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一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑬

一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑬

2-2-2 安倍貞任・宗任

 本書で再三取り上げられているのが、安倍貞任・宗任についてです。安倍氏は、鎮守府胆沢城の律令体制が崩れた10世紀後半ごろに台頭し、奥六郡(北上盆地)を支配した在地の豪族。安倍頼時の時代に勢力を拡大したことが朝廷を刺激し、前九年合戦(1051~62年)が勃発しました。貞任(1019~62年)は頼時の次男、宗任(生没年不詳)は三男。合戦当初は安倍氏が優勢だったのですが、出羽清原氏の助勢を得た源頼義に敗北しました。貞任は厨川柵(盛岡市)で敗死し「死後は地元の人たちから神にまつられ長く尊崇された」(『岩手百科事典』)。宗任は厨川柵の敗戦後に降伏、伊予(現・愛媛県)、のち大宰府(福岡県)に流されました。
 森崎が安倍氏に関心を持ったのは、北陸や九州で宗任の墓と行き会ったことがきっかけでした。

 若狭(福井県・黒田注)の小浜の羽賀寺でのこと。…安倍氏の墓がある。庭の高所に。しっかりと、大きな。あの奥陸の国の。安倍貞任・宗任の名や前九年の役や後三年の役、そしてそれら攻防以前の蝦夷征伐期のながい世紀が心を走った。(p91)

 安倍宗任の墓が鐘崎(福岡県宗像市・黒田注)の地先の海の大島村にあることを、地元の方から聞いていたのだ。…大島まで連絡船が出ているのである。その島に古代陸奥国の将、安倍宗任の墓があるのだ。
 その墓の主は、この列島の国史上に蝦夷と記され賊軍討伐の水軍陸上軍をくりかえし大和から送り込まれた北東北の住人。生き直したい私が夢みる母国の基層をながれるいのちの物語りとして、沢吹く風のように語り伝えられてきた安倍族の一人である。海人族の先人たちと呼応する古代の積雪の山嶺に生きた、この列島の先人。(p102)

 こうして坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて以来の国史の年表と、そして私が小学校で習った「衣の館はほころびにけり」の蝦夷征伐につながる小学校唱歌までの、国史と呼んだ史上時間と空間とを、私は戦後の生き直しの旅でも、そして子育て自分育ての日常の炊事場でも、くりかえしくりかえし往来してきた。「衣の館はほころびにけり」の前九年の役・後三年の役の安倍伝承は、唱歌で習っただけではない。神湊の夕風に、先年ともに吹かれた朝鮮での女学校時代のクラスメートの韓国女性と、「神のみあれとは、天皇霊の生れることであり、天皇霊は死すことなく、年ごとに生れる不滅の神霊である」と、南太平洋での若者の自爆の報の時代に、心身統一を命ぜられて瞑目する教室で天皇霊への随順として耳にタコの共通の仔牛となった。その神霊の国の古代史として蝦夷征伐の、とどめの歌の「衣川の館」である。その衣川が私にとって聖地めく内陸の地となったのはなぜなのか。(p105)

 安倍貞任は平安時代の北端、陸奥国の豪族。前九年の役で、源義家の軍勢に攻め込まれて衣川で防戦。厨川の柵で敗死した。つまり西暦1000年代の初めごろまで陸奥国を統治していた一族の長である。国史上では逆賊・俘囚の長と呼ばれた。民間に数多くの物語として伝えられ伝説的な人物となった。私など戦前の外地の小学生は小学唱歌で歌った。朝廷の命を受けた源氏の大将八幡太郎義家から衣川の館に攻め込まれて敗退。その折に義家が「衣の館はほころびにけり」と呼びかけたところ「年をへし糸のみだれのくるしさに」とふりむいてこたえた。日本の軍人は昔も今も文武をたしなむのだと聞いた。その後二・二六事件のニュースが新聞に出ていたのを覚えている。歌ったあと校庭で雪合戦をして遊んだ。真冬の青空だった。

 …こんなぐあいに庶民が日常の中で家族や仲間たちと歌ったり演じたりしながら伝えた人物像は数かぎりなく残っている。その中には賊と呼ばれた者の無念さへ、わが心を託してきた人びとも少なくない。

