の場に精神衛生課長を派遣し「精神衛生法」改正を確約したのである。いわゆる外圧を契機にしたのである。
 この時こそ最大限に活動を始めたのが全家連であった。少しこの全家連の経過を見てみると、昭和40年に精神衛生法の改正があったとき、「当事者の組織が必要」とのことで多くの先進的精神病院長の主導により、先ず病院家族会が生まれその全国の活動体として組織された。例えば、昭和39年に起きた駐日アメリカ大使のライシャワー氏が大使館公邸で少年にナイフで刺されて傷を負うという事件があったが、少年が精神医療中断者であったことから、時の政府首脳は政治外交問題と見て、精神障害者の警察登録制を企画したが、それに反対する専門医療関係者の中から「当事者の主張」が効果的とばかり全国規模に働きかけられ組織されたと言われている。その後、昭和40年代は学生運動や組合闘争が盛んであったり、思想的対立が精神科医の中で活発でありその論争に翻弄されつづけたのも全家連であった。昭和42年には全国の家族会員の拠金を基に財団法人化したが、運営は当事者の手探りであったため、より大変なのは「精神医学・反精神医学」論争であり、また全共闘と精神科医共闘会議、あるいは新左翼と左翼といわれる思想的対立を根底に持っている背景のため何とも理屈的であった。こうした精神科医中心の論争は、専門知識や政治活動に疎いいわゆる素人集団である家族や市民に、とりわけ家族会指導者には大きな混迷を呼び、家族会活動の方向性に大きな障害を及ぼした。昭和50年の全国精神障害者連合会の大会の混乱がそれを象徴し、執行部は立ち往生して辞任し、結局大会プログラムを全う出来なかったのである。昭和50年より3年間にわたり全家連最大行事の全国大会の開催を休止せざるをえなかったのである。翌年が国際婦人年であったこともあって女性の理事長が選出された。昭和54年に再開された全国大会でようやく、役員体制を立て直して、共通する命題である。「障害者福祉」を旗頭にして独自の法文案を作成するなかで「精神障害者福祉法」制定を医療関係者抜きで再提案した。とりわけ昭和55年には5党の国会議員による「精神障害者福祉法」シンポジウムを行い、かなり政治的な問題提起をしたが、当時の精神医療関係者(日本精神神経学会、日本精神病院協会、臨床心理学会、精神科看護技術協会、精神科ソーシャルワーカー協会、地域対策協議会等)はこぞって「精神の症状は常に流動的で欠陥・固定しない」といった趣旨等で全家連の「福祉」対象的論を批判し、大反対をした事実がある。当時、既にWHO等では「疾病と障害」の概念についての検討が行われつつあり、「疾病と障害」の共存が通説だったのにもかかわらず、我が国では専門家自体がその認識がなく「障害とは欠陥固定のするもの」という旧来の概念に一番固執していたのである。当時の時代が「確執の時代」だと言えばそのとおりだが、当時こそ「経済発達の最高潮なときであり有効な社会復帰施策の展開の最大なチャンスを失ったのである」

Ⅱ 経過分析

 1.国連人口会議の席上では、日本人女性障害者の日本における優生保護法の問題提起があって、海外委員出席者からは驚きと共に支持された。出席した日本政府代表は多くの批判者の中で大変苦渋に満ちた立場に立たされた。その情報は帰国後レポートされ多くのこの問題に関心のある団体から優生保護法の改正問題は高い関心を持って共有された。

 2.翌年の女性国会議員の厚生省に対して要望書が出された件も、情報として関係団体に伝わった。

 3.全家連は、優生保護法の一部「医療器具販売期限」の5年間定期的延長が行われるため、部分改正の必要がありそれが政府当局により事務的に行われることを知り、あるいはこの機会に優生事項改正を提起すべきかを厚生省に確認するも、「要望書を出すか出さないかは団体の決めること、そして事務的改正事項以外は前回の法改正論議以来、特に状況の変化はない(論議が集結したとは言えない)、多分困難ではないか」との意見に、厚生省に出しても無理と判断。むしろ政権党に出す意向を固める。理事会の中でそれを決め、結局「自民党」に要望書を提出した(昭和58年に結成された与党自民党内の議員連盟「精神障害者社会復帰促進議員懇話会」の幹部議員の助言による結果である)。ともかく、時間をかけ広く議論をしたらかえって絶対まとまらないと見て一点突破(優生事項削除のみ)をする事という作戦をたてたのがこの頃であった。

 4.上記議員連盟幹部議員が当時社会部会長などであって、それまでにも精神衛生法、障害者基本法、精神保健法、精神保健福祉法改正と継続的に働きかけ続けてきた関係もあり、党政調から政府に事情聴取を開始してくれ、調整した模様である。自民党社会部会長は早速団体ヒアリングを開始した。(日母、日医と並んでの障害者団体が全家連のみであった)

 5.自民党社会部会長は、すぐに再度厚生省に法改正の問題点などの検討を依頼した模様で、厚生省でも議員向けの情報整理を行う必要があり、過去の問題点の洗い出しや検討課題などの整理の会を何回か開催し始めた。

 6.この間、全家連は厚生省の検討結果によっては、議員立法もありうると判断し議員連盟の国会議員への陳情を波状的に繰り返し行った。

 7.それと並行して、全家連が加入する日本障害者協議会(JD)での政策委員会にも問題提起を行い、他の障害者団体と共にこの問題の洗い出しをすべく「研究を依頼した」。それを受けて日本障害者協議会では数度にわたる政策委員会で論議し、傘下団体にアンケートを実施しそれをまとめて資料として作成し、要望書と共に自民党他の政党及び厚生大臣宛提出した。

