精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


by open-to-love
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑫

一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…⑫

2-2 『北上幻想』における岩手・北東北

 本書には、岩手や北東北の事象が頻出します。順に挙げれば▽樺山遺跡▽安倍氏~蝦夷(荒蝦夷)~衣川の館~宗任伝説~「奥州安達原」▽三内丸山遺跡(青森市)▽南部鉄瓶▽煙山専太郎▽煙山八重▽『中屋弘子業績集-岩手の農民服と南部家伝来衣裳』▽阿部陽子▽相澤史郎『夷歌』▽北上市内に残る列島最北端の前方後円墳▽鬼剣舞~鬼の館▽鬼柳地区の百姓一揆▽和賀氏~二子城跡…となります。その全てを詳述するいとまはないので、ここでは、本書でとりわけ力点が置かれている▽縄文(樺山遺跡・三内丸山遺跡)▽安倍貞任・宗任▽鬼剣舞を中心に紹介します。

2-2-1 樺山遺跡・三内丸山遺跡

 樺山遺跡は、縄文時代中期(約4000~5000年前)のムラ。竪穴住居や配石遺構が出土。1977年、国史跡指定。1995年5月、史跡公園「樺山歴史の広場」としてオープンしました。本書のプロローグに「樺山遺跡」が登場します。

 「おや」
 目をとめられたK氏(黒田注・岩波書店の編集者)がその中の一枚を手にして眺められる。つい私が話し出す。
 「今、気にかかっていく度も北上川の両側の山地をたずねているのです。その川岸の木の一つを写してくださったの」
 「ひょっとしたら、ここは樺山遺跡では」
 「ご存じでいらっしゃいますか。嬉しい。あのね、ここに立つと北上平野の果てに残雪が光る奥羽山脈が見えて、そして反対側の北上山地には…」(まえがき)
 
 なぜプロローグで樺山遺跡が出てくるのか。おそらく、同じく縄文時代の三内丸山遺跡への橋渡しとして、また、樺山遺跡が所在する北上の地の百姓一揆~鬼剣舞の記述に向けた橋渡しとして、二重の意味合いが付されているのではないかと察します。見晴らしのいいその地に立つと、確かに、旅の出発点としては、最高の舞台と感じられます。
 そして、森崎の縄文観が明瞭に現れているのが、青森市の三内丸山遺跡についての記述。三内丸山遺跡は1992年度から始まった県営野球場建設に伴う緊急発掘調査で巨大な集落跡が出土、1994年7月には直径約1メートルのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱建物跡が見つかり、保存を求める世論の高まりの中、同年8月に青森県は野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定。1997年に国史跡、2000年には特別史跡に指定。1995年から遺構の公開が始まり、遺物展示室も建設。2002年にはビジターセンター「縄文時遊館」がオープンしました。
 下記、関連するところを引用します。考察は後段で。

 三内丸山の遺跡は私に、海女漁が史上に知られ出すまでの、ながい時間について考えさせる。私が手がかりとしてきた宗像海人は、大和朝廷の天武天皇の子高市皇子を生み、高市皇子は持統天皇の政権期に太政大臣となった。やがて古事記・風土記が編纂され、陸奥国の蝦夷の反乱が激化する。蝦夷征討のため多賀城に結集。征夷大将軍大伴弟麻呂は兵を進める。以来二百余年に及ぶ蝦夷征伐時代が列島の東北で展開する。そして坂上田村麻呂が征夷大将軍の時代となり激戦の十余年、陸奥国に三郡を置き大和朝廷の統治が及びはじめる。けれどもその二百年後になお陸奥国の俘囚安倍貞任・宗任らの反乱となるのであって列島統合史上での攻防流血はその後も重なった。後世の私たちにはこうして文字化された資料によって日本が西南から北東北へと夜明けを迎えたと思う。そして二十世紀も終わるころ、三内丸山遺跡のような、先史時代の北東北文化に出会うのである。
 …日本列島の北辺で、縄文土器や女人土偶とともに集落のくらしをしていた人びとの後裔は、その伝統をどのように子孫へ伝え、あるいは変化させながらいく世代ものいのちを結んでいたことか。あの板状の女人土偶の産道が浮かぶ。
 …旅を重ねながら明日を探す。いのちの母国を。今日この頃のあふれる物たちの背後に。列島統合史の流血、他民族侵略の戦乱、今なおひびく少数民族や女・子どもへの暴力等々の物欲権力欲のシステムから、大きなカーブを描いていのちの母国を探したい。そのいのちへの旅めく、あの女人土偶。
 …ああ、出会えたよ。この列島の先行文明に。あの建国神話とは異質の、いのちの母国に。国のために産み、国のために死ぬことを、くりかえしくりかえし他民族の少女と共に求められ、犯され、殺された近代国家建国期。その歳月の間信ずることを求められた古代建国神話。だからこそ帰国して探し求めたのは消し合い殺し合うことのない精神の山河でした。
 …5500年前の男女の心からの発信が、今聞こえます。対立殺傷のシンボルとしての鏡や剣などが出土する同じ列島の、北海へとつづく大地の中から。ことことといのちの音がする。(p122~5)
by open-to-love | 2010-02-11 22:07 | 黒田:岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)