 筑前宗像郡大島村の、宗像神社中津宮のそばに建つ安昌院に、宗任伝承があるのはなぜだろう。
前九年の役で捕虜となった宗任ら五人は、源頼義、義家の父子に率いられて1064(康平7)年京へ向かった。が朝廷によって京中に入れられずに伊予国へ流された。『筑前国風土記』には宗任には三人の子があり、長子は肥前松浦へ渡り松浦党の祖となった。次男は薩摩へ渡った。三男は筑前大島へ渡りこの島にとどまった、とあるという。が、しかしまた別の伝承や記録もあって、伊予国へ流された宗任たちは本国への逃亡を計っていたとの理由で、1067(治暦3)年に大宰府に再配流、と記した書もある。さらには江戸期に到ってもなお、「衣の館はほころびにけり」「糸のみだれのくるしさに」という古戦場での攻防への庶民の思いはふくらみつづけて、後三年の役(1983年)が起こり八幡太郎義家が奥陸へ再度出陣することになった折に、義家は自分のもとでつかえていた宗任を筑紫へ下らせて領地を与えたと『前太平記』にあるという。
 こうして奥陸の住民が九州へ移住した記録は宗任伝承だけでも、なお諸方にある。それは宗任に限らない。集団移住を命ぜられて移り住んだ陸奥国出羽国の民は九州筑紫に大量の数として記録が残っている。『続日本記』にも。
 そしてまた陸奥をはじめ東北、北東北へも大量の諸方の民が移された記録が少なくない。当時のアジア他民族の集団も。私としてはついそのほうへと心が傾く。(p158)

 ちなみに、「衣川の館」(「衣のたて」)は、鎌倉期の説話集「古今著聞集」の「源義家、衣川にて安倍貞任と連歌の事」にあります。
 前九年合戦終結間近の1062(康平5)年、衣川から退却する貞任を呼び止めた義家が、衣川の館が落ちたことと、衣の縦糸がほころびかけたことをかけて「衣のたてはほころびにけり」と呼び掛けた。振り返った貞任は「年をへし糸のみだれのくるしさに」と返歌。義家は感じ入り、弓につがえた矢を外した…。この歌は語り継がれ、新渡戸稲造「武士道」で紹介され、文部省唱歌にもなりました。

2-2-3 鬼剣舞

 「大島村の宗任伝承へと見えがくれにつづいている、北からの文化を考えさせる」伝統芸能(p159)として登場する鬼剣舞。北上地方に伝承されている民俗芸能で、広くは念仏を唱えながら舞う念仏踊りの一つで、恐ろしげな鬼の面をつけて踊るところから「鬼剣舞」と呼ばれています。
岩崎鬼剣舞の享保17(1732)年の「剣舞由来録」によると、大宝年間(701~704)に修験山伏の祖役の行者が踊った念仏踊りに始まり、大同年間(806~810)に出羽羽黒山で舞われ、その修験山伏によって広められ、康平年間(1058~65)には安倍貞任・正任がこの踊りを好んで領内に勧めたそうです。剣舞は「剣の舞」の語が当てられていますが、その語源は修験者(山伏)が用いる呪術の一つで、悪いものを踏み鎮め、邪気を払う行い「反ばい(へんばい)」に求められると言われています。(北上市立鬼の館・展示解説)

 鬼剣舞は鬼ではない。それは舞踏の勇壮さが伝えるように救済道の仏。おそらく北東北の諸地方に残る民俗芸能の多くには、非道な列島統合史へ対する、地元の地霊山霊の憤怒の声々が鬼へと象徴されていることだろう。そしてまたその発祥時の歳月や成熟のいく世代を経つつ、地域性を越えて人間救済の道をたずねるものへと自問をはらみながら育っているのだろう。その代表的な一つだと、初対面の鬼剣舞を思う。(p168)
 …私は旅のあの夜、鬼剣舞の休息の折や、また宿まで送っていただきながら聞いたことを心に辿る。…この鬼柳地区は盛岡藩当時の百姓一揆で地元農民を救った。一揆指導者は打首獄門。重なる重税や飢えに耐えた記録もある。それらの精霊供養が背景にあると思っている。等々。(p170)
 私はあの脱ぎ垂れがひるがえった瞬間、あ、と絶句。鬼剣舞の祈念の鋭さと華麗さが抱いている世界の思わぬ深みに心がふるえた。あ、あれは、うぶめ鳥。ひらりと、心に三内丸山の女人土偶が走った。

 ここにおいて「非道な列島統合史」に対置される系譜として、縄文~蝦夷~安倍貞任・宗任~百姓一揆~鬼剣舞がイマジナティブに連結されます。
by open-to-love | 2010-02-11 22:08 | 黒田:岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)