 8.こうした間、徐々に従来この問題に積極的に動いてきた女性団体などが活動しはじめたが、その動きは厚生省や野党に向けられ、必ずしも政権与党自民党には向かなかった。厚生省担当者は、過去2度にわたって大きな論議になったものの詳しく分析すればするほど、なかなかコンセンサスが得られにくいものとして、政府提案の法改正には悲観的な感触を示していた。

 9.この間、共産党議員の国会質問に対してもその内容が追及的なだけに政府提案にはならない雰囲気であった。

 10.しかし、自民党社会部会長はかなり積極的に動き、議員立法及び政府提案の両睨みで対応すべく、当時の自・社・さきがけの与党3党及び新進党の意向を探り、各党の意向を調整する会議を提案していった。また、立法の慣例的なこととして委員長提案を活用して行ったことも詳細な論議を経ずして採決に行く方法もこの頃論議された。

 11.その意向もあってかD党も団体ヒアリングを行ったり各党が党内打ち合わせに入っていった。この頃には当然立法府の動きに合わせ、政府は法案の骨子や概要づくり作業に入り原案が練られていった。その内容は、母性保護法であり、「不良な子孫云々及び遺伝性疾患の羅列を削除」する趣旨のものであった。

 12.この当時でも、阻止連や日本DPIは厚生省へ陳情を続けていた。その内容は「不妊手術に関すること及びリプロダクティブヘルス」等であったが、むしろ逆に厚生省ではなくて、立法府各政党がイニシアティブを持ちつつあった。当然にも政権政党の社会部会長が自民の提案として考えを固めていき党内調整を大きく働きかけたのである。とりわけ、宗教団体を背景とする党内有力議員へ、限定した極く一部の改正であることの説明了解を取り付けてであった。過去2度の轍を踏まないためであったし総務会を中心とする党内機関重視手続きをふまえての行動であった。

 13.こうした動きを察知した全家連は、再び、緊急「法改正推進要望書」を各政党の厚生委員、医系・福祉系の国会議員に繰り返し、波状的に働きかけていった。

 14.政権政党A党には立法の技法として、一定の友好団体の要請には積極的に対応しようとする姿勢がありこの波状的陳情は大きく影響していったものと思われる。

 15.A党提案の法の名前についてB・C党から反対意見が出たり、また超党派の女性議員がこの問題に積極的に動き、与党の幹事長に直接交渉したため、最終的には名前が変えられて「母体保護法」ということになり、厚生委員会理事会及び本会議では殆ど全会一致で可決し本会議には欠席議員7人が出た。

Ⅲ優生保護法国会など審議過程(含当事者団体折衝)

1994年9月 カイロ「国連人口開発会議」開かれる。
1995年2月中旬 衆参女性議員24名より厚生大臣へ要望書出される。
     2月下旬 DPIに本委員会より要望書が厚生大臣へ出される。
     4月23日 全家連より自民党・厚生大臣へ要望書出される。
     5月上旬 自民党社会部会長、厚生省より事情聴取始める。
     5月15日 自民党、関係団体よりヒアリング開始(日医、日母、全家連)
     7月下旬 自民党社会部会長と厚生省論議開始
     8月上旬 厚生省内で法改正の可否等打ち合わせ作業開始
    10月中旬 同
    10月下旬 同
    11月中旬 厚生省と自民党社会部会長打ち合わせ
    12月13日 各界女性有志代表より厚生大臣へ要請書提出
1996年1月12日 日本障害者協議会より厚生大臣・各党へ要望書提出(団体アンケート添付)
     3月15日? 優生思想を問うネットワークが厚生省と交渉
     3月中旬 女性議員有志並びにNGOが厚生省と交渉
     3月15日 衆議院厚生委員会で共産党議員より質問
     5月中旬 自民党社会部会役員と厚生省打ち合わせ
     6月上旬 与党(自・社・さきがけ)及び新進厚生調整会議(自民党社会部会長)
          各党代表議員打ち合わせ
     6月上旬 衆議院議員運営委員会理事会開かれる
     6月上旬 C党拡大政調役員会開かれる
     6月上旬 D党国民生活拡大会議に団体(日母、日医、全家連)ヒアリング
     6月上旬 B党厚生行政見直し会議・両性平等合同会議
☆6月上旬での各党の現状は、自民党(政調・審議会、総務会開催で了承)案を与党厚生調整会議で説明の結果の対応。B党は、検討小委員会を7日又は来週前半に設定し検討する。C党は、自民党案を聞いた上で今後対応策を検討する。D党は、団体ヒアリングを行ったが自民党案を聞いた上で検討する
     6月5日 阻止連他が、法見直しに関する意見書・不妊手術等の法律案を発表
     6月上旬 衆議院、参議院厚生調査室が説明(この頃までに法律等の提案理由説明案がつくられる)
     6月上旬 B党厚生部会法律見直し検討小委員会開く。同日、厚生省へ、DPI日本委員会及び女性ネットワークが陳情(交渉)。同日、B党、修正案作り。
     6月上旬 与党福祉プロジェクト・3座長会議
     6月10日 全家連より、緊急法改正推進要望書提出(自民、社、さきがけ、新進)
     6月中旬 与党福祉プロジェクト・厚生調整会議(党内手続き他)。同日、B党、拡大厚生部会。同日、D党、国民生活政策拡大会議。
     6月中旬 B党厚生部会
     6月中旬 超党派女性議員等「母性保護法」題名変更要請行動(自民党政調会長)へ
     6月中旬 与党厚生調整会議・福祉プロジェクト・3座長会議(合計4人)題名変更について
     6月中旬 与党政策調整会議「題名変更」及び「リプロダクティブヘルスに関する付帯決議」並びに改正フォローアップチーム新設。同日、D党、明日の内閣・国民生活拡大会議
     6月14日午前 衆議院厚生委員会理事会にて和田委員長提案で可決。衆議院本会議にて可決成立
     6月17日 参議院厚生委員会にて全会一致で可決
     6月18日 参議院本会議で可決成立
(「下」に続く)
by open-to-love | 2008-11-01 17:47 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)
問18 では私たちは、出生前診断や妊娠・中絶・出産に関する問題について、どう考え、どう取り組んでいけばいいのでしょうか?

