精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑱

一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑱

3-1-3 一条の視点の可能性と限界…「遠くで鳴る鐘」発言をめぐって

 一条の視点の可能性とは、「地方(農村)の現実に根差した抵抗」が今なおアクチュアリティーを持っているのではないか、ということです。私が冒頭に掲げた「ある精神障害者家族の事例」のような現実にみなさんが目をそむけない限り、かつて一条が「遠くで鳴る鐘」として端的に表した「抵抗」の視点は有効と思います。
 一方で限界はと言えば、それは一条にも原因があるでしょうし(言い方が厳しいですから…)、また、一条の発言が向けられた側にも原因があるんでしょうが、双方の間で、いまいち対話が成立していないことです。
 「遠くで鳴る鐘」発言の本意は、「…残されるたくさんの女たち―。婦人年を叫ぶとき。この生活の現実の場にも生きる人々との接点をどこに求めるのかも、実は重大な抜きに出来ぬ問題なのであることを忘れてはなるまい」(岩手日報)でした。ただ単に婦人年を批判するためではなく「婦人年を叫ぶ人と、残されるたくさんの女たちとの接点」を求めるがための「抵抗」でした。だが、それに対するレスポンスは、丸岡のようにきちんと受け止める人もいましたが、藤田のように「なんやかや文句付けないで行動計画読め」的な受け止めも。いずれ、この発言はその後、対話につながることはなく、結果としてはそれぞれが言いっぱなしに終わってしまいました。
 何より、今、一条の業績が忘れられつつあること自体が、最大の限界ですけどね。

3-1-4 一条の視点から森崎を逆照射すると?

 「男性/女性」という大きな二項対立に重なり合う、一条における「中央(都市)/地方(農村)」の二項対立。一方、森崎における「国家の論理/国家の論理の外部=いのちの母国」という二項対立。それぞれは、底辺女性へのシンパシーという点では通じ合うものの、ベクトルは異なります。底辺女性=農村女性の側から都市女性の論理を批判した一条に対し、森崎は女性を底辺女性ならしめる国家の論理の外部の論理を志向し、イマジナティブに連結することで、いのちの母国の論理を構築しようとしました。同じ岩手といえど、それぞれの視点から見える岩手像は、ずいぶん違う。
 共に対話を志向していたことには変わりないでしょう。ただ、一条は県北の農村に根を張り、そこを自らの原点=母国とし、その現実と共にあり、現実に縛られていたゆえ、その現実とあまりにかけ離れていた中央との対話が成立するには至らなかった。その点、森崎は出生地の外地に根を張っていたわけではなく、むしろ原点の喪失から出発し、母国を探して旅したがゆえ、一条より軽やかに、対話を志向した。その一つの成果が『北上幻想』だったのではないでしょうか。
by open-to-love | 2010-02-11 22:12 | 黒田:岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)