精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…④

一条ふみと岩手ー記録活動と“底辺女性”への視点…④

0-3 私が常々思うこと:歴史を学ぶことは大事!

 以上、雑駁な来歴と関心領域。自分ではそれなりに整合性あるつもりなのに、客観的には雑駁。ただ、こうした関心領域に通底する思いは、歴史を学ぶって大事だなあ、ということ。切に実感しています。人それぞれにさまざまな興味関心があることでしょうが、それを歴史的視点で相対化することは有意義であり、本講演がそのきっかけになればと願います。

0-3-1 ある精神障害者家族の事例

具体例を挙げましょう。

 「私の息子は首都圏の大学に進学して2年になるころ、様子がおかしくなりました。何かに怯えている様子で、アパートの部屋から一歩も出ないのです。話す内容も支離滅裂で。実家に連れ帰り、抵抗して暴れる息子を引きずるように精神病院に連れていき、受診させました。統合失調症と診断されました。『オレは気違いじゃない!』と荒れ狂い抵抗した息子は保護室に入れられました。半年間入院して退院。引きこもっている息子に、夫は怒りを募らせ、『いつまでゴロゴロしてるんだ』と怒鳴りました。息子は夫に『オレを気違い扱いしやがって』と怒鳴り、殴り合いのけんかになりました。私は絶望的になり、家を飛び出し、死に場所を求めて歩き回りましたが、息子のこれからが心配で、死ねず、家に戻りました。家中、めちゃくちゃでした。夫は毎晩遅くまで酒を飲むようになり、酔って帰ってくれば私を『お前の育て方が悪いからこうなるんだ』と殴りました。仕方ありません、だって、息子を甘やかして育てた自分が悪いんですもの。私は息子のことを、実家の両親にも親しい友人にも言えませんでした。夫はそのうち、家に帰ってこなくなり、結局、別れました。慰謝料はもらえません。パートを掛け持ちしてなんとか息子を育ててきましたが、過労で倒れ、職場もクビになり、現在は生活保護を受けて暮らしています。この子は私がいなければ何にもできない。私はこの子を残して死ぬわけにはいかない…」

 この事例はフィクションですが、精神保健の世界では、さほど極端ともいえないケースです。なぜこの方がこのように苦しまなければならないのかを考えたときに、その苦しみから救われるためには、深く深くこの方を抑圧している長い歴史に根差した偏見・差別といったものを明らかにしていく必要がある。病気になっても言えないのはなぜか、なぜ父親ではなく母親が支えているのか、その母親がこの子は私なしでは生きていけないと思うのはなぜか。あたかもそう思うのが当然であるがごとく、ずっと昔からそういうものだとされてきたからです。
 まずは、精神障害者処遇の歴史。100年前、精神障害者は座敷牢に入れられ(私宅監置)、家族が一生面倒をみることが義務付けられていました(呉秀三「精神病者には二重の不幸がある。この病気にかかった不幸と、この国に生まれた不幸と…」)。戦後に精神病院の設置が進みましたが、あくまで社会防衛のためであり、一生病院に入りっぱなし。1950年代に開発された抗精神病薬により症状が著しく改善し、欧米では地域移行が進みましたが、日本では回復しても精神病院に入れっぱなし(社会的入院)。1980年代、宇都宮病院事件(入院患者が看護者のリンチを受け殺害された事件)などを契機に、日本の人権無視の精神障害者処遇が世界的な批判を受け、ようやく変わってきました。ただ、座敷牢であれ精神病院であれ、長らく精神障害者隔離政策が続けられていただけに、無理解や偏見や差別は、実に根深いものがあります。それは今なお、精神障害者とその家族の孤立、沈黙、不信、あるいは、数多くの悲劇をも生んでいます。
さらに、精神のみならず障害者を支える家族が往々にして母親であることについては、日本が「男は仕事、女は家庭」「子育ては母親が担う」という性別役割分担意識が根強いお国柄であることも大きな要因として考えられます。歴史的に長らく形成されてきた家制度が、制度的にはなくなったとしても、意識ではなお根強く残っているからこそ、この方を縛っているのです。
 そして、この方のみならず困難な状況に置かれている多くの人が救われるためにどうあればいいのか。100年なり200年なりかかってこうなっているのは、気休めの言葉で解消されるわけではないし、すぐすぐ変わるわけでもない。やはり、歴史に根差した苦しみの根っこを探り当て、その人自身が声を上げ、関心と理解の輪を広げ、少しずつ社会を変えていくほかない。歴史を学ぶとは、地道にやろう!って覚悟を固めることができる効用もあります。

0-3-2 歴史研究における近現代史の特殊性

 歴史研究には、旧石器、縄文、弥生…近現代までさまざまありますが、中でも近現代史が特殊なのは、対象も、かつ、対象に向き合う私自身あなた自身も生きているということです。ゆえ、近現代は純然たる客観的な対象たり得ない。あなたによって、変わり得る歴史、なかったことにもできる歴史、それが近現代です。例えば、今このタイミングで一条の文集を復刻しなかったら、いったどうなっていたのでしょうか? また、近現代研究のもう一つの特殊性として、近現代の諸課題を、それより以前の歴史と照らし合わせ、問い直すことで逆照射することが可能でもあることも挙げられます。その実践の一つが、森崎和江『北上幻想』と言えましょう。

0-3-3 「研究」と「研究準備」:布施研究準備会事務局、一条文集復刻者として

 私は研究者ではありません。研究準備を担っている、と自負しています。私の役目は、研究者のお手伝い以上のものではありませんが、そこに積極的な意味をも認めています。すなわち、研究者が研究するためには研究するための素材が必要ですが、今、果たしてその素材は十分にあるでしょうか? という問題提起でもあるということです。例えば、岩手の女性史を研究する上で、一条の業績は大きい。その業績の土台である文集ですが、半ば散逸しています。一条の文集は全県的、全国的な文集(ミニコミ)運動のただ中にありましたが、その奔流を裏付ける文集も散逸しています。こうしたスカスカの現状に在って、私としては手持ち資料を基に研究する時間があったら、むしろ素材を探し出し、将来的にどなたかが研究するとき便利なように、基礎資料の充実に力を注ぎたい。むろん、将来どなたかが研究するかどうかは知らない。でも、誰かが研究したいなと思ったとき、その人が研究する/しないという選択肢を私が奪うことはできない。
 「運動/研究」と大別するならば、私にとって盛岡ハートネットの活動は「運動」で、一条の文集復刻や布施の資料集刊行は「研究」となりましょうが、どちらかに特化する気はありません。自らの現在の問題意識抜きに、過去を掘り起こすことには、魅力を感じません。
 「運動」か「研究」か。私思うに、どっちかに特化せず、どっちもやった方が、よりよい「運動」になり、よりよい「研究」になると思います。
 じゃあ、どうすればいいの? うまくやればいいと思います。
by open-to-love | 2010-02-11 22:01 | 黒田:岩手大学術講演会 | Trackback | Comments(0)