 今まで述べてきたように、出生前診断の最大の目的は、障害児が産まれてこないようにすることです。障害児が産まれてこないほうがいいというのは、健常者の自分勝手な言い分に過ぎず、それこそが優生思想であることは、これまでの項目でお話ししましたね。
 国としてのあからさまな優生政策は優生保護法でした(問11)。しかし、出生前診断とその結果としての障害をもった胎児の中絶も、個人の選択のように見えますが、知らず知らずのうちに選ばされているという意味では国の優生政策の一環だといえるかもしれません。
 優生政策を生みだし支えているのは、社会や私たち一人ひとりの中にある障害者に対する偏見と差別です。私たちがまず取り組まなければならないのは、そういった偏見や差別をなくしていくことではないでしょうか。そんなことをいっても、どうしたらいいのって思う人もいるでしょうね。でもその前に出生前診断を別の面からもう少し考えてみましょう。
 出生前診断は、産まれてくる子どもを資源として位置づけ、その品質管理を行うという意味をもっています。そもそも、人のからだを資源として利用するという考え方は、本来、個人の自由な意思のもとに行われるはずの生殖を、国が管理しようとしたことから始まっています。
 問11でお答えしたように、国は、人を資源として考え、あるときは兵士として、あるときは労働力として効率よく利用するために、堕胎罪や優生保護法などの法律をその時々に応じて運用し、妊娠、出産、中絶を管理し、生殖をコントロールしてきました。今、そこに、出生前診断という科学技術が付加され、人という資源の質を生まれる前に選ぶことができるようになりました。その対象は胎児にとどまりません。新しく開発される出生前診断では、不妊治療の技術を使って女性のからだから取り出した受精卵やその遺伝子を検査し選ぶことができるようまでになっています。
 これらの技術は、科学の名の下に一見中立であるかのように進められています。しかし、科学も人間が築いてきた学問ですので、人間社会の影響(つまり、差別的な考え方やお金儲けをしたいという気持ち、ですね)を確実に受けています。出生前診断をはじめとする先端的な医療技術は、それを開発した研究者や検査会社、製薬会社、医療施設などに大きな収益をもたらすのです。
 私たちは、こういった科学技術が、何にもとづいて、何を目的として、何のために、だれのために進められているのかについて、常に監視の目を怠らず、積極的に意見を述べていかなければなりません。知識がなければ、知識を要求しましょう。意見を述べるための正確でわかりやすい情報と、一般市民を含めた議論の場を保障するよう、研究者や医師、国などに求めていきましょう。
 私たちが、社会で行われていることに関心をもち、自分なりに考え、意見を述べていくことが、差別をなくすことにつながり、また自分の中にある偏見に気付いたりすることにもなるのだと思います。優生思想をなくすためには、このような一人ひとりの行動の積み重ねが大切なのではないでしょうか。
 大事なことをもう一つ。これらの問題は、妊娠、出産、中絶する当事者である女性や出生前診断の対象とされる障害者だけにかかわるものではありません。生殖をコントロールする法律は、人のからだを資源として利用して良いという考え方を社会に示しました。出生前診断や不妊治療といった技術は、そのための方法を開発し続けています。すべての人のからだを厖大な資源として開拓していくための道筋は、すでに整っています。取り出された受精卵や卵子、遺伝子を使って薬や臓器を作る研究も進められています。人のからだとからだにかかわる科学技術について、私たちは今、新たな論理を組み立てなければならない時期に来ているのです。 性や生殖などからだに関する考え方は、人によってさまざまに違います。この本の回答者の中にもいろいろな価値観の人がいます。重要なことは、私たち一人ひとりが、自分のからだやからだにかかわる問題に関心をもち、考え、さまざまな意見に出合い、自分なりの解答を模索していくことではないでしょうか。皆さんがこの本を手に取ってくださったことが、その第一歩になれば幸いです。

優生思想を問うネットワーク編『 知っていますか?出生前診断一問一答』
(解放出版社、2003年2月)
by open-to-love | 2008-05-04 19:32 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)
問17 優生思想は過去の問題ではないのですか?

