精神障害がある当事者、家族、関係者、市民のネットワークを目指して


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滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』その7

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』その7

滝沢武久著『こころの病いと家族のこころ』(1993年、中央法規)

五 生きる力
 しかし私はそうした運命を断じて受けることはできませんでした。むしろ何度も煩悶し逃避することを試みました。大学四年の夏から秋、多くの級友は就職のため慌ただしく過ごしました。私は定時制の都立高校という生計の就職先をもっていたため逆にのんびりと九州一人旅などしました。ちょうど昭和四〇年の精神衛生法の改正があり、大学の求人カードに精神衛生相談員募集が目につきました。だが私自身、秘かにこの問題に最大の関心をもちつつも、その発病のメカニズムが不明の中に職業者として飛び込んで、ひょっとすると自分も発病するかもという不安がありました(ミイラ取りがミイラになる)。そのまま夜間高校の事務員をしばらく続けていても生活できるし、場合によっては一生学校の事務職をしたって立派な仕事(公務員)であると考え、就職の決定を留保したものでした。
 そんな卒業間近の二月、クラスでスキー旅行しようということになり、私も久しぶりに、しかも熱心に誘われました。当時の級友の多くは経済的に余裕がなく、また、スキーができるものは参加者四五人中四、五人くらいしかおらず、私も初心者の何人かに得意顔でスキーを教えたりしての温泉二泊旅行となりました。その夜、ビールを飲みながら、コーラス部、テニス部の私が親しかった男女級友(旧友?)からしみじみと言われました。「君は、三年前の一年の秋以来、急に人が変わったように級友とも付き合わなくなって不思議だった。もちろん今でもその理由は分からないが、何か深い悩みでもあったのかしらと心配したものの、だれもどうにもしてあげられず、声をかけても振り向かないのでとりつくしまもなかった。でも四年間独力で生活費を稼ぎ通し、一緒に卒業できて、今では何人かが滝沢君をうらやましいくらいだと言っている。親のすねをかじらなくて偉かったね」などなど。私は笑って何も答えませんでした。かじろうにもかじるすねはなく、かといって精神病の兄がいたからやむをえず、あえて孤立したふりをしなければならなかったのだ、とも言えず……。そんな談笑の顔ぶれの中に一年のとき、私がひそかに好感をもった女性も親しい男友達の傍らにいて、同調してくれましたが、その笑顔を見て私に何が言えましょうか! 私は、深夜一人でそっと部屋を抜け出し真っ暗な風呂場でゆっくり湯舟に入って考え込んだものでした。そうするより仕方がなかったとはいえ、わびしさとともにいささか取り返しのつかない後悔に似たほろ苦い想いでした。
by open-to-love | 2009-12-28 09:57 | 滝沢武久 | Trackback | Comments(0)