知識が父を変えた
2008年 05月 30日
特集1 なまけてるって思わないで! 私はなまけてるんじゃないんです
知識が父を変えた(北海道 女性)
うつ病になってから18年がたちました。現在38歳です。うつ病になったのは、大学生のときでした。
私は、大学時代はソフトボール部のキャプテンをしていました。父は昔から野球が好きで、女の私がソフトボールの道を選んだことをとても喜んでいました。
性格も活発だった私でしたが、キャプテンになってしばらくしてから、気持ちがどんどん不安になっていきました。チームの人間関係のこと、試合までの調整のこと、チームをどのように強くするのか、などが頭から離れないのです。
早朝に目が覚めるようになりましたが、そのときには必ず、それらのことが頭に浮かんできていました。だから、たぶん、寝ているときも、ソフトボールのことばかりを考えていたのだと思います。
そんなことが続いて、こんどはなぜ自分がキャプテンをしているのだろうか、と思い始めて、それから、大学には行くことができなくなっていきました。
大学の保健センターの先生とは仲がよかったのですが、その先生のすすめもあって、精神科を受診して、入院することになりました。かなり重いうつ病だったのです。
1カ月の入院後、大学を休学して、実家に戻りました。退院をしたとはいっても、何もする気力がなくて、とにかく、疲れていたので、寝ていました。
そんな私に、父親は、「そんなふうに育てた覚えはない」「しっかりしろ」「根性をきたえなおせ」と言い続けました。私も本当にそのとおりだと思いました。
「私はなんてなさけないのだろうか」
「苦労して大学に入れてくれた両親に申し訳がたたない」
と自分を責めてばかりいました。それでも私は気力をなくし、空気が抜けた風船のように、ぐったりとしているしかありませんでした。
結局、大学は中退することになり、そのことも私にとってはとてもつらいできごととなりました。両親の関係も悪くなり、自分のせいで、家族がこわれていくような気持ちでした。
それでも、薬のせいなのか、寝ていたせいなのか、少し気力が出てきましたが、そんなある日、私は自宅近くの踏切にふらふらと飛び込もうとしました。近くにいた人がぐいっと引き止めてくれたので、命に別状はありませんでした。
それがきっかけで再び入院をしました。両親は、私の自殺未遂がきっかけで、病気のことを勉強し始めたようでした。私の発病から5年がたっていました。
一番大きく変わったのは父親でした。根性の人でもあり、義理人情の人でもあった父親は、病気のことを学び、私に対して、しみじみと、「悪かったぁ」と言いました。家族3人で泣きました。
なまけているわけじゃないのに、なまけているように見えてしまう。とてもいやなことです。私自身も、家族もみんなつらい思いをしました。
私は、私を責め続けた父親のことを憎いと思っていません。でも、とても言葉では言い表せないぐらい、つらくて悲しかったです。なぜなら、私自身が、そんな自分がいやだったし、もっとしっかりしろよ、と自分に対して思っていたからです。その気持ちを両親が分かってくれていない、ということがつらくて悲しかったのです。
父親が変わったのは、知識のおかげです。こうした病気は疲れやすい、という非常にシンプルなことを学んだからです。いま、エイズのことを学校で学ぶようになっていますが、精神科の病気のことも学校で教えるような時代になると、ずいぶんと社会も変わるのではないかと、私の体験から感じております。
(コンボ『メンタルヘルスマガジン こころの元気+』6号 2007年8月)
知識が父を変えた(北海道 女性)
うつ病になってから18年がたちました。現在38歳です。うつ病になったのは、大学生のときでした。
私は、大学時代はソフトボール部のキャプテンをしていました。父は昔から野球が好きで、女の私がソフトボールの道を選んだことをとても喜んでいました。
性格も活発だった私でしたが、キャプテンになってしばらくしてから、気持ちがどんどん不安になっていきました。チームの人間関係のこと、試合までの調整のこと、チームをどのように強くするのか、などが頭から離れないのです。
早朝に目が覚めるようになりましたが、そのときには必ず、それらのことが頭に浮かんできていました。だから、たぶん、寝ているときも、ソフトボールのことばかりを考えていたのだと思います。
そんなことが続いて、こんどはなぜ自分がキャプテンをしているのだろうか、と思い始めて、それから、大学には行くことができなくなっていきました。
大学の保健センターの先生とは仲がよかったのですが、その先生のすすめもあって、精神科を受診して、入院することになりました。かなり重いうつ病だったのです。
1カ月の入院後、大学を休学して、実家に戻りました。退院をしたとはいっても、何もする気力がなくて、とにかく、疲れていたので、寝ていました。
そんな私に、父親は、「そんなふうに育てた覚えはない」「しっかりしろ」「根性をきたえなおせ」と言い続けました。私も本当にそのとおりだと思いました。
「私はなんてなさけないのだろうか」
「苦労して大学に入れてくれた両親に申し訳がたたない」
と自分を責めてばかりいました。それでも私は気力をなくし、空気が抜けた風船のように、ぐったりとしているしかありませんでした。
結局、大学は中退することになり、そのことも私にとってはとてもつらいできごととなりました。両親の関係も悪くなり、自分のせいで、家族がこわれていくような気持ちでした。
それでも、薬のせいなのか、寝ていたせいなのか、少し気力が出てきましたが、そんなある日、私は自宅近くの踏切にふらふらと飛び込もうとしました。近くにいた人がぐいっと引き止めてくれたので、命に別状はありませんでした。
それがきっかけで再び入院をしました。両親は、私の自殺未遂がきっかけで、病気のことを勉強し始めたようでした。私の発病から5年がたっていました。
一番大きく変わったのは父親でした。根性の人でもあり、義理人情の人でもあった父親は、病気のことを学び、私に対して、しみじみと、「悪かったぁ」と言いました。家族3人で泣きました。
なまけているわけじゃないのに、なまけているように見えてしまう。とてもいやなことです。私自身も、家族もみんなつらい思いをしました。
私は、私を責め続けた父親のことを憎いと思っていません。でも、とても言葉では言い表せないぐらい、つらくて悲しかったです。なぜなら、私自身が、そんな自分がいやだったし、もっとしっかりしろよ、と自分に対して思っていたからです。その気持ちを両親が分かってくれていない、ということがつらくて悲しかったのです。
父親が変わったのは、知識のおかげです。こうした病気は疲れやすい、という非常にシンプルなことを学んだからです。いま、エイズのことを学校で学ぶようになっていますが、精神科の病気のことも学校で教えるような時代になると、ずいぶんと社会も変わるのではないかと、私の体験から感じております。
(コンボ『メンタルヘルスマガジン こころの元気+』6号 2007年8月)
by open-to-love
| 2008-05-30 20:53
| 教育
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