 優生思想を「過去の問題」としてかたづけることはできません。障害や病気などを理由に出生が望ましい人間と望ましくない人間を区別し、生殖への人為的介入を通じて子孫の質をコントロールしようとする優生思想は、今でも存在しています。ただし、優生思想が実際どのような形で現れるかは、状況によって違ってきます。そのため、目の前の出来事が優生思想と関係あるかどうかについては、しばしば意見が分かれます。
 たとえば、出生前検査の結果、障害をもつと診断された胎児の中絶(いわゆる選択的中絶)を親が自主的に決めることについて、「優生思想とは関係ない」とみる立場もありますが、一方で、「障害をもつ胎児を選んで中絶することは、生まれるに値する命とそうでない命を選別する優生思想とつながっている」と批判されてもいます。選択的中絶が障害者差別を助長する恐れがあるとして、出生前診断の普及に歯止めをかけるべきだと主張する障害者やその家族にとっては、優生思想はまさに今直面している重大な問題なのです。
 なぜ、このような意見の食い違いが生じるのでしょうか。
 その背景には、優生思想のとらえ方の違いがあります。優生学はもっぱらナチズムと結びつけられてきた関係から、「優生思想は集団の利益を優先させ、強制を伴うもの」と見なされてきました。
 しかし、実際に優生思想の歴史をひもとけば、ナチスの優生学に象徴されるような強制的で全体主義的なものばかりではなかったことがわかります。国や民族といった集団の利益以上に、「家族の幸福」や「障害をもって生まれてくる子の不幸」を重視する立場や、強制ではなく自主的な方法による優生学の実践を推奨する考え方もまた、優生思想の中に大きな位置を占めてきたのです。
 優生学発祥の地であるイギリスでは、断種法の制定が検討されたものの、結局反対が強くて成立しませんでしたが、これにはイギリスの優生主義者には法律による強制という方法を嫌う人が多かったことが影響しています。
 したがって、選択的中絶をするかしないかの判断を胎児の親にゆだねるからといって、優生思想とのかかわりを即座に否定することはできません。出生前診断や選択的中絶に対して危惧を抱く人びとは、自主的な選択的中絶という行為の中にも優生思想が息づいていることを察知しています。そのような優生思想のありかたに気づいたからには、それとどう取り組むのかを考えなくてはなりません。
 たしかに、以前のように「障害児を産まないようにするのは親の責任」であるとか、「障害児は家族の不幸と社会への負担をもたらす」といった発言が公然となされることは少なくなりました。また、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的として掲げていた優生保護法も、1996年に母体保護法に改正されて、優生思想に直接結びつく規定はすべて削除または修正されました。
 障害者たちは、当事者としての生活経験に根ざした尊厳を獲得するために格闘し、障害者の人間としての価値を低く見る社会に対して粘り強く異議申し立てをして、優生思想を批判し封じ込めようとしてきました。こうした運動が、優生保護法から優生条項を削除させる大きな原動力になったことは確かです。
 しかし、「集団本位の優生学」が公然と支持されなくなったより大きな原因は、生殖を個人的なものと見なすようになったためと考えられます。「生殖はプライベートなものであり、産む産まないは本人が自主的に決めること」という考え方が1970年代から次第に浸透してきて、押しつけがましい「集団本位の優生学」は社会の規範としては通用しなくなってきたのです。こうして、表面的には、「優生」を推奨することはタブーとなり「優生思想」は過去のものになったようにもみえます。
 しかし、優生思想が根本的に批判され克服されたわけではありません。最近では遺伝医療と生殖技術の急速な発展を背景に、しばしば「新優生学」と呼ばれる「個人本位の優生学」、つまり自主的判断で子孫の質を選ぶ優生思想の問題はむしろ拡大してきました。出生前診断についても、「自主性にもとづく優生学」という視点でとらえざるを得ない、という論調が以前よりも強くなってきています。
 しかし「個人本位の優生学」を強く批判する人びとがいる一方で、「個人本位の優生学」をやむをえないもの、否定できないものと見なして容認する人びともいます。「集団本位の優生学」を否定する契機となった「生殖は自分で決める」という論理が、逆に「個人本位の優生学」を正当化するはたらきをしているのです。
 現在、遺伝医療と生殖技術の開発がすすみ、バイオ・ビジネスに対する経済界の期待も高いなかで、「個人本位の優生学」を実現するチャンスは増大しつつあります。再生医学に代表されるように、胚(はい)や中絶胎児を医療資源化する新しい動きも出てきました。
 しかし、こうした技術を無制限に追求することへの危惧から、過去の優生思想批判の基軸の一つであった生殖の自己決定という原則を早急に見直し、立て直さなくてはならなくなっています。したがって、優生思想批判のもう一つの基軸である障害者と病者が尊厳をもって生きる権利という視点から、優生思想を現在の問題として考えることがいっそう重要になっています。

優生思想を問うネットワーク編『 知っていますか?出生前診断一問一答』
(解放出版社、2003年2月)
by open-to-love | 2008-05-03 22:11 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)
問16 障害や疾病をもつ人たちに対して行われた断種や不妊手術は、日本ではどのように行われたのですか?

