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人権の歴史ー女性問題

人権の歴史ー女性問題

古代
 すでに家父長制を成立させていた中国の国家の仕組みと法を取り入れた、日本の律令制国家の成立は、当然、家父長思想の取り入れとその実施を女性にもたらすものであり、男性優位の意識を人々に植え付けるものでもあった。
 しかし男性が戸主とされるなど、国家とかかわる場では肩を並べることができなかった古代女性も、経済的に対等であることを基礎として、村の生活での政治的・社会的な対等は保障されていた。当時の豪族層では、夫と妻からなる家長(いえぎみ)と家室(いえとじ)が共同で経営を行っていたことは、9世紀初めに成立した仏教説話集『日本霊異記』にみられる。また夫と妻が自分のわずかな財産を持ち寄ってつくる当時の一般農民層の家族は、所有・経営権をつかさどる家長に統率された、自立できる経済的単位には程遠い不安定なものであり、複合大家族であったと考えるのが一般的であろう。
 一方、9世紀後半から、仏教的女性差別観はまず貴族社会で受容され、その後尼寺の衰退や女人結界が問題になる。そして女性罪業観は一層広範に社会をおおっていった。
 他方、遊女(あそび)たちは、性を売る女性ではあったが、芸能民ともいうべき質の高い芸を身につけていた。また妻に貞操観念の強制はみられない。
 さらに『蜻蛉(かげろう)日記』(1020年頃)からは、当時の貴族女性が夫(男性)にとって役立つ(出産できる)か否かで評価されているのがわかる。しかし筆者の道綱の妻が夫に対し自己主張する姿も見逃せない。そして家に取り込まれた女性は男性に従属はしたが、受領の妻のように任国(にんごく)で家政全般を管理分担する役割を担い、夫とともに家を盛り立てていくことを受け持った女性たちもいた。いずれにせよ、家父長制家族は萌芽的段階にあったといえる。

中世
 11世紀後半には古代的共同社会がくずれ、家は新しい社会的単位となった。多くの従者や下人を統括する権限を持った家長が女性や子供も従わせる、家父長制家族としての家である。そしてわが国に今日でも影響を及ぼしている家の成立を、ここにみることとなる。
 家父長制の成立は、仏教的女性差別観に現実的基盤を与え、12世紀前半に成立した『今昔物語集』では、女性を単に仏道修行上の悲器(ひき)としてだけでなく、人間的に劣悪な存在として語っている。そして女性の存在価値は、家父長の後継者を産む母性機能に限定されるようになっていった。とはいうものの、家父長に従うようになっても、家のなかのことは家父長の妻が取りしきり、強い権限を持っていた。いわゆる主婦権の成立である。また主婦権を持つ妻は、いろりの中央に座ることができた。つまり同じく家父長制家族といっても、明治期のそれとは大幅に異なっていた。
 さらに新しく台頭してきた商品経済活動(振売=ふりうり)を担ったのは女性であり、将軍家、公家の家政においても、経済力を背景に女性(妻)たちの積極的な対応がみられる。また女性にも一応の相続権、財産権があり、後家は家父長権を受け継ぎ、子へ伝える仲立ちをしている。しかし庶民クラスでは、女性は主人(雇主)の家父長権と夫の家父長権の二重支配のなかにあった。
 他方、鎌倉期にはおおらかな性関係の認容という面も残されていた。処女性などの観念は弱く、婚姻例などにみられるように、支配者層の女性(妻)へも貞操観は強要されていない。しかし、しだいに遊女たちは定住し始め、それとともに賤視される存在となっていった。
 また庶民層では、堕胎や間引きも行われており、そうしなければ自らが生きていけない状況があったといえる。

