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一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑯

一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑯

2-4 森崎と岩手

2-4-1 森崎にとっての旅…国家の論理の「外部」へ

 ヒントになるのが、次の記述。

 こうして坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて以来の国史の年表と、そして私が小学校で習った「衣の館はほころびにけり」の蝦夷征伐につながる小学校唱歌までの、国史と呼んだ史上時間と空間とを、私は戦後の生き直しの旅でも、そして子育て自分育ての日常の炊事場でも、くりかえしくりかえし往来してきた。「衣の館はほころびにけり」の前九年の役・後三年の役の安倍伝承は、唱歌で習っただけではない。神湊の夕風に、先年ともに吹かれた朝鮮での女学校時代のクラスメートの韓国女性と、「神のみあれとは、天皇霊の生れることであり、天皇霊は死すことなく、年ごとに生れる不滅の神霊である」と、南太平洋での若者の自爆の報の時代に、心身統一を命ぜられて瞑目する教室で天皇霊への随順として耳にタコの共通の仔牛となった。その神霊の国の古代史として蝦夷征伐の、とどめの歌の「衣川の館」である。その衣川が私にとって聖地めく内陸の地となったのはなぜなのか。(p105)

 戦前、皇国史観が刷り込まれた幼少期、それでもどこか引っかかった「衣川の館」。それが、森崎が戦後、岩手をイデアライズする契機となったようです。なぜか。皇国史観=賊軍安倍氏という見方を押し付けられつつ、その論理から異質な、安倍氏へのシンパシーをうかがわせる「衣川の館」の挿話に、「賊と呼ばれた者の無縁さへ我が心を託した庶民の思い」を感じたのではないでしょうか。
 それまで「地上の権威とは無縁な生き方に出会いたくて」海辺を旅していた森崎は、「聖地めく内陸の地」へ。すなわち、国家の論理の外部へ。

 …旅を重ねながら明日を探す。いのちの母国を。今日この頃のあふれる物たちの背後に。列島統合史の流血、他民族侵略の戦乱、今なおひびく少数民族や女・子どもへの暴力等々の物欲権力欲のシステムから、大きなカーブを描いていのちの母国を探したい。そのいのちへの旅めく、あの女人土偶。
 …ああ、出会えたよ。この列島の先行文明に。あの建国神話とは異質の、いのちの母国に。国のために産み、国のために死ぬことを、くりかえしくりかえし他民族の少女と共に求められ、犯され、殺された近代国家建国期。その歳月の間信ずることを求められた古代建国神話。だからこそ帰国して探し求めたのは消し合い殺し合うことのない精神の山河でした。
 …5500年前の男女の心からの発信が、今聞こえます。対立殺傷のシンボルとしての鏡や剣などが出土する同じ列島の、北海へとつづく大地の中から。ことことといのちの音がする。(p122~5)

 森崎の旅は物見遊山ではなく、鋭敏なまなざしで時間と空間を行き来し、それに自らの来歴を重ね合わせることで言葉を、思想をつむぐプロセスでした。
 時間をめぐる旅=戦前、外地の小学校で皇国史観を、国のために産み、国のために死ぬことを刷り込まれた森崎。戦後、そこから解放され、生き直しの旅。目指すは「いのちの母国」。
 空間をめぐる旅=物があふれ、女子どもへの暴力等々の物欲権力欲のシステムのただなかにあって、消し合い殺し合うことのない精神の山河、「いのちの母国」を探す旅。
 空間のみならず、時間をもめぐる旅の途上で森崎が訪れたのが岩手でした。そして、その地は、歴史上の諸事象の舞台であるのみならず、歴史が今に生きる舞台でもあったのでした。

2-4-2 森崎にとって岩手とは

 そして、森崎は、三内丸山遺跡出土の板状女人土偶の導きによって、岩手・北東北の地に「いのちの母国」を見出し「大地の中からことことといのちの音がする」のを聴いたのでした。
 定式化しちゃうと味気ないですが、森崎は国家の論理、男性性の原理に立脚するともいえる
 
古代建国神話=列島を統合する側の論理=他民族侵略=女子どもへの暴力等々の物欲権力欲システム

 に対し、女性性の原理に立脚する、と言い切っていいのか分かりませんが、少なくとも女子どもへの暴力等々の物欲権力欲システムとは別種の論理に貫かれた「いのちの母国」と、

縄文文化=蝦夷=安倍貞任・宗任=侵略された側の論理=百姓一揆=鬼剣舞

 との接点を探し求め、岩手の地に見いだしつつ、外地での少女時代、「無名通信」発行と座折、「からゆきさん」との出会いといった自らの軌跡を、その地に重ね合わせたのでした。

2-4-3 森崎の視点から岩手にいる私たちが学ぶこと

 本書から学ぶべきは、まずは、歴史や伝統をきちんと継承していることの大切さです。森崎がこれほど岩手を舞台にイマジネーションを飛躍させ、著作にまとめられたのは、埋蔵文化財関係者や民俗芸能の担い手らが、それぞれの役割を果たし、歴史を大事にしていたからこそでしょう。
 具体的には、記録保存=主として考古学関係者間だけの情報共有から、現地保存・史跡としての整備活用が進められていたからこそ、旅人である森崎はその地に立ち、往古へと想像力を飛翔させることができた。考古学者ならともかく、素人が、まして旅人が現地に立ち、往時に思いを馳せる上で、現場がなかったら詩情が沸かない。まして、そこにビルが建ってたりしたら、詩情もクソもない。現地保存や復元整備がなされていたからこそ、旅人の眼に留まったのではないか。
 これって、森崎に限りません。思い当たるのは、大門正克著『日本の歴史 第10巻 戦争と戦後を生きる』(小学館、2009年)。この本には、戦後の和賀地方の取り組みが数多く取り上げられていますが、それには、当時の取り組みが今なおきちんと受け継がれているからこそでした。旅人なり研究者なりが今はもう何もないところから再び歴史を掘り起こすのは容易ではありません。自らの地域の取り組みを、今後なにがしかの研究に反映される可能性を秘めている取り組みとしてきちんと伝えられているか=「研究準備」されているかどうか。これがあるなしで、その後の展開が大きく変わるのです。
 加えて、相澤さんら「悪ガキご一同さま」の存在。森崎のみならず、いきなり異郷を訪れ、見て回ろうと思っても、一人ではなかなか大変です。森崎に共鳴する受け入れ側がいたからこそ、これだけの情報を岩手から得ることができたのではないでしょうか?
 私も、一条のことなどを知りたくて岩手を訪れる人の案内役にならなくちゃと思っています。
by open-to-love | 2010-02-11 22:11 | 黒田:岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)