 優生手術(優生目的の不妊手術)の件数は、国民優生法の時期より、優生保護法成立後の方が圧倒的に多くなっています。1955年をピークに96年までに約16500人が強制的な優生手術をされています。
 しかし、これらもあくまで統計に現れた数字で、実際にはさらに多くの人びとが犠牲になっています。しかもそのやり方はかなりひどいもので、「優生保護法の施行について」という厚生省事務次官通知(1953年6月12日)においてもはっきりと示されています。つまり「本人の意見に反してもかまわない、だましてもかまわない、身体を拘束したり麻酔薬を使っても許される場合がある」ということで都道府県に通知したのです。
 ハンセン病の人びとに対しては、戦前から収容施設で強制不妊手術が行われていました。東京の全生病院(現、多摩全生園)で男性患者への断種実施(1915年)以来、法的根拠もないまま全国すべての療養所で多くの人に実施されました。優生保護法制定以後は、主に女性がターゲットとなり、女性1200人以上、男性300人以上にものぼっています。断種手術を始めた光田健輔医師は、「わが国では、ライ療養所だけでも二千人以上の断種をしている」ことを『愛生』(岡山・長島愛生園誌、1951年2月号)に発表しています。また、優生保護法14条1項3号によりハンセン病を理由に人口妊娠中絶をさせられた公表数は7689件(1949〜96年)にものぼっています。
 このように、方の名のもとに自分の意思に反して強制的に手術をさせられた人びとや支援者が「強制不妊手術に対する謝罪を求める会」を結成し、政府に謝罪を求めて立ち上がりました。しかし、日本政府は「当時としては法律で認められていたのだから」として実態調査すら拒んでいます。ナチス時代の迫害に対する国家としての謝罪、被害の実態調査、保障制度を確立していったドイツとは大きな違いです。
 また、「月経時には精神が不安定になる」「月経時の介助がたいへん」との理由で女性障害者の子宮を摘出したり、卵巣に放射線照射をすることが、特に収容施設では「治療」の名目で「公然の秘密」として行われてきました。施設を体験した女性障害者たちは、「生理の度に職員に嫌な顔をされる」「どうせ子どもを産むわけじゃないし、(子宮を)取ったらと言われた」等々、施設の管理・処遇のあり方について告白しています。中には、生理の度に嫌な思いをさせられるのがたまらなくて、「自ら申し出て子宮摘出手術を行った」という人もいますが、そういう状況に追いつめられていったといえるでしょう。
 1980年代にも、全国の身体障害者療護施設の施設職員・関係者で行っている研究協議大会で、「処遇困難な事例と対策、情緒不安定者の処遇困難性」と題してショッキングな報告がされました。それは、岡山の施設に入所しているA子さん(当時23歳)に対して、「月経の量が多く貧血状態となる」「生理が近づくと情緒不安定になる」との理由から、子宮を摘出したというものでした。施設としては、「結果としておとなしくなった事実を伝え、ほかの施設にも参考になればと思った」ことから、研究協議大会で報告することになったというのです。そもそも「子宮摘出が情緒の安定をもたらした」というのはあくまで管理する側の論理であって、障害者本人にとっては、こんなひどい拷問のような仕打ちに恐ろしくなって表現することをあきらめたのかもしれないのです。
 この件はたまたま事実が表面化しっましたが、ほとんどの場合「医療行為」として処理されるため問題にされることすらありません。この事件を発端として、障害者団体などが行政や施設、医療機関などに抗議をしましたが、見直しはされていません。その後も国立大学附属病院の教授らが知的障害者の健康な子宮を摘出していたことが明かになりました。教授らはその事実を認めたうえで、「重度の障害者に子どもを産む権利はない」「倫理委員会で問題になるのは倫理観をもつ人の話だ」と公然と正当性を主張しました。両親でさえ「手術をしておとなしくなってよかった。ほかの親にもこんな方法があることを教えてあげたい」とマスコミに答えています。ここには障害者を一人の人間として認め向き合う姿勢などまったく見られません。
 何故このように、管理しやすくするため、おとなしくさせるために子宮を取ってしまうという人権侵害が施設内で横行するのか、Aさんについて報告されたレポートに端的に表れています。「字が読めるため、事務室・医務室・寮母室の黒板に異常な関心を示し、他人の外泊・外出でも情緒不安定になる」「小遣い(コーヒー代)として本人が持っているお金が少なくなると気になる」「入所者、職員に対する好き嫌いが激しく特定の人を信頼する傾向にある」など、たくさんのことが書かれています。A子さんの置かれている環境は自由を奪われた収容施設であり、職員たちのことが気になるのは当り前のことです。お金が少なくなってまったく気にならない人はいないでしょう。だれか特定の人を信頼するのも人間として当り前のことです。しかし、収容されている側、管理される側の障害者がこういった行動を起こすと「異常行動」となってしまうのです。そして、差別に満ちた、人権感覚がまったく欠落した障害者観によって、女性障害者は子宮摘出という回復できない被害を被らされるのです。
 たしかに優生保護法の改訂によって、障害や疾病を理由にした不妊手術は公然とはできなくなりました。しかし、これまでもそうだったように、障害者を「やっかいだ」「介護の手間がかかる」というふうに、あくまで介護する対象、保護する対象と見る限り、こうした事態は解決できません。コミュニケーションが難しくても、何を訴えようとしているのか、何が不満なのか、しっかりと向き合った中からつかみ取る、新たな人と人の関係を築くこと、そして同時に、介護体制の充実をはじめ、必要な生活支援の体制を整えることが大切なのです。

優生思想を問うネットワーク編『 知っていますか?出生前診断一問一答』
(解放出版社、2003年2月)

パターナリズム=施設処遇=子宮摘出の相関関係、がポイントです。(黒)
by open-to-love | 2008-05-03 09:50 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)
問15 戦前の日本でも、国民優生法という法律があったそうですが、それはどういった内容で、どのような経過で制定されたのですか?

 国民優生法は戦時中の1940年に制定され、不妊手術と中絶に関する法律です。国民優生法が原型となって戦後の1948年に優生保護法ができ、さらにこれが大幅に改正されて1996年に現在の母体保護法となりました。ですから、母体保護法の由来をたどると国民優生法に行き着きます。
 国民優生法という名前は「国民を優先化する」という考え方、すなわち優生学から来ています。国民優生法の目的(第1条)を現代風に言い換えると、「悪質な遺伝性疾患の素質を持つ者の増加を防ぐとともんい、健全な素質をもつ者の増加を図ることによって、国民素質の向上をめざす」ということになります。この法律を制定することによって、当時の政府は、「悪質な遺伝性疾患の素質をもつ者」に対して不妊手術を促す一方で、「健全な素質をもつ者」に対しては不妊手術や妊娠中絶を厳しく制限し、彼らの子どもを増やそうとしたのです。
 ここで「悪質な遺伝性疾患」とされているのは、普通の社会生活が非常に困難な重い病気や障害、または社会秩序を乱すと見なされた「精神病」や「病的性格」で、しかも「遺伝性」と見なされたものです。特に政府が問題視したのは、「精神病」や「病的性格」です。ただし、これらが本当に医学的に「遺伝性」といえるのかどうかについては、専門家の間でも意見が分かれていました。当時の厚生省は、精神病院の入院患者はもとより、国民学校(小学校)の成績不良者や盲学校やろうあ学校の生徒、犯罪少年、売春婦や浮浪者をも「優生手術」(優生目的の不妊手術のこと)の候補者と見なしており、「遺伝性疾患」という言葉の定義を極端に広げて考えていたことがわかります。
 このように国民優生法は、もともと優生断種法として計画されたものでした。優生学的な理由による不妊手術を合法化する断種法は、1940年までにアメリカ合衆国やカナダ、スイス、北欧諸国、メキシコなどで相次いで制定されていました。日本でもこのような海外の動きに刺激されて、断種法を制定しようという運動が起こりました。特に代表的な民間優生運動団体であった日本民族衛生協会では、医学者や法律家からなるプロジェクト・チームを結成し、ドイツの「遺伝病子孫防止法」(1933年制定)の影響を強く受けた「断種法案」を1936年に作りました。この「断種法案」を修正した「民族優生保護法案」が、1937年以降、議員提案として帝国議会にたびたび提出されていましたが、厚生省はこれをたたき台にして国民優生法案を作り、1940年に成立させました。
 総力戦体制のもとで成立した国民優生法でしたが、断種法制定の是非をめぐっては、法案が議会に提出される以前から識者たちの間で賛否両論がありました。反対論はさまざまで、子種を断つ断種は天皇を頂点とする家族国家や多産奨励そぐわないとする国体論者、断種政策は理論的に人類集団の遺伝資質向上に役立たないと指摘する遺伝学者、また断種法の根拠とされる人類遺伝学は学問として未熟であるし、精神病は遺伝だという世間の偏見を助長すると批判する精神科医もありました。
 この意見の対立は帝国議会に持ち込まれて国民優生法案の審議では反対意見が相次ぎ、法案通過が危ぶまれました。そのため政府は譲歩を迫られ、第6条の強制断種(精神病院長など第三者の申請による本人の同意を必要としない不妊手術)の条項は残すものの、当面実施はしないことを議会に約束したのです。優生学的理由による中絶条項も法案にはあったのですが、議会で反対され、採決の前に削除されました。また、ハンセン病患者に対しては、すでに不妊手術が法的裏付けのないまま療養所で実施されていたため、厚生省は国民優生法制定を機に当時のらい予防法を改正することによって、こうした手術を合法化しようとしました。しかし、感染症であるハンセン病患者を断種対象とする矛盾を法案の審議で追及され、結局失敗に終りました。ハンセン病患者に対する不妊手術が合法化されたのは、戦後の優生保護法によってでした。
 一方、国民優生法のもう一つの目的である「健全な素質をもつ者の増加」は、人口増加策の本格化を背景に厚生省の法案立案途中で付け加えられた項目でした。中絶や優生学的理由によらない一般の不妊手術は、すべてほかの医師の意見を求めたうえで事前に届け出ることが義務づけられ、この規定は法案通り通過しました。その結果、優生断種のための法としてよりも、「産めよ殖やせよ」の政策を支える事実上の中絶禁止を目的とした法としての側面が強調された形で議会を通過しました。国民優生法のもとで1941〜8年に実施された不妊手術総件数は538件で、厚生省のもくろみを大幅に下回りました。また、第6条により強制断種は一件もありませんでした。
 強制断種が実施されたのは戦後になってからです。敗戦後の国民優生法改廃をめぐる議論のなかでは、国民の質を高めるために強制断種を実施すべきだという意見も強く出されました。その結果、1948年に制定された優生保護法に、医師の申請にもとづく不妊手術の手続きを定めた強制断種の規定(第4条)が盛り込まれました。優生保護法第4条のもとで、公式統計で示されているだけでも1996年までに14566件の不妊手術が実施されています。精神病等を理由に代理同意と審査にもとづく不妊手術を定めた第12条と合わせると、本人の同意を必要としない不妊手術の総数は、16475件にのぼります。

○当時の新聞の見出し○
悪血の泉を断つて
 護る民族の花園

研究三年、各国の長をとつた
 〝断種法〟愈よ議会へ

画期的な
 法の産声

雑草は刈取るのみ
 日本繁栄のために
   永井博士談
(1936年12月12日付)

優生思想を問うネットワーク編『 知っていますか?出生前診断一問一答』
(解放出版社、2003年2月)
by open-to-love | 2008-05-02 21:17 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)
問14 ナチス・ドイツでは、障害や疾病をもつ人たちが大勢殺されたといいます。そのことについて詳しく教えてください。

 ヒトラーは1939年9月1日付で、次のような極秘命令を出します。「帝国指揮官ブーラー、ならびに医学博士ブラント、この両名に対し、その病状から厳密に判断して治癒の見込みのない患者に、人道的見地から慈悲死を与える権限を、特定の医師に拡大して付与する責任を移植する」。―この命令書にもとづいて、ドイツとその占領地域では、病院や施設にいた、精神病の患者さんや障害をもつ人たち(とりわけ子どもたち)が特定の施設に送り込まれ、一酸化炭素や薬物によって、また故意に飢餓に追い込まれて殺されました。45年の敗戦までの犠牲者の数は、約20万ともいわれています。
 殺された人たちの多く、とりわけ精神病の患者さんたちは、1933年に制定された断種法(問13参照)にもとづいて、すでに強制的に不妊手術を受けさせられていました。そういう意味で、この「安楽死計画」はナチス・ドイツが行った優生政策の最終局面といえるでしょう。39年9月1日というのは、実は、ナチスがポーランドを侵攻した日で、その2日後の英仏の対独宣戦によって第二次世界大戦が開始されます。つまり、ヒトラーは「総力戦」の開始とともに、それまで不妊手術(子どもを産ませない)という間接的な方法で淘汰をもくろんでいた人びとを、殺害という直接的な方法で社会から抹消しようと決めたのです。
 しかし、安楽死計画は、ある意味で優生政策の終焉でもありました。優生学というのは、人間の淘汰を出生後ではなく、出生前に行おうとし、そのための知識や技術を開発しようとしました(問12)。出生後に「虚弱者」を殺すことが許されるなら、優生学はもはや不要となってしまうのです。だから、当時のドイツの優生学者さえ、安楽死には否定的でしたし、彼らが最も重要だと考えた(強制的)不妊手術は、この同じ9月1日に中止を命じられているのです。
 戦争の開始とともに、安楽死計画は実施されましたが、精神病院にいた患者さんや施設にいた障害をもつ子どもたちが次々と「謎の死」をとげていくにつれ、政府の殺害計画は当時すでに一般人の感づくところとなりました。カトリック教会の司祭たちが、これを公の場で非難するに至って、ヒトラーは41年8月に口頭で、その中止を命じます。実際には中止されず秘密裏に続行されましたが、戦況が厳しくなった43年には大規模な殺害計画が再開されました。その理由は、爆撃などの負傷者を収容するためにベッドを空けること、あるいは不足していく生活物資を「健康」な人間にのみ充てることでした。
 精神病の患者さん、知的障害をもつ人たちの殺害を正当化するような考えは、実は、39年以前にドイツで説かれていました。法学者のビンディング(1841〜1920)と精神医学者のホッヘ(1865〜1943)は、1920年に『生きるに値しない生命の抹消の解禁』という本を公刊しています。その中で、彼らは、重度の知的障害者を「人間の抜け殻」と呼び、そういう人たちは「生きる意思も、死ぬ意思もない」のだから、その人たちを殺しても罪にはならないし、福祉の財源も削減できると主張しました。ホッヘ自身は、ナチスの安楽死計画が自分たちの考えるのよりも乱暴に行われていることに批判的だったようですが、彼らの主張が安楽死計画に一つのきっかけを与えたのは事実です。
 また「中止」を余儀なくされた41年に、ナチス政府は、安楽死計画の必要を国民に訴えるため「私は訴える」というプロパガンダ映画を作成しています。それは、不治の病にかかった自分の妻を、その希望にもとづいて安楽死させた医師が、殺人罪に問われた法廷で逆に安楽死を「人権」の一つとして肯定するという物語でした。さらに、ヒトラーがそもそも安楽死計画を思い立った一つのきっかけが、重度の障害をもつわが子を安楽死させてほしいという、ある夫婦の直訴だったことも確認されています。
 脳死状態や「植物状態」の人に、生命の尊厳はあるのか。自己決定や親の意思にもとづく安楽死は、認められるべきではないのか。―そんな主張を今日よく耳にしますが、ナチスの安楽死計画もまた、そういう声に後押しされていたのです。

優生思想を問うネットワーク編『 知っていますか?出生前診断一問一答』
(解放出版社、2003年2月)
by open-to-love | 2008-05-02 19:59 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)
問13 諸外国で優生思想を国の政策として実施した具体的な事例はあるのですか?

 国が行う優生政策には、いくつかのものがあります。
 遺伝によるとされた病気や障害をもつ人びとの結婚を何らかの形で制限する法律の制定。あるいは、そういう人ひとに対して、不妊手術の実施を認める法律の制定。この法律は一般に「断種法」といわれます。
 もう少しソフトな形としては、結婚を制限しないまでも、結婚前に性病や遺伝病にかかっていないかの検査を、法律で義務化する。フランスなどでは今でも婚前診断が義務化されていますし、中国ではそういう規定を含んだ法律(母子保健法)が1994年になって新たに制定されています。あるいは、各種の医療機関でなされる遺伝相談(家系や本人の遺伝子検査など)や、学校で皆さんが受ける「保健体育」の授業も、優生政策の一つかもしれません。日本でも70年代までは、高校の保健体育の教科書に「遺伝的な病気や障害がある家系の人との結婚は控えましょう」といったことが平然と書かれていました。
 このように優生政策は多岐にわたりますが、中でも「断種法」の制定は、人の身体に直接メスを入れる赴任手術を、場合によっては本人の意思に反して強制的に実施することも認めるという点で、とても露骨で、今日では最も問題視されているものです。
 この「断種法」を世界で最も早く制定したのは、アメリカです。19世紀後半からいくつかの州で、最初に述べた結婚制限法が制定されていましたが、さらに1907年のインディアナ州を皮切りに、23年までに32州で断種法が制定されました。乱暴な遺伝子決定論に基づいて、精神病と見なされた人、犯罪をおかした人、知的障害と見なされた人たちが手術を受けさせられ、しかも、その多くは本人の意思によらないものでした。20年代から30年代にかけて、カナダのいくつかの州や、メキシコ、ブラジルなどの中南米諸国でも、断種法が制定されました。
 ヨーロッパでは、1928年にスイスのヴォー州で初めて断種法が制定されました。対象は、治らないと見なされた精神疾患や知的障害の人たちで、手術に際して本人の同意は不要でした。2番目はデンマークで、翌29年に制定されています。さらに、33年にはナチス政権下のドイツで制定され、日本もこれにならって「国民優生法」を制定しました(40年、問15参照)。34年にはスウェーデンとノルウェー、35年にはフィンランドでも制定されています。
 ナチス・ドイツが行った不妊手術は、実施件数の点でも、その暴力性の点でも際立っています。多くの精神障害、知的障害、身体障害が乱暴に遺伝と決めつけられ、さらには人種や政治的主張が違うというだけで、強制的に不妊手術が実施されるケースもありました。正確な数字は確定できませんが、1934年から敗戦の45年までに約40万の人が手術を受け、そのうち千人以上の人が手術そのもののために命を落としました。さらにナチス・ドイツは、第二次世界大戦が開始される39年から精神病者や障害者の大量虐殺を開始します(問14)。
 しかし、強制的な不妊手術は、ナチス・ドイツほど大規模でないにしても、断種法を制定した右の諸国でも実施されました。デンマークでは、30年代半ばに、すべての知的障害の人たちが施設で暮らせるようにと福祉の「拡充」を推進しましたが、同時に入所した多くの人たちに不妊手術を強制的に実施しました。また、スウェーデンでは、福祉手当で生活する女性たちに対して、それと引き換えに不妊手術を受けさせるということが50年代まで続きました。皮肉なことに、福祉国家そのものが、福祉の世話になる「劣等」な人たちには子どもをつくらせないという形で、強制的な不妊手術を後押ししたのです。
 不妊手術そのものは、もう子どもは欲しくないという人たちの避妊の一方法として、今でも実施されています。しかし、優生学的理由にもとづき、しかも強制的に実施されてきた不妊手術は、現在、人権の侵害として反省され、ドイツやスウェーデンなどでは、被害者に補償金が支払われるようになっています。日本でも、同様の強制的な手術が戦後に多く行われましたが、しかし、私たちの社会は、まだこの過去の問題にきちんと向き合っておらず、被害を受けた人びとに対する保障もなされていません。2001年に実現した元ハンセン病患者の方々への国家賠償は、そうした残された課題を果たしていく第一歩といえるでしょう。