近世
 江戸期には、幕府を頂点として武士・農民それぞれの身分のものが、幕府に役(やく)を負担することを義務付けられていた。役を負担する単位が家でり、その家を代表するものが家長であったが、武士の家では軍役(ぐんやく)を勤められる男性のみがその地位を認められ、農民においても男性が村の一人前の成員である「本百姓」として位置付けられた。そして家長として認められない女性たちには「女大学」の道徳律が理想のあり方として求められた。
 しかし下層の人々(日々の暮らしに追われる水呑百姓や都市の借家住まいの人々)においては、女性が専業で手工業・商業に従事したり、他家に雇われて賃金を得たりしており、一人の労働者としての姿が見出される。「女大学」はこういった女性たちを、家父長制下の女性=貞淑といった規範に閉じ込める役割も果している。
 また女性が一人前には扱えない性とみなされていたとはいえ、上中層町家の女性たちは幼児期から読み・書きを習い相当の教育を受け、武家や公家の娘の結婚には一期分(いちごぶん)ではあるものの化粧料(土地)が与えられ、裕福な町家では動産(金銀、衣類)が分与され、家族と旅に出ることもあった。
 天保の改革(1841=天保12年頃)による男女間の身分秩序固守のための強圧政策は効果があがらず、秩序が動揺するなか、農村では場合によっては女性(母親)の相続人が出現し、幕末には政治活動に従事する女性もみられるようになり、多様な女性の姿が浮びあがってくる。
 他方、町共同体の掟により排除されつつあった遊女は、江戸幕府により遊廓に隔離され(公娼)、法的にも制度化された(公娼制)。それは茶屋女・飯盛女付旅籠屋(めしもりおんなつきはたごや)・辻売女といった私娼を取り込み、肥大化し、諸芸を兼ね備えた遊びから、売春を主体とする性格のものへと質的変化を余儀なくされていったといえる。

近代
 明治維新(1868年)による外国文化との接触から、暮らしは少しづつ変化していったが、戸籍法(1871年)の制定は「家」を単位として国民を把握しようとしたものであり、また妾の存在が公認されていた。
 明治民法は「戸主権」「男性長子相続」などの規定により、女性を無能力者扱いにし、一夫一婦制を建前としながら、実質的には一夫多妻制を容認していた。こうした「家」制度のもたらす悲劇は、広く文学の題材となり数多くの作品が生み出されてもいる。
 1872(明治5)年の「芸娼妓(げいしょうぎ)解放令」にもかかわらず、貸座敷制度(「本人真意にもとづく」のであれば許可する)として公認された近代の公娼制度は、国家による性管理の側面を持っていた。そして、そこには娘を娼妓に売らざるを得ないほど貧しい農民や労働者がいた。日本基督教夫人矯風会など、キリスト者を中心とする多くの人々によって廃娼運動は粘り強く闘われたが、ついに廃娼は実現せず、戦時下には大量の従軍慰安婦まで生み出すこととなった。
 一方、教育の面では、1872(明治5)年の学制発布により「男女の別なく小学に従事」することが説かれたが、実際には小守りなどの理由による女子の不就学が多くみられた。そのため1879(明治12)年の「教育令」では、女子のために裁縫科を設け、義務教育の振興を促そうとした。また自由民権思想の蔓延を恐れた政府は、翌1880(明治32)年の「高等女学校令」により、良妻賢母主義に基づく女子中等教育が制度的に確立し、中間層の主婦専業層が増加していったが、主婦の家事・育児に関する労働は、夫または家父長の管理の枠内であり、家父長的家族秩序は強化された。
 さらに女子高等教育については、女子大必要論も出されてはいたが、1918(大正7)年の臨時教育会議において、女子の高等教育は時期尚早であるとされ、高等女学校に専攻科・高等科を設置するにとどまった。
 他方、女性には参政権が認められていなかった。婦人参政権の必要が主張されるなか、全関西婦人連合会(全婦)は、1927(昭和2)年から1932(昭和7)年にかけて西日本で大規模な婦選請願書名運動を組織し、関東の婦選団体と共同戦線を張り、婦選運動の最高揚期を現出した。全婦の活動は中間層の女性たち、とりわけ地方の女性たちが社会に眼差しを向け、社会改良、女子教育の向上や婦選運動に参加していく水路となった。
 さらに女性に新しい職業がもたらされ、それらは社会的労働として評価されるものであった。明治後期(1890〜1910年頃)には女事務員・女店員も出現し、大正から昭和初期には女性の職業分野拡大による社会的経験の拡大、雑誌など大衆文化の盛行とともに「新しい女」現象を生んだ。しかし、女子工場労働者のほとんどは貧農の娘たちで、前借金を背負いながら過酷な労働・生活を送っていた。
 15年戦争期(1931〜1945年)には、男性の仕事を女性が代替しなければならず、仕事につく女性もいたが、総動員体制のなかで女性たちは、銃後の務め・護りを要求された。
 1940(昭和15)年、婦選獲得同盟は解散となり、1942(昭和17)年には婦人団体を統合した大日本婦人会が結成され、女性たちを戦争協力に駆り立てた。早婚、多子出産が期待され、子の養成が課題となり、母性は国家的母性として賛美の対象となった。

