精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その71

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』………その71

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

九 法改正運動における家族(会)の存在
 振り返ってみれば、昭和四〇年の法改正の主流は明らかに日本精神神経学会や日本精神病院協会などの一部有志の精神科医グループであり、全国に三々五々散らばっていた家族会は、改悪反対運動のいわば旗印として、全国規模の当事者団体であるということで便宜的かつかなり意図的に組織されたふしがあります。もちろん生まれるべくして発足し、主体的な判断をして行動したのでしょうが、周囲の状況や役員のメンバー構成や活動内容から永続的に行政や政治家を動かすに足る組織力をもつ団体ではないと言われました。それはその後の本会の歩んだ道がある程度示しています。
 昭和四〇年代、精神病院告発、大学医局講座制解体などの嵐や、精神医学・反精神医学論争が盛んになるころ、一時期、部分的に病院告発、精神医療批判に同調した動きを見せたこともありましたが、それは長続きしませんでした。むしろ役員同士に批判などが出てきて家族会の足並みが乱れ、家族会の力が鈍化してしまったのです。そのころ我が国の各種福祉領域、とりわけ精神薄弱者や身体障害者の福祉が国の高度経済成長の結果を受け、各種の施設や制度が整備されていったにもかかわらず、です。全家連にとってこの約十数年は雌伏の時代であったと言えます。
 さて、昭和六二年の法改正にどうかかわったか、その評価は別として、事実関係について記しておきましょう。昭和五六年当時、「保安処分」問題で日弁連に招かれた全家連は、精神医療、社会復帰施策の段階的積み重ねをする道が効果的という従来の経過を踏まえ、基本的に「精神医療の改善による問題解決」を一貫して主張しました。そしてそれは弁護士会の主張でもありました。昭和五八年の国の精神衛生実態調査問題で、全家連が、社会復帰施策企画のためには精神衛生実態調査も必要=基本的には賛成と態度表明した段階で、一部弁護士グループと意見および運動の〓〓を来しました。それに続く昭和五九年の宇都宮精神病院リンチ殺人事件をめぐり、弁護士グループはより明快に患者の人権擁護の主張を主軸に告発などに方向づけし、家族会は与党国会議員の集まりである精神障害者社会復帰促進議員懇話会への協力依頼による具体的な社会復帰対策を急がせる方向へ歩みました。そして弁護士グループが国連人権小委員会へ問題提起をした結果、ICJ(国際法律家委員会)、DPI(障害者インターナショナル)の調査団来日となりました。調査団と会った家族会は、日本の政治、行政の仕組みにおける精神医療と社会復帰施策の現実的、具体的改革に的を絞り、それを強くアピールしました。他方、そのころすでにいくつかの行動で政府、与党寄りと見られていた全家連の請願活動は、与党や精社懇議員の立場から見れば、請願の手続きそのものはむしろ野党的方法であり、奇異に写ると評されつつ、従来からのスローガンである精神障害者福祉法制定のための五〇万人署名を集めて国会請願を実施しました。こうした間、国際的世論という外圧に弱い(?)政府は昭和六〇年八月精神衛生法改正を示唆し、国連の場でも小林秀資精神衛生課長が改正を明言しました。はたして何が政府部内で法改正を決意させた動機となったのか依然として不明です。
 そんな訳で、宇都宮精神病院事件の後はガイドライン部会、次いで法改正のための精神保健基本問題懇話会、公衆衛生審議会精神衛生部会などを経て、精神衛生関係二四団体からの意見聴取に際しては、全家連は先の「生活実態調査」から絞り出した社会復帰問題一本に意見をまとめて強調しました。その結果昭和六一年秋までに厚生省内では改正法案作り作業が進められました。改正法文案は当初審議会中間答申などかなりの改革案を盛り込んでありましたが、各省庁間や各種法制度の調整もあって、予算非関連法案としてまとめられ、与党内に設けられた精神衛生法問題小委員会に付されました。小委員会に呼ばれた関係団体は、日本精神病院協会、自治体病院協議会、日本精神科看護技術協会、日本精神神経学会、そして全家連などであり、それぞれの意見を述べました。しかし国会提出された改正法案は、折悪しく大型間接税論議の犠牲となって三月の国会では危うく廃案になりかかり、ようやく夏の国会へ継続審議となりました。全家連としては二二年ぶりの人権と社会復帰を中心とした法改正であり、多少不満足ではあっても是が非でも通さなければと考え、本間長吾理事長を先頭に足繁く精社懇議員(その多くが与党社会部会議員)へ陳情を繰り返しました。他方、野党の社会労働委員会所属議員へは選出地元県連役員が地元私宅や東京の議員宿舎へ電話陳情するなどしました。
 昭和六二年夏、一時日本精神病院協会が罰則規定がやたらに多いなどの理由で成立反対の意向を示したという噂を聞き、与党議員がひるむように見えたこともありましたが、全家連としてはむしろいっそうの波状的陳情を強めました。九月の衆参両社会労働委員会および本会議の舞台裏と壇上ではぎりぎりまで成否が予断できず、時には国会内控室で関係議員に陳情するなどしました。こうして九月一五日の裁決日の傍聴席には、自治労精神医療評議会、日本PSW協会、東大赤レンガ、一部弁護士、医労協、日本精神神経学会、日本精神病院協会、そして本会役員という精神医療史に類例を見ない、従来の運動や諸活動からみれば呉越同舟のようなそれぞれの立場の者が列席する中で精神保健法が誕生したのです。その当時の読売新聞の記事には「政府提出法案は、それまでの隔離主義、入院中心型から社会参加型への転換である。当初は与野党が法案審議に足並みをそろえ、スムースに運びそうな情勢だったが、私立病院の団体が新設の罰則の削除などを急に求めたりしたため、与党内で慎重論が強まった。そんな中で一転して自民党が法案審議に踏み切った背景には、これ以上審議を遅らすと今国会の法案成立が難しくなり、国際的にも大きな非難を浴びることは必至という状況判断があった。そして何よりも約一〇万人が加盟する全国精神障害者家族会連合会を中心とする法律改正派の人たちの強い要請があった」と書かれていました。
by open-to-love | 2009-12-29 10:55 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)