優生思想を問うネットワーク編『 知っていますか?出生前診断一問一答』
(解放出版社、2003年2月)
by open-to-love | 2008-05-01 22:32 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)

優生思想とは?

問12 優生思想という言葉をあまり聞いたことがありません。どういった考え方なのですか?

 優生思想を、「虚弱」とされた人や、治らないとされた病気や障害をもつ人を社会から淘汰する考えと広く解釈すれば、それは古くから見られます。古代ギリシャのプラトンやアリストテレスは、その著作の中で「虚弱」な人の結婚や子づくりを認めてはならない、また障害をもって生まれた子どもは遺棄すべきだと書いています。西洋社会では、人間の生命は神のみが司るとするキリスト教の下で、こういう考えは下火になっていきますが、その影響力が弱まっていく近代になって再び頭をもたげてきます。たとえば、理想的な人間教育を示したとされるルソーの『エミール』(1762年)の中にも、こんな一節があります。「あらかじめ結ばれるこの契約は順調な出産、強壮で健康なよくできた子どもを想定している。…その子が八十歳まで生きるとしても、わたしは病弱な子はひきうけないつもりだ」(岩波文庫、上巻、54〜5ページ)。
 とはいえ、こうした人間の淘汰が(遺伝子とともに)一つの学問として確立されたのは、19世紀末のことで、イギリスのフランシス・ゴールドン(1822〜1911)は、この学問を1883年に「優生学(eugenics)」と命名し(ギリシャ語でeuは「良い」を、genesisは「出生」を意味します)、明治の日本にもすぐに紹介されました。このゴールドンが、チャールズ・ダーウインの従兄弟だったことからも推察されるように、優生学は「弱者」・「不適格者」の淘汰が生命の進化をもたらすという進化論を背景にしています。しかし、優生学の考える人間の淘汰は、自然ではなく(ダーウインは「自然選択」という言葉を用いました)人間自身が自覚的かつ計画的に行うもの、また、各々の個体が出生した後にではなく、その出生前になされるもの、という二点で、ダーウインが野生の動植物の世界に見たものとは異なっています。
 優生学が、19世紀の終わりになって西洋社会で広まっていった背景には、もう一つ、近代医学の飛躍的な発展が考えられます。まず、1880年代にドイツのR・コッホを中心に確立された細菌学によっって、多くの伝染病の原因が解明されます。また、外科技術の進歩や新薬の開発も、さまざまな病気の克服に大きく貢献しました。さらに、上下水道といった社会環境の整備も人びとの罹病率や死亡率の引き下げにつながりました。しかし、それでもいくつかの病気や障害は克服できないものとして残りました。そして、この同じ時期に優生学は台頭してくるのです。
 つまり、治療可能な病気が増えれば増えるほど、治らない病気や障害に対して人びとは、ますます不寛容になっていき、他方で、それらを「遺伝」と断定しながら、そういう人びとから子どもが生まれないようにすることで、これらの病気や障害を社会から根絶しようとしたのです。
 当時の「遺伝」概念は、きわめて粗雑なもので、多くの精神病やアルコール依存症、さらには(結核菌の発見以後も、特効薬のペニシリンが開発される1930年代まで)肺結核までが、遺伝によるとされました。日本でも、ハンセン病が病原菌の発見後も長らく遺伝によるとされ、かつての優生保護法で患者さんたちは不妊手術の対象にされてきました。こういう「遺伝」概念の乱暴さにっも、治らないとされた病気や障害に対する不寛容が表れており、優生学もそうした不寛容を背景に広まっていったと考えられます。
 最後に、現代の医療技術と、優生学の関係について考えておきましょう。プレッツ(1860〜1940)というドイツの優生学者は、1895年の主著の中で、優生学の最終目標は「人間の淘汰と除去を、それが生まれてくる細胞の段階に移行させ、生殖細胞を人為的に淘汰すること」だと述べています。しかし、当時の技術水準では、優生学の具体的な手段としては、右に述べた不妊手術ぐらいしかありませんでした。プレッツが今から百年ほど前に望んでいたことは、実は、1960年代以降の各種の出生前診断と、その結果にもとづく選択的中絶、あるいは体外受精技術と結びついて、近年、可能になった着床前(受精卵)診断、さらには卵子・精子を選択したうえでの体外受精によって可能になっているのです。
 今、日本を含め世界中の多くの国々で「バリア・フリー」の必要性が説かれ、障害をもつ人ももたない人も、社会の一員として平等に尊重されるべきだ、また互いに助け合っていくべきだという考えが広まっています。しかし、右に見たような、障害をもつ人を生まれないようにする優生学の諸技術の発展は、こういうバリア・フリーの精神を掘り崩す側面もあることに、私たちは注意すべきでしょう。

優生思想を問うネットワーク編『 知っていますか?出生前診断一問一答』
(解放出版社、2003年2月)
by open-to-love | 2008-04-30 23:02 | 優生思想 | Trackback | Comments(0)