現代
 敗戦直後、なによりも早く占領軍向けの性的慰安施設が設置された事実は衝撃的である。さらに翌年には赤線(集娼地域)が生まれ、それは1958(昭和33)年売春防止法前面施行まで続く。新憲法は「家」制度や妻の無能力規定を廃止し、婦人参政権を実現し、女子に高等教育機関を開放した。しかし夫婦が法的平等に基づいて築く家庭とはいえ、「夫は仕事、妻は家庭」という性別役割分業を基礎にした社会構造は続いている。
 政治・経済体制が整った1955(昭和30)年には、主婦の生き方をめぐって主婦論争が起こされ、母親大会から「母親運動」という言葉も生まれた。さらに高度経済成長期である1960(昭和35)年代に入ると、家庭電化製品の普及、大規模団地の出現、家族形態の多様化などが起こり、「家」の実態や意識はくずれ始めた。経済発展は女性(母親)の再就職を促し、家庭と仕事を両立させる課題をもたらしたが、政府や経済界は女性の家庭での役割を強調した。
 1970(昭和45)年代に入ると、アメリカの女性解放運動がウーマン・リブとして日本にも紹介された。
 戦後の女性たちの活動が、母親や女性労働者として、小児マヒから子供を守る運動、平和運動、保育所づくり、労働条件の改善、さらには若年定年制・結婚退職への異議といったものであったのに対し、ウーマン・リブは「女」の解放をめざすものであった。
 1972(昭和47)年には、優生保護法が経済的理由による中絶を認めないことへの動きを阻止し、経口避妊薬の解禁を要求した。しかしウーマン・リブは、運動として短命に終った。
 このような流れのなかで女性たちは、1974(昭和49)年に文相に家庭科の男女共修を要望し、翌年の国際婦人年をきっかけとして、性別役割分担を克服できるような両性の関係を求める動きを一段と活発にした。1986(昭和61)年には男女雇用機会均等法が施行され、1994(平成6)年には高校家庭科男女共修が開始された。男性たちの意識も変化しつつあり、法体制の不備な点の改正や検討も行われている。またそれとともに、女性学・女性史の学習が地域のなかや学問研究の場で盛んになってきている。
 制度的な男女間の不平等はしだいに解消され、目に見える形での女性差別は減少してきたものの、出産・育児・老人介護などは、慣習のなかで女性が責任を負わせられがちなこと、子供の教育機会がその子供の能力や個性によってではなく、性別によって制限されがちなことなど、現状に矛盾を感じながらもこれらを受容する、現実の営みがある。女性の人権の向上には両性相互の意識の変化が重要であろう。

(財団法人世界人権問題研究センター(代表・上田正昭)編『人権歴史年表』2004年、山川出版社)

執筆者一覧(2004年9月現在)
編集責任 秋定嘉和
執筆者
 異域・民族問題 菅沢庸子 仲尾宏 水野直樹
 同和問題 山本尚友
 障害者問題 村上則夫 田中和男
 社会福祉関係 田中和男
 女性問題 小林善帆
 世界の人権 竹本正幸
by open-to-love | 2007-10-27 09:51 | 考古学・歴史 | Trackback